裏側の黒トロ
頭が締め付けられて粉々に砕けそうなーーーと文字通りに感じるくらい酷い頭痛と眩暈から解放されると、そこは見たことのない場所だった。 自分がどこにいるのか、どうやってここに来たのか、今まで何をしていたのかまるで分からなかった。 薄暗い屋内で、空気がひどくカビくさい。天井の明かりは切れていたが、扉の隙間から差し込むオレンジ色の明かりのおかげで、なんとか周囲は把握できた。人が住んでいるとは思えないがらんとした空間だ。なんの飾り気もなく、元は倉庫かなにかだろうか。 ここはいったいどこで、僕は何故ここにいるのか。何がなんだか分からないが、幸い近くには誰もおらず、ゆっくり混乱することも思い出すこともできた。 それで僕は、ここがウルダハの荒野、そのはずれにある廃坑の倉庫であることを思い出し、「あんな化け物なんか見張るんじゃなかった」と思った。
リムサ・ロミンサに入港した一団にいた、異様なエーテルの持ち主。僕はブランスウェルドに言われてそいつをひそかに見張っていた。といっても素人のすることで、今にして思うとどこかでバレていたのだろう。 昼下がりのカフェでそいつは、 「さっきから私のこと見てたわね」 どこか歌うような心地好い声で話しかけてきた。 「さっきから」と言われたのもあって、僕はたまたま今ここで、視線を向けていたことに気付かれただけなのだと判断した。だから、 「すみません」 僕は、”美人だったから、つい何度も見てしまった”ふりをした。
自慢できることでもないし、程でもないけれど、僕は嘘が下手ではないと思う。もしここで面と向かって「お姉さんが綺麗だったので」とか言うような臆面もない奴なら、視線に気付かれても平気なはずだ。 見ていた相手に突然声をかけられて驚いたのは、こんなセリフを口にしてあわよくばナンパを、なんて考えていなかったからだ。 だからと言ってあんまりウブくさいのも僕のキャラじゃない。 「つい、ちょっと。あんまりこの街にいない雰囲気の人だなと思って。すみません」 どことなく東国風の美女だったからついつい、というのを、僕は上手く匂わせられたし、演じられたはずだった。
実際どうだったのかは分からない。 ただ、僕は自惚れるような真似はしなかった。なにせ相手は、僕が生まれてから今まで一度も見たことがないようなエーテルの持ち主だ。複数の色が混じり合い、それが揺らめき蠢いているような有り様は、これがこの女の生命や感情の在り方だとしたら、人間には到底思えない。 しかもその顔は、たしかにすごいような美人だが本物ではなく、顔面の持つ微かなエーテルの下から、あの不気味なエーテルが揺らめき出していた。つまりは、表情も作れるしなんの違和感も覚えないとしても、仮面のようなものということだ。 だから僕は、不躾だったことを詫びてとっとと立ち去り、ブランスウェルドに報告するつもりでいた。僕はもう顔を見られたし、相手はやっぱりまともには思えないから、尾行と観察は僕なんかよりもっと上手い人、テルさんあたりに頼んだほうがいいし、なんならたとえ監視だろうと関わらないほうがいい、と。
なのに実際の僕はそう考えたことすら忘れて、微塵の警戒心も危機感もなくなって彼女とおしゃべりしていた。 テーブルの向かい側、空いていた椅子に優雅に腰掛けた彼女は、それだけで自慢に思えるくらいの美人だった。ほんのりと血の気を帯びた健康的な白い肌に、まっすぐな黒髪。色気はあるけれど下品ではなく、僕の他愛のない話にもよく笑ってくれる。 僕は、自分から人に話したことなんて一度もないこの眼の話まで、出会ったその日、そのときのテーブルでしていた。見ていたのは実は、あなたのエーテルが綺麗だったからだ、と。 そう、正気ではなかったけれど、不気味なエーテルだったからなんて言うほど意識がなかったわけじゃない。監視していたんだなんてことも、言ってないはずだ。不思議とそういう誤魔化しはし続けていた。 ただ、短い間に少しずつ、けれど急速に僕はおかしくなった。それは間違いない。 なにせ意気投合してバーに居場所を替え、その夜のうちにベッドイン、だ。そして夜明けにはもうブランスウェルドのことなど一瞬も思い出さず、彼女を手伝うと決めて恋人気取りで寄り添っていた。
