第三話
【一 ダンジョン、ダンジョン】
「“こういう世界"には本当にダンジョンがあるんだな。楽しみだ」 ヴェクタスは浮かれていた。 ギルドから、近くにある廃城のダンジョン調査と、そこにいるモンスターの討伐を依頼されたからである。
ダンジョンは、強力なボスとの戦闘と並んで、RPGの醍醐味、“らしさ"の象徴なのだそうだ。 リデアンにはよく分からないが、ヴェクタスがそう言うならば、そうなのだろう。 不思議なのは、ヴェクタスの変わりようだ。かつての世界では、彼からビデオゲームの話題が出たことはなかった。それが何故こんなにも乗り気なのか。 本当はやりたくて仕方がないのを我慢していたのだろうか。そう尋ねると、 「私が本当にやりたいことを我慢すると思うかい?」 とヴェクタスは答えた。 「ルドルフから話を聞くたびに、面白そうだとは思ったし、少しやってみようかとは思ったが、いざそのために時間を使うとなるとね」 仕事との比重で後回しになり、ついぞ手を伸ばすことがなかった。 しかし、今ここには積み上げてきた過去がない。あるのは、若い体とまっさらな背景。それなら、かつての人生で後回しにした楽しみを味わいたいし、 「彼があんなに好きだった世界……それっぽい世界ということだが、そこにこうしているのに楽しまないなんていうのは、悪い気がしてね」 その声音には、師でありライバルであり友人でもあったヒューマンの豪商、ルドルフ・カステルと、おそらくはもう会うことも話すこともできないことへの、僅かな感傷がうかがえた。
彼がこの世界に来て以来やたらとエネルギッシュな理由はなんとなく分かった。 そして小太陽の件以降、20日(一旬)あまり、雑用や単純労働のような仕事しかやっていないというのも、この依頼を回され浮かれている一因だろう。 そもそも、しょせん新米である”黄”ランクの依頼は、大半が「自分にもできるけれど大変なので肩代わりしてほしい」とか、「人手不足だから誰でもいいから来い、やれ」といった内容だ。魔法が必要な依頼があれば別として、そうでないかぎりには、日雇い人足 同然なのである。 それにしてもリデアンには、このダンジョン調査の依頼がそんなふうに楽しいものだとは到底思えない。だが、もともと二人の価値観や感性は激しく異なっている。自分にはまったく楽しそうに思えなくても、ヴェクタスが楽しいと思うならそれでいいと、なにも言わないことにした。
他に乗客がいないのをいいことに、それでも声をひそめてひそひそと、そんな話をしながら馬車に揺られて1時間半。廃城最寄りのネーナ村に到着した。 村に一軒だけの宿屋兼食堂に部屋を取ると、そこから30分ほど歩いて辿り着いたのは、朽ちかけ荒れ果てた不気味な城だった。 城と呼ばれている以上、防衛拠点として作られたものなのだろうが、壁は低く城館も小さい。エルサリオにあったヴェクタスの館よりは一回りほど大きいかもしれない、といった程度だ。 200年前はこの小城に、前領主の甥だか弟だかが住んでいたらしい。だがその男は嗜虐趣味のある異常者で、使用人はもとより付近の町や村から連れ去った住民たちを監禁、拷問しては殺していたという。 よほど巧みに隠蔽したのか、それとも周囲が無能あるいは愚鈍だったのかは分からないが、その暴虐は10年近くも続いたそうだ。 やがて露見し処断され、周辺地域に平穏は戻った。しかし新しくその城の主になろうとする者はなかった。 取り壊されなかったのは、その不始末が原因で領主が交代したからだろう。 「壊すにも金がかかる。しかも他人の尻拭いだ。で、放置している間に勝手に入り込んだ連中なんかもいて、それを追い払うのも面倒。そのうち世代が変われば、ますます何故自分がと言いたくなるし、周りの住民にとっては、あるのが日常風景になる。その結果、ギルドが定期討伐を行うダンジョンが残った、ってわけだ。たぶんだがね」