笑いかけられ頼られると有頂天になって、ーーーああ、そうだ。その頃には僕はもう、自分が何故ここにいるのかも、彼女のエーテルが異様だということも、何一つ考えられなくなっていた。 だから、私を見ていた本当の理由はと尋ねられても、あなたみたいな美しい人がいれば誰だって見るに決まってるとか、僕はあなたと出会うために生まれてきたとか、そんなクソ馬鹿げたことをほざいたんだ。 ぞっこんすぎて完全におかしくなっていて、あの女にもそこはコントロールできなかったらしい。 ただただ僕は、彼女の歓心を買いたくて、彼女のためにならなんでもしてやろうと思い、なんでもできる気がした。 そして今、ここだ。
見たばかりの夢のように、はっきり覚えている部分とうろ覚えの部分がある。しかしどちらも油断すると完全に忘れ去りそうな気配がする。夢そのものをではなく、夢を思い返した記憶を覚えないと、一度意識からはずしたが最後、思い出せなくなる気がする。 だから僕は思い出せるかぎりを思い出しながら、それを逐一反芻し、記憶に刻みつけた。 そして僕はウルダハに連れてこられてからのことを、自分がここで何をしていたのかを思い出した。
床の埃には子供の足跡が刻まれている。 吐き気がする。 子供を誘拐する手伝いをさせられていた。 この僕が。よりにもよって。 ただ彼女に愛され認められる、そのためだけに。 僕はすがるような思いで彼女の指示……お願いを聞いて、ありがとうと言われるためだけに2人の子供をここへ連れてきたのだ。
強力な洗脳だろう。頭の中身を根こそぎ替えられたようなひどい気分だ。今の自分が正気なのか、少し心許ない。 それでも今のこの思考は僕自身だと思える。少なくとも洗脳されていた間は、何かを考えた感覚がない。無条件、無批判に動いていた。
ただ―――まるきり違う人格を植え付けられていたわけでは、ないと思う。 誰かに愛され、頼られ、称賛され、認められること。 そして、好きよという言葉、さすがねという言葉、そんな言葉に一切の疑問を持たず、疑惑を挟まずに信じ、浸る安らぎ。 それを心地好く感じていたのは……求めていたのは、間違いなく僕自身だ。
ただ、たとえそのためでも絶対に我慢のできないことがある。 僕は、子供なんて基本的に嫌いだ。自分もそうだったことを棚に上げても含めてでも、勝手でうるさくて邪魔くさくて面倒で、鬱陶しくて腹が立つことばかり。 だが僕の好悪と子供の権利は別だ。子供にはただただ今日と明日をのほほんと、ケラケラ笑って生きていく権利がある。 わけもなく苦しめられたり虐げられたり、ましてや殺されたりしていいわけがない。 泣いてわめいて怒られて邪魔くさがられて、時には殴られたりすることくらいはあったとしても、誰だってそれなりに、そこそこには、笑ってのんきに生きていていいはずだ。 僕は、なんの力も頭もない子供が、大人の都合で人生を奪われる、それだけは絶対に許せない。 おかげで僕は正気に戻ったらしい。
強力な洗脳のせいで、子供をさらうと言われたそのときに解除されなかったのは、この場合幸いなんだろう。もしそこで反応してしまっていたら、おそらく僕は今頃生きていない。 おおよそのことを思い出し、理解し、僕は僕だと確信を持てるようになると、次に考えるべきなのはどうするかだった。 ブランスゥエルドに連絡を入れるべきだろうが、そもそも「今」まさにこのときの僕自身の状況は、いまひとつ飲み込めていない。 彼女からお願いねと預けられ、ここへと連れてきた子供たちと、最初からいた1人。合計3人が2人組の男に連れていかれたのは見ている。僕はそれを見送って、何をしろと言いつけられていたのか。薄れて消えた夢の部分をどうにか思い出そうと努める。 この場にあいつ、クズハと名乗った女はいなかった。ここにいて指示を出していたのは、子供を連れて行ったのとは別のもう1人、側近みたいなニヤついた男だった。僕になにか言いつけたのはそいつで、だから印象が薄い。彼女の命令なら僕は、忠実な犬のようにその指示を刻みつけたはずだ。 クズハからの次の頼みで、何をしろと言われたんだったか。半歩ずつ辿って引き返すように探って、どうにか思い出した。
後始末だ。エーテルを見る能力を使えば、人がいた痕跡を消すのは楽だ。だから僕は打ってつけだった。 一つきっかけがあれば後は芋づる式で、クズハは次の獲物を物色しに行っていること、搬送係の連中が南海沖の船まで子供たちを運ぶことも思い出せた。 そして僕は、ここの始末をつけたらーーー…くそっ。僕自身を始末することになっていたのか!
完全に洗脳できていないことに気づいたんだろう。 そして僕は僕で、子供を犠牲にするなんて冗談じゃないという思いと、クズハ本人ではなく間接で自死を命じられたことが重なって、自我を取り戻したのかもしれない。 なんにせよ、クズハに見つかれば殺される。内情を知っている出来損ないの木偶を、放っておくわけがない。 死に方を命令されておらず、見届け係がいないのもまた不幸中の幸いで、死体がすぐに見つからなくても問題はない。だから、見つかりさえしなければ猶予はある。その猶予で僕のすべきことは何か。
まず子供は助けたい。クソガキだろうと僕に取捨選択をする権利はない。 助けるにも二通りある。片方は、これからクズハがさらう子供だ。だがそっちに手を出せば僕も見つかるし、見つかれば勝ち目はない。僕は死ぬし子供はそのままさらわれる。こっちの選択は諦めるしかない。 だが、既にさらわれた子供、船に運ばれた子供なら助け出せる可能性はある。 ただ……助けると言っても、ついてこいと言われれば素直についていく、あの子供たちも洗脳されていた。僕にかけられたものと変わりないとしたら相当強力で、身柄は取り返せたとしてもただそれだけかもしれない。だがだとしても、だから放っておくというのは違う。
僕が思い出せるかぎりにおいて、危険なのはクズハだけだ。あとは全員が、程度の差はあれ洗脳された傀儡で、まともな人間では太刀打ちできないというわけではない。 沖合の船に強制検閲をかけるなら軍の力が不可欠だろう。僕の話だけでは信用が薄いが、誘拐の件数がそこそこある以上は、情報が完全に無視されることはないと思える。 そのへんの街道警備に伝言を頼んだのでは不確定すぎる。僕自身が自分の体験と見たこと聞いたことをもとに説得するしかない。 懸念があるとしたら、すぐに動いてはくれないだろうということだ。それがお役所ってものだからクソ仕方がない。もたもたしていると船は出てしまうし、となると、ーーー海の上のことならブランスウェルドに言えば……。 海賊である彼が見ず知らずの赤の他人のクソどうでもいいクソガキ様たちを助けるかどうかは分からない。けれど僕が頼めば……なんでも言うことを聞いてくれる、なんてことはない。でも3日やそこらなんでも好きにしていいからと言えば、取引には乗ってくれるはずだ。