定期討伐が行なわれる場所として、ここにあるダンジョンと出現するモンスターについての基本的な情報は既にある。 受付のプリヤが教えてくれたところによると、討伐対象はマリス。人の無念や怨念が魔素によって実体化したモンスターである。物理的な手段では束の間散逸させる程度にしかならないため、魔法による対処が必要になる。 つまり魔法使いの参加が必須の依頼だ。 プリヤは、 「これは少し難易度が高いので、本来であれば"緑"か”青”の人に行ってもらうのですが……」 とやや渋っていた。 マルダナの冒険者ギルドに所属する二人の魔術師は、今どちらも別の依頼で遠出している。彼等の帰還は半旬(10日)以上先で、待つにはやや長い。 そこで、冒険者としてはまだ新米なものの、魔法の能力だけであれば"青"に相当するかもしれない、ヴェクタスに頼むことにしたのだ。
プリヤに尋ねればより詳しい情報を教えてくれそうだったが、ヴェクタスは早々に切り上げてしまった。「詳しく分かっていたらつまらない」からだそうだ。 軍事であれ経済であれ、情報を軽んじては十全の結果は出せない。ヴェクタスにはよく分かっているはずだ。だが、この世界は彼にとって、断たれたはずの人生の延長を、RPGのように楽しむ場所。あらゆることを把握して銀河の市場を動かしていた彼だからこそ、その反動なのかもしれないとリデアンは考える。 であれば、この気楽なバカンスに水をさしたくはない。 「リディ、こっちだ」 城館へ向かう楽しそうなヴェクタスの後を、リデアンは黙って追いかけた。
入ってみると、館の構造は至ってシンプルだった。正面のエントランスを基準に、右側に使用人などが起居し働く部屋が固まり、左側は応接室や食堂、ちょっとしたホール。二階には城主家族の寝室や書斎、客間、娯楽室だったと思われる部屋があった。 ヴェクタスはこの城内をひと通り見て回ったが特に見つかるものもなく、せいぜい朽ちた床が抜けて足を痛めそうになったくらいである。 これではただの廃屋でしかないなと、前庭、そして裏庭を見て回って見つけた小屋から、ようやく地下への階段に通じる扉に辿り着いた。
リデアンがランタンに火を入れ、先に立つ。 マリスを完全に倒せるのは魔法だけだが、物理でも一時的な散逸はさせられる、というのは重要だ。リデアンが先行し、行動不能にしてからとどめをさすほうが確実である。 リデアンが階段の半ば、5段目あたりに来たとき、 「魔素が濃いな。しかも、腐っているというか、淀んでいるというか」 背後からヴェクタスの声が聞こえた。声が少し詰まるようで、苦しそうだ。 魔素を感じ取れないリデアンには、見えるもの、嗅げるもの以外には何もない、なんの変哲もない場所だ。しかし魔素に敏感なヴェクタスには、ガスが充満しているような状況なのかもしれない。 気がかりだったが、リデアンは振り返らず階段の下に目を凝らす。そして、ふっと伸び上がるようにして襲ってきた靄を、軽く叩き潰した。
手応えはある。圧縮された空気を殴ったような感触だ。だが手にもあたりにも何も残らない。縦長の、おそらくは人の形に近い靄として見えていたのも、今ではまったく見えなくなっている。しかしヴェクタスにはまだ、その場に残っているのが感じられるらしい。 「害はあるのですか?」 前を警戒したまま、声だけで問う。 「たぶん、ない。粉砕されると、再び集まるまでは、人に害を及ぼせるほどの力はないんだと思う。……だが、気味が悪いな。見えないのにあることは確かで、しかもそれが生き物みたいに蠢いているのも分かる。集まろうとしてね」 害がないならばそれでいい。ましてや見えないなら、気にしようもない。リデアンはそのまま先へ進もうとした。