どちらにしても王都には行かざるをえない。僕がブランスウェルドから預かっていたリンクパールは当然取り上げられているから、どこかで借りる他ないのだから。 クズハが王都にいる可能性は低くなく、見つかればそこで終わりだ。だが他に手を思いつかない以上、迷っている暇はなかった。 それに、少なくとも今の僕は、自分が見張る相手がどんな化け物かも知らなかった最初の僕ではない。必要な警戒は学んでいる。 そしてもう一つ。クズハは化け物だが、僕が覚えている限り、異様なのは能力の話だと思う。 人を支配し悦に入る。僕が彼女を女王のように崇めれば、見た目には異様なエーテルだが、その反応は歓喜、悦楽、そして返礼の愛情。指示を理解できない手下に苛立ち、嫌悪する。傲慢や、嘲弄。そんな感情は普通の人間と同じだった。 要するに中身は、子供を売って別に金がほしいわけでもなく、ただただいたぶって不幸にしてそれを楽しいと思う歪んだ犯罪者ではあっても、理解不能、予測不能な怪物なわけじゃないということだ。
クズハの様子はたぶん、そろそろウルダハは潮時だ、というものだった。 さらった子供たちを船に乗せ、用済みというか危険要素のある僕を始末する。その間にもう一仕事して、ウルダハを去る。はっきりとそう聞いたわけではなくても、僕はそのつもりでいた。もちろん自分が消されることは別として。 子供をさらうのはクズハ自身だ。あいつの奇妙な洗脳能力で、なんの抵抗も違和感もなく子供を連れて行く。誰が思う? 嬉しそうに手を引かれ、満面の笑顔で見上げている相手が誘拐犯だなんて。親といたところで、その親を狂わせればいいだけのこと。束の間、世間話でもしたように見えて、親はもう自分の子供のことなんてまるきり意識しなくなる。 ぞっとするのは、そうやって確保した後で、僕がこの倉庫まで連れてきた子供もいるってことだ。僕は僕だから子供を可愛がるなんてしなくて、本当に僕自身がそうしているように、はしゃぐな騒ぐなとうんざりしながら連れてきた。……最悪だ。 ともかく、もう一仕事するというならクズハはまだウルダハにいる可能性が高く、そしてあの女は、自分が誰かに捕まるなんて思ってないから、堂々と街中を歩いているだろう。 迂闊に街に行けば、鉢合わせる可能性はある。
僕のこの、厄介でも便利な眼の弱点は、どうしたところで視覚だということだ。視界の中にさえ入れば、あの異様なエーテルは必ず分かる。だが後ろに現れたりしたら近付かれても分からない。 それでも、このままリムサに逃げ帰るという選択肢を取らない以上、やるしかなかった。
ウルダハ市内に戻り、クズハとその手下に見つからないよう、細心に寝床を探した。スラムと言っていいような裏通りの一本隣の路地で、とにかく安くて汚い宿を取る。クズハは決してこういう場所に寝泊まりしないだろうからだ。犯罪者でも、バレる気遣いがなければコソコソ隠れる必要はない。それで金には困っていないんだから、当然、格式高いとまではいかなくても居心地のいいホテルにする。リムサでもそうだったし、ウルダハで取った宿は王宮に続くゴールドコートの一角にあった。今もそこにいるかは分からないが、こんな木賃宿に泊まることはないだろう。 そこで朝を待った。リンクパールを借りられる場所は限られている。公共の役所、専門の貸出店、それからいくつかのギルド。一番敷居が低いのは冒険者ギルドだろう。そしてたぶんここから一番近い。 朝起きて、今日これからすることを考えたとき、どうして僕がこんな綱渡りみたいな真似をと思った。が、知ったことかと言えないんだからどうしようもない。 覚悟を決めて表に出ると、妙にすがすがしい朝だった。
空気がどこまでもピンと張りつめて透明で、世界の解像度が一段階ほど上がったように遠くまでくっきりと見える。乾燥したウルダハの町に漂う微細な砂の粒子までが、今朝は一粒ずつきらめいている気がするほどだ。……いや。気がする、ではなく、実際にそうだと思う。普段は曖昧だったり見分けがつきにくい部分がことごとく、クリアで鮮明だった。 僕の気分的には最悪の部類なのだが、覚悟が決まるとこんなものなのだろうか。それとも、そんな僕の気の持ちようのせいではなく、こういう天気でもあるのだろうか。
ーーー"未知"というのは、そういうことだ。自分の知っている常識の中で理解しようとする。空を飛ぶものを一度も見たことがない世界で、空から頭上に何かが落ちてくれば、空そのものが落としたと思うように。
僕はその奇妙に明晰で明瞭な朝の中を、せいぜい前後左右に気を付け目を配り、冒険者ギルドを目指した。そしてそこで、まぎれもない"未知"を見つけた。 僕の30年弱の常識に一度として存在しなかったものだ。 それは、エーテルのない人間だった。 普段よりくっきりと鮮やかな世界の中で、人々を覆うエーテルもまた揺らめきながらも普段よりもよく見える、その中に突然ぽっかりと、エーテルのない人の形だ。 ない。 存在しない。 ありえない。 たとえ死体でさえ、その肉体もまたエーテルの塊だ。活力がなく希薄で微弱にはなっていても肉体に宿るエーテルが僕には見える。草や木、動物はもちろん、石や土、そしてそれらが加工されたたとえ建物だろうとだ。放つ量は微々たるものでも、エーテルを含んで存在している。 だが"それ"だけは、エーテルをまとっても発してもいなかった。
ありえない。 人間でないというどころじゃない。生き物でもないし、なにか存在する”もの”でもない。 そもそも存在していないのででもないかぎり、エーテルがないなんてありえない。 ただ、一つだけ例外がある。それは僕自身だ。僕の目に、僕自身のエーテルだけは見えない。光の屈折率みたいなものだろうと理解している。だからたった一つこの世界でエーテルなしで見えるのは僕自身の体や鏡像で、しかし例外は一度としてなかった。
もしかして彼のエーテルは、完全に僕と同じなのだろうか? だから僕の目は、僕の目そのものと同じエーテルを完全に透過してしまって、見ることができないのか? ところで僕はいったいいつ、その人型から目を離したのだろうか。気が付けばそこには何もいなかった。 マジヤバいどころの話でないくらいにヤバいと直感した。 驚きに気をとられ束の間 目を離した隙に移動してしまった、というならいい。だが僕はずっと”それ”を見ていたはずなのにいつの間にか視界から消え、しかも、僕に見られたことに気が付いて姿を消したと感じていた。
”あれ”が何でどうヤバいのかはともかく、クズハという化け物に搦めとられていた僕は、種類は違うとしても同じ化け物に違いないものに敏感だった。 だが明らかに遅い逃亡だった。 とにかく見通しの悪い裏路地へ、と思って曲がった途端に固い手で壁に押さえつけられていた。
僕より頭一つは小柄なそいつは間違いなくあの人の形の何かで、信じられないほどクリアに人の形だけが見えた。 黒髪に、少し削げたような印象はあるが整った顔立ちの男だ。エーテルはやっぱり霞ほども見えない。その手は僕の胸のあたりを軽く押さえているだけなのに僕は指先まで動かせず、色味のない氷みたいな目に、まるきり無感動に見上げられていた。 瞬きもしない目は人形のそれよりも何も見ていないように見えて、僕をまっすぐに射抜いている。見下ろしているとガラス玉の目に僕の姿が映っていることまで見えるのは、何一つ覆うものも遮るものも、放たれるものも揺らめき立つものもないからだ。 そして僕の踵の1ミリ後ろは死への断崖だと思わずにはいられない。今まだ殺されていないのは、この"何か"が僕に聞きたいこと、僕から知りたいことがあるからだろう。