しかし、 「すまん、リディ、待ってくれ」 ヴェクタスの声に、足が止まる。 「これより下に行くのは、私には無理だ」 視界を半分だけ後ろへ向けると、ヴェクタスは階段の壁に片手をついていた。 顔色が悪い。どうやら濃く淀んだ魔素というのは、魔術師にとっては不快というだけではなく、害があるものらしい。 「外に出ましょう」 リデアンは短く言い、ヴェクタスの背を促した。
裏庭に出ると、ヴェクタスは大きく息をついた。何度か深呼吸し、そして身震いする。どうやら、息苦しいというだけでなく、全身に不快感があるらしい。幸い、すぐに気分は楽になったようだ。 「大丈夫ですか」 リデアンが問うとヴェクタスは頷き、眉を寄せてダンジョンの入口を見た。 「体全体で窒息するような感覚になる。今までの魔法使いは、どうやっていたんだ……?」 と呟く。 マリスは、魔法でなければ倒せない。だがその魔法使いは、あの中には入れない。 リデアンが魔法について理解した内容からすると、 「魔力は高く、魔素への感応力が低い者であれば平気なのではありませんか」 それなら、あの中でも苦しくはないし、普通に戦えるのではないだろうか。 リデアンの返答にヴェクタスはまた一つ頷いたが、 「だとしても、常にそういう相手を探すのは難しいし、だったら私に依頼しても無駄だと思ったはずだ。にも関わらず依頼してきたからには、……あ、そうか……。冒険者としての経験は乏しくても、なんとかなるかもしれない、という発想だったんだよな、ギルドは」 “黄"の冒険者には難しいかもしれないが、という前置きがあった。その意味は、単純に魔法をぶっぱなして仕留めればいいわけではなく、なにか特殊なポイントがあるからだったのだろう。
沈黙が落ちる。 その沈黙が続く。 ……まだ続く。 ヴェクタスがちらりとリデアンを見た。 リデアンは、溜め息をついた。そして、 「つまり、あの魔素に対するなんらかの対処方法がある、ということです。貴方がなにも聞かずに出てきてしまっただけで」 仕方がないので、ぴしゃりと事実を突きつけてやった。
「すまない。さすがに少し浮かれすぎだったし、迂闊すぎた」 「そもそも貴方は何故、このダンジョン調査にそこまで興味があるのですか。RPGの醍醐味だとは聞きましたが、私には面白い要素があるとは思えません」 「えっ。だって、ダンジョンだぞ? こうやって依頼を受けたり、あるいは、魔物が村人をさらってダンジョンに逃げ込んだから助けてくれと頼まれたりするんだ。こういう序盤の場所だと、いやゲームだとしたらの話だが、比較的小さくてシンプルな構造だが、ゲーム終盤になると大規模で複雑で、罠も手が込んでいたりする。見えない落とし穴とか、ワープ装置とか。この世界のダンジョンにそんなギミックがあるかは知らないが、もしそこまでRPGっぽかったら、楽しそうじゃないか」 ヴェクタスは、そう言った。 そしてリデアンは混乱した。
依頼を受けて調査する。あるだろう。 魔物すなわち敵が誰かを誘拐して立てこもる。手近にある隠れ場所がダンジョンであれば、ありうることだ。 小さくてシンプルな構造。小規模な施設に付随するものであればそうだろう。 大規模なものも当然ある。 だが、複雑な構造? 罠? 見えない落とし穴? ワープ装置? ダンジョンに、何故そんなものが必要なのだろうか?