やがてそれは、 「“気"を見る眼か」 と小さく呟いて手を緩めた。 どうして分かったと、聞くのも馬鹿らしい。エーテルを持たないなんていうありえない存在なら、他のどんなありえないことがあっても不思議じゃない。 「何故わしを見た」 脳に食い込むような言葉は、クズハの甘言に似ている。まったくの言葉足らずのようで、否応なく僕の脳に、直接その意味を叩きつけてくる。こいつは、「他にも人はいたのに何故自分を注視したのか」と聞いていた。 「じ、自覚がないなら言いますが、あなた、エーテルがないんですよ」 人の言葉で話しかけられてようやく僕も口がきけた。
「して、何故わしを恐れる」 エーテルがないものなどこの世には存在しない。それをいつもこの眼で見ているのに、突然エーテルのない人型のものを見れば恐れて当たり前だが、こいつが聞いているのはそういうことじゃない。 「あなたとは逆ですが、最近、異様なエーテルの持ち主と関わりまして」 言った途端に、初めて僕はそのヒトガタから、小さな稲妻のようなエーテルが弾けるのを見た。
僕の眼に見えるものを、エーテルの見えない人に伝えることは難しい。けれどそのときの経験をどうにか言葉にすれば、「世界の明瞭さが、一瞬でそいつに吸い込まれた」といったところだ。 音もなく、衝撃もなく、なんの強さも激しさもなく、すっと吸い込まれた。そして世界はいつも僕が見ていたとおりのぼんやりしたそこそこの場所に戻り、僕は理解した。 僕の前にいるのは、クズハを軽く凌駕する規格外の化け物だ、と。
こいつは自分の気、エーテルをこの区画、ともすると街全体にまで広げて覆っていた。 僕の目に映る世界すべてがこいつの気に包まれて、その気と同じ透明度になっていた。だから世界はあんなにも明瞭でクリアだった。 そして僕は、とっくにこいつのエーテルを見ていた。その、限りなく透明で硬質な、すべてを包む空気として。 それが今、小さなヒトガタにまで縮小されて初めて、人のエーテルとしてそこにあった。 体を、存在を覆うのではなく逆に、人の形の薄皮一枚下。そこにぴったりとおさまった、おそろしくお行儀のいい、完璧に制御された気だ。 それもやはりありえない。自分の命そのものをコントロールするなんてことが、できるはずはないからだ。だがそいつのその僅かにも広がらず揺らめかない気は、完全にそいつ自身に使われていた。
クズハは僕を懐柔し、篭絡し、洗脳して支配した。だから僕は、クズハに聞かれたことならなんでも答えた。 だが僕は今、完全に僕自身の意思で、聞かれたことに答えた。問いは淡々としていて、特に脅迫されたわけでもなくても、逆らっていいことなど何一つないのは明白がうえにも明白だった。 それにこいつはクズハを追う側だった。いつどこで会い、何を知っているか。端的に聞きたいことだけ聞くと、 「疾く去ね。子らのことは、わしに任せよ」 そう言って消えた。
消えたとしか言えない。 路地裏の影に一歩下がった後には、もう見えなかった。 僕は化け物から解放された安堵でその場に座り込んでしまった。
トクイネ、という言葉は聞いたことがなかったが、それが「とっとと去れ」ということは当然のように分かった。 できればそうしたいが、ウルダハから出るにしても手間はかかる。リムサまで帰るならなおさらだ。 抜けた腰がどうにか戻ったとき、僕は内心で「そんなこと言われても」と毒づきながら、最初の予定どおり冒険者ギルドを目指した。 疲労はもう一日中逃げ隠れしていたのかというほどひどかった。それでもせいぜいクズハたちのことは気をつけたし、幸い見つかることはなかった。 借りたリンクパールでブランスウェルドと話すと、なにか言う前に 『分かってる。シルバーバザーに来い』 それだけだった。