「ヴィ。―――念の為 確認しますが、もしかして貴方の言う"ダンジョン"は、牢獄とは別のもののことですか?」 と問いかけると、ヴェクタスは「あっ」と言いかけた形のまま固まった。 ダンジョン(dungeon)とは? 地下牢、牢獄を意味する言葉である。
ギルドからの依頼も、「この城にある、犠牲者たちが囚われていた地下牢に、マリスが出るから退治してきてくれ」というものだ。 しかしヴェクタスにとって”ダンジョン”は、まったく違う意味だった。 そしてそのことにやっとリデアンも気付いたのだった。 「そうだった……。最初は私も、ヒューマン標準語の"ダンジョン"は、“地下牢獄"に聞こえていたんだ……」 どれだけショックだったのか、しゃがみ込んでうなだれたヴェクタスが呟く。 「今 貴方が言う"ダンジョン"は、なんのことですか?」 「ふ……。それを尋ねるあたりも君らしいな。ゲームなんて私以上にしたことがないし、興味もなかったんだろう?」 「それは、はい、そのとおりです」 「ゲームで"ダンジョン"と言ったら、……そうだな。遺跡や迷宮、巨大な城、いろいろあるが、ともかく、主人公たちが探検するエリアマップのことだよ。……ああでも、そうだよなぁ。これ、私も最初は変だと思った側だったのに……」
ヴェクタスがルドルフと親しくなり、ゲームの話題に付き合うようになると、「このゲームのダンジョンは」、「DLCで新しいダンジョンが追加されて」といった話を聞かされた。しかしトゥーリアンであるヴェクタスには、ルドルフが口にする”ダンジョン”はすべて地下牢、牢獄、土牢と翻訳されて聞こえた。そのため、世界のあちこちに大きな、そして様々な牢獄があってそこを探検する、不思議な世界観に思えたのだ。 ヒューマンの口にする”ダンジョン”は、多くの場合ゲームマップのことだと知って、ヴェクタスは翻訳機のローカルデータを編集し、“ダンジョン"に迷宮や探索場所という意味を追加した。 その後、考古学者や司法官ではなく商人であるヴェクタスは、日常の中で牢を意味してダンジョンという単語を聞くことがほぼなかった。牢獄を意味する単語は複数あり、拘置所(jail)や刑務所(prison)のほうが一般的、現代的だから尚更だ。その結果、彼にとって"ダンジョン"は、ゲーム用語としてのダンジョンになっていたのである。
この世界に来て以来 勝手に機能している翻訳の、仕組みはいったいどうなっているのか。 この国で「牢獄」という意味を持つ単語は、そのままトゥーリアン語の「牢獄」と翻訳されるべきではないのか。 それが何故……と不可解極まりなかったが、リデアンは考えるのをやめた。そもそもなんの装置も使わないのに勝手に翻訳されて聞こえ、勝手に文字の意味が分かる時点で、理屈や理解の範疇外なのだ。 肝心なのは、依頼の完遂である。
なにやら酷く疲弊したような感覚はあるが、リデアンは意思の力でそれを律し考える。 このままではマリスは倒せない。 しかし、対処する方法は間違いなく存在している。 それを知るためには、 (ギルドに戻って情報を引き出すのが確実だが……) それではヴェクタスの面目を潰すことになる。 たったそれだけのことで命を守り、仕事を果たせるならば安いものではある。かつてのヴェクタスであれば躊躇うまい。だがそれは、彼が手掛ける仕事が何兆という数の銀河市民に影響するものだったからだ。面目ごときと引き換えにはできなかった。 だが今のこの、若さに引きずられてもいる、身軽なヴェクタスはどうだろうか。さらりと「ギルドに戻ろう」と言わない時点で気にしているのは間違いないし、リデアンとしても、彼につまらない汚点をつけるのは忍びないとも感じた。
であれば次点は、 「ネーナ村に」 「ネーナ村に」 と二人の言葉が重なった。 それがあまりにもぴったりと一致していたため、つい顔を見合わせる。 ヴェクタスが小さく吹き出した。 「見事にハモッたね」 それから彼は一つ息をつく。それで、どことなく落ち込んでいた気分を切り替えたようだ。 「ネーナ村に戻って、聞いてみよう。これまでの冒険者もあの村に立ち寄っているはずだ。マリスの処理に時間がかかるなら、一泊することもあるだろうしね。それでなんの手がかりも得られないなら、ギルドに戻って泣きついてみるよ」 力はあるが経験が伴わない"へっぽこ冒険者"を演じる―――一部事実なのだが―――のも悪くない。そう思ったのだろう。 ヴェクタスがそう決めたならば、それでいい。リデアンは 「そうしましょう」 短く応じて、空を見上げた。 太陽の位置はまだ高い。人々が休むまでには時間がある。 まだまだ挽回はきくと信じて、二人は廃城を後にした。
【二 魔術師ダンクと、マリス退治】
ネーナ村に着いたのは、昼餉には少し遅く、夕餉にはまだ早い、中途半端な時刻だった。 宿を兼ねた食堂に入ると、テーブルを拭いていたおかみが顔を上げた。 「おや、ずいぶん早いね。もう済んだのかい?」 二人が事情をかいつまんで話すと、おかみ―――ベッツィは、からからと笑った。 「なんだい、なんの準備もしてこなかったなんて。まったく……」 荒れた指が、リデアンの胸にある黄色いスカーフ、冒険者ギルドのランクを示す布をちょいと揺らす。これだからひよっこは、と言われた気がした。 だが馬鹿にするというより、彼女からすれば子供くらいの年の二人組の失敗が可愛く思えたのだろう。ベッツィはにっと笑い、 「だったら、ダン爺さんに話してみな」 と言った。
「昔、あすこのマリス退治を引き受けてた魔法使いだよ。今はもうそういう仕事はしてないけどね。村はずれの、……そうだね、ここを出て右へ、道なりにずーっと行くと分かれ道があるから。林に続くほうへ行くとダン爺の小屋だ」 そして、棚から瓶を一本取ってカウンターに置いた。 「これ、持っていきな。話を聞きたいならね」 そして手を出す。 「くれるわけではないのですね」 「当たり前だろ」 リデアンが値段を尋ねると、ベッツィはさらりと答えた。マルダナの食堂にある酒の価格と比較すると、少しだけ高い。だが、ここまで運搬する手間賃が含まれるのかもしれないと考え、なんにせよ必要経費と判断した。
言われたとおり、村はずれ、木々に囲まれた中にダン爺さんことダンクの家はあった。 小さく、古く、しかし丁寧に手入れされた小屋だ。庭には薬草らしきものが几帳面に並んで植えられている。扉を叩くと、しばらくしてドアを開け、姿を見せたのは、背の低い老人だった。 ドワーフである。元の髪の色は赤みがかっていたらしく、白の中にわずかにその名残がある。村人と変わらない質素な身なりで、魔法使いらしさは何もない。 「なんでえ、おめえら?」 「ダンクさんですか。廃城のマリスのことで、お話をお聞きしたいと思って伺いました」 ヴェクタスがそう切り出すと、老人の目が少し動いた。それからリデアンの持つ瓶に気付いて、 「ま、入んな」 と言った。
家の中は、几帳面に植えられた庭とは対照的だった。詰め込まれた棚、積み上げられた本、あちこちに置かれた香炉や小道具の類。ただ、足の踏み場がないほどではない。雑然としていても、本人には秩序があるのかもしれない。 ダンクは話を聞くと、腕を組んだ。 「普通の魔術師にゃ、準備なしじゃあ無理だわな」 「宿のおかみさんにも、準備してこなかったのかと笑われました」 ヴェクタスが言うと、ダンクは頷く。それから、 「俺ァ引退してちっと経つが、幸い、“魔術師殺し"はまだ残ってる。土産も持ってきてくれたことだし、手伝ってやってもいいぜ」 と言った。 ”魔術師殺し”がなにを意味するのかは分からないが、物騒な名だ。ヴェクタスがぎょっとすると、ダンクは分厚い髭の中で悪戯っぽく笑った。