お使いの最後の最後、帰るコールをした後で事故るなんてのは勘弁したくて、できるだけ慎重に、気を抜かないようにして王都の南、海岸沿いにある漁村を目指した。そして僕はそこで、ブランスウェルドの手下として知っている灰色のミコッテ爺を見て、またほっとするあまり腰が砕けそうになった。 「えでえ目に遭っだな。も”お大事ねえぜ」 酒焼けしたひどいしゃがれ声で言うのを聞いて、そうか、ブランスウェルドはクズハはともかくとして、僕の動向は追ってたんだと今更考えついた。 監視をやらせた奴が連絡も報告もなく出ていって、戻ってこない。当然なにがあったのか調べさせたはずだ。それからは距離を保って誰かに見張らせていたに違いない。 聞けばそのとおりで、ただ、 「近”づくこだぁできなぐっでよお」 それでこのじいさんを含め、特別に目のいい数人に、遠くから監視させていたとのことだった。
小さな漁村にしてはそこそこ活気のある港から、小舟を出す。高めの波をものともせず櫓を操りながら、 「おがじらぁ、心配なすっでたぜ」 爺さんが言ってくれる。でも僕は、 「ほんとですか?」 と、別に皮肉でもなんでもなく、半笑いになった。
ああ、そうだ。 嘘だと決めつけることこそなくても、あのブランがおろおろしたりするはずはないし、僕が消えたとしてもそれはそれで次の愛玩犬を見つけるだけだろうし、そんな相手はいくらでもいるし、それに、ヘマしやがってと不愉快になったかもしれないしと、いくらでも疑念が挟めてしまう。 でもクズハといたときは違った。 彼女が「心配したのよ」と言ってくれれば、僕はそれだけで満たされた。微塵の疑いもなく本当だと思えたからだ。 甘ったるい会話を思い出せるのは、それだけ強く印象に残っているせいだ。 僕はクズハを愛していたし、クズハも僕を愛していると、夢の中の僕は一縷の疑いも持たずにいた。 それは、幸せな夢だった。
「ドロイ、お”い、ドロイ」 甘さも美しさも全部台無しにするような汚い声で呼ばれ、でもおかげで僕は、また落ちかけていた夢から覚めた。 夢は夢だ。どんなに僕の理想どおりだったとしても、全部にせものだ。現実はそんなに都合よくない。 そう。僕だってブランスウェルドの理想のとおりなんかじゃないし、誰だってそうだ。 「すみません。ちょっと」 疲れていて、と言おうとすると、爺さんは懐から出した汚い手拭いを一振りし、僕の横っ面をひっぱたいた。
痛いよりも臭いほうが先に来た一撃に顔をしかめる。と、 「おらぁよお、おがじらが心配しでだっつうたんだ。それをほんどがたぁ、なんだぁでめえ」 ああもう面倒くさい。ブランスウェルドの手下には、忠誠心というより信仰心に近いみたいなのがいて、時々こんなふうに……。 「あの”おがじらがよ、血相変えでおめえ、見失ったらただじゃおがねえって、おっがねえっだらながったんだぜ」 「え……」 「おかげでおれらぁ、がありばんこに、ちょんども寝ねえでよ」 そこから続く爺さんの愚痴に、僕はただハイハイと頷いて、……本当にはいはいと頷いて、 「おれらだっで心配じたんだぜ」 本当にそうなんだろうと、思うことができた。
リムサ・ロミンサに戻ってからのあれこれは省くとして、僕の話を聞いたブランスウェルドは、それからもしばらくはクズハについて独自に調べていた。 その一部として、ウルダハでさらわれた子供たちは全員、親元に戻ったと聞いた。ただ、ほんの一人か二人を除いてあとは全員、”おかしくなっていた”という。 クズハの消息は知れない。ただ、あまりにきれいさっぱり消えていて、逃亡したんじゃなく本当に消えた、消されたんだろうとブランスウェルドは見ている。 僕もそう思う。洗脳によって目撃者も追跡者もなにもかも、協力者に変えられるクズハはずっと、痕跡を隠してはいなかった。顔や名前を変えてはいても、足取りを辿ることは可能だった。それが僕が解放されたその翌日を最後に、完全に途絶えた。 たぶん、あの追跡者がやったんだろう。