魔術師殺しとは、とある木の樹皮を剥いで加工した木片のことだった。 それを燃やした煙は、魔素に働きかけ消散させる効能を持つという。 「ということは、マリスも弱体化するのではありませんか?」 「ああ。マリス特効よ。だがな、魔術師にとっちゃ文字通り致命的だ。でたらめに焚くわけにゃいかねえ」 身体や意識に害が生じることもあるし、なにより、あたりの魔素が薄れれば魔法が使えなくなる可能性もある。魔法の使えない魔術師は、ただの木偶の坊。そのため魔術師殺しと呼ばれている。 「しかし、そんなものが普通に流通するわけは……」 ダンクは大きく深く頷いた。 「ああ。魔術師ギルドががっちり握ってる。原木も、そこに入る許しも入れる奴も、作る奴売る奴、なんもかんもな」 「やはりそうですよね。だとしたら、それを持っているダンクさんは、ギルドでかなりの地位にいたんじゃありませんか?」 ヴェクタスが言うと、 「がはっ」 ダンクは太い声で吹き出した。
「ンなわきゃァあるかい。俺ァドワーフだぜ。ドンケツよ、ドンケツ。いっちばん下っ端の"修練者"止まりよ」 ドワーフであることが、高い地位にあるわけはないことと同義なら、彼等は魔法の素質が乏しい種族なのだろう。ヴェクタスが持っているRPGの知識、ヒューマンのファンタジーに関する知識は僅かだが、 (たしかに、ドワーフと言えば鍛冶や工芸、採掘が得意だったか。そう、それで酒飲みで……) どうやらそれはこの世界にも通用するらしい。
魔素に鈍感。魔力も乏しい。物覚えはいいほうだが、どうにも力が足りず高等な魔法が使えない。それでどんどん後から来た者に抜かれていく。 だがそう言うダンクには、少しばかりの自嘲はあっても、ひがみがない。 「腕前がどうであるかとは別に、ギルドから信頼されているのですね」 ヴェクタスが言うと、ダンクは満更でもなさそうに髭の中で口を動かした。 「ん、まあな。これでも百年ほどはいたし、やれって言われたことができねえこたァあっても、やるなって言われたことやるような真似だきゃァしなかったからよ」 80年ほど前にここへ居着いて、マリス退治を請け負うようになると、ギルドは魔術師殺しを処方してくれたのだという。 「俺ァ馬鹿にされるこたァあっても、褒められたことなんざなかったからよ、嬉しかったなァ」 ダンクは、はにかむように笑った。
魔術師殺しの使い方は簡単だ。火をつければいい。だがそれでは煙が僅かな風や動きにも反応して流されてしまうため、専用の香炉を使う。なにげなく窓辺に置いてあったのがそれで、蓋を回すと煙の出る方向や数を変えられるようになっていた。 やはりこの世界のドワーフも工芸や鍛冶に優れているらしく、ダンクが持っている香炉は、彼お手製のものだ。蓋による調節も彼の工夫だという。 だとしても煙の扱いは慎重にすべきで、魔術師が吸い込むと魔法を阻害されるのはもちろん、意識をなくすこともある。それで死ぬほどのことはめったにないが、 「めったに、ってだけだ。おっ死ぬ奴もいる。吸い込まねえに越したこたねえな。ただまあ、そっちのだんまりの兄ちゃんは戦士だっつったな? 魔法は?」 「まったく使えません」 「がはっ! いさぎいいなァ。そこまできっぱり使えなきゃァ、俺も魔術師になりてえだなんて思わなかったろうによ」
ダンクの話は前後し、飛び、時に繰り返される。今もまた魔術師になろうとした理由についての話に逸れてしまったが、その途中でやっと本題を思い出したようで、 「魔法が使えなきゃ、ただの木、ただの煙だ。物好きな野郎やババアがよ、抜け道使って手に入れて、部屋でお香代わりに焚くっていうぜ。そこにたまたま入ってきた魔術師が仰天して一騒動、なんて話もあったっけなぁ」」 そうして話はまた逸れて行く。 気が付けば屋内は暗くなっていた。 「おお、すまねえな。なんか、無駄話ばっかりでよ」 「いえ、私から話をせがんでいるんです。ただ、さすがに少しおなかがすきましたね」 「よし、そんならベッツィんとこ行って、腹ごしらえでもすっか」 とダンクは、ずんぐりとした体を重そうに椅子から下ろした。