調べてどうするのか、やめておいたほうがいいと言ってもブランスウェルドは聞かず、その手のことに長けた手下を使ったり、金の力を使ったりしていたが、ある日、集めていた資料を全部炉の中に放り込んだ。 「人の世界のことならともかく、こいつらはバケモンだ」 そしてそれっきり、二度と話題にしなかった。 遭遇した僕にはよく分かっている。だから僕は再三言ってきた。調べるだけだとしても、あんなのに関わるべきじゃないと。だからブランスウェルドが調査を諦めてくれて、本当にほっとした。
僕は今でも時折、クズハの夢に囚われる。特に寝ているとき、夢の中で僕はクズハとの甘い逢瀬に溺れて、それを現実にまで持ち出してしまう。そんなときは、クズハを探したりはしないけれどぼーっとして、半日もまともに頭が働かない。 それだけ強力な洗脳で、専門家のなんとか氏いわく、手を尽くしてはみたが解くことができないそうだ。ブランスウェルドが金に物を言わせて連れてきたんだから本物で、他の専門家たちと一緒にウルダハの子供たちも診たらしいが、誰一人として正気には戻せなかったという。 だから僕が、たとえ今も引きずられてはいたとしても、洗脳を自力で解いたことについては仰天していた。 助かった幸運な子供は一人だけ。しかもその子は、連れ出されるときに軽い暗示にはかけられても、本格的な洗脳はされる前だったというから、実質、されてしまった洗脳から救えた子供はゼロということだ。
話したいことではなかったけれど、何故僕がクズハの洗脳を振り払えたのかは、その医者(ということにする)に教えた。それが子供たちの、ウルダハだけでなく世界各地にいるらしい被害者の、洗脳解除に役立つかもしれないからだ。 僕の場合は、トラウマと言ってもいいような出来事のせいだ。アラミゴで、家を飛び出す前に見たあの光景。 なにも知らない、なにもしてない小さな子どもが、首吊り台に向かってわけも分からないまま歩いていく。連座制なんて馬鹿げてると言ったところで止められず、僕のすぐ前でその小さな体もまたロープにぶら下がった。小さな体でも、首の強度に比べては重かったのか、別の生き物みたいに首がのびた不気味な死体になった。 だから僕は、別になんにもしてない子供があんなふうに殺されたりするのだけは、絶対に我慢できない。 それに加えて、自死を命じられたことへの抵抗もあったはずだ。 「つまりは、強い……並外れて強い思いがあれば、抜け出すことは可能だということですな」 と医者はため息をついた。まあ、そうだろうと思う。その日その日をなんとなくキャッキャと行きてるだけの子供に、僕のトラウマに匹敵するような強い思いなんてそうあるとは思えない。 だが、他にも数件、洗脳からどうにか解放された子供や大人はいるようで、それらのケースと合わせて今後の治療法を探していくとのことだった。
結局それで助かった子供が増えたのかどうか、そこまでは分からない。 ブランスウェルドはクズハの調査や追跡と合わせてこの話からは身を引いたから、新しい情報も集めてはいない。 僕はたまにぼーっとするけれどそれ以外の弊害はなく、ほんの少しずつではあるけれど頻度が下がり、弱くなっているように思う。 僕自身、甘美だけれど偽物の夢に浸ってうっとりするよりは、またかとうんざりするようになってきた。 心の何処かでまだ求めているからこそ囚われるのだろうけど、僕は、そんな甘い夢よりも、現実で今肩を掴んでいるごつい大きな手のほうを信じて、その感触を辿って現実へと戻っていく。 心配してくれたんですよね? 大した相手じゃないと高をくくって僕に見張らせたこと、後悔したんですよね? いつもだったらなにかしくじっても、さてじゃあどうするか、なんて余裕綽々の人が、馬鹿なことしたと腹立てて苛立って機嫌悪くて、大変だったって密告(おし)えてもらったんですよ。 あなたがそうやってほんの少しでも本気で心配してくれるのなら僕は……。