彼はヴェクタスのことが気に入ったようだ。 また酒を飲み、飯を食い、あれこれと昔の話をする。若い頃、兵士として過ごした日々のこと、郷(ドワーフの集落を、こう呼ぶようだ)を出たときのこと、亡くした妻、自分を嫌っている一人娘、変わり者として扱われる日々。 話すだけでなく、尋ねてもくる。何処から来たとか、なんだって無一文になったんだとか、そういった問いかけには、ヴェクタスがあらかじめ用意している「二人の経歴」を語って答える。嘘が広がりすぎ破綻しないように、決めていない細部については話しにくい事情がある、と誤魔化すのも忘れない。 そんなヴェクタスもさすがではあるが、ダンクもまた、取り留めのないおしゃべりの中に、一言として魔術師殺しの話題は入れなかった。思いつくままに話しているようで、他人の耳があるところで話すべきでないことは、しっかりとわきまえているのだ。
そうして食事を終えると、ヴェクタスは、 「リディ、君はこのまま先に休んでくれ。私はもう少しダンクさんの話が聞きたいから、またお邪魔してくるよ」 ベッツィからまた二本の酒を受け取りながら、陽気にそう言った。 ダンクとの話は、たしかに必要である。魔術師殺しの具体的な使い方、翌日どう動くかを、まだ詰めていないのだ。だがヴェクタスの言いようは、それももちろん聞かなければならないが、単純にもっと話が聞きたいだけのようでもあった。 二人はご機嫌で宿を出て行く。ヴェクタスは少しだけ足元が危ういようだが、かれこれ五本の酒を空けたダンクは、まだほろ酔いにもならないらしい。 あの調子で必要な情報を聞き出せるのだろうかと思ったリデアンだが、懸念するのはやめにした。 失敗してもいい。成果や達成を自らに課す必要はない。自分も、ヴェクタスも。意識的に、そう言い聞かせる。 そんなことよりも、ヴェクタスが楽しそうなら、それでいい。 見えなくなるまで背を見送ったのを汐に、リデアンは部屋に戻って早めに寝ることにした。 翌朝、三人で廃城へ向かった。 裏庭の小屋へ入り、階段の入口でダンクが香炉を取り出す。 「おめえは外に出てな」 とヴェクタスに短く言いつける。ヴェクタスは素直に小屋から出ていった。 ダンクはリデアンに目をやり、 「おめえは傍にいてくれ。まあ、念の為な」 そうして喉元にまいてきた布を鼻の上にまで引き上げてから、香炉の真ん中に木片を据える。彼の指先が小さな円を描くと、その木片にぽっと火がついた。 白い煙がゆっくりと立ち上る。それをダンクは慎重に階段の一番上に置くと、数歩後ろへ下がった。 そして彼は、懐から一冊の本を取り出した。
分厚く硬そうな表紙の本で、茶色い表装の中央には青い石がはめ込まれていた。それを飾るようにくすんだ金の模様が描かれている。 (魔導書か) 武具店と道具屋で、それぞれ一冊だけ置かれているのを見かけた記憶がある。ただでさえ少ない魔法使い用の道具の中で、杖などに比べても更に見かけないものだった。 しかもダンクが持つそれは、マルダナで見かけたものに比べて重厚で、実用書というより工芸品のように見える。 めくるところを見るとページにもずいぶんと厚みがあって、しなやかさはない。だがちらりと見えたその中にも、複雑な紋様が描かれている。 ダンクはそれを片手に軽く集中し、やがて、あいている手をゆっくりと前へ突き出すようにした。 その手から、風が吹き出す。 だがそれは突風ではなく、ゆるゆると流れる空気の動きだ。それに合わせて魔術師殺しの煙が階段を滑り降りていく。 なるほど、とリデアンは思う。強い風を吹き込めば、無理矢理に押し出された空気に混じって魔素が溢れ出してきてしまう。そのためダンクは、あくまでゆるやかに、空気を掻き乱さないように加減しているのだろう。
どのくらい経っただろうか。ダンクが「よし」と言った。 「中に入って、隅まで煙が行き届いたか見てくれ。ただし、これっくらいの高さよりも高く溜まってたら、落ち着くまで待たなきゃならねえからな。んで、ぶっ飛ばせんだよな? だったら、とりあえずマリスも叩いといてくれ。ま、無理しねえ程度にな」 その声には僅かな疲労がうかがえる。無理もない。これはおそらく、ただ強い風を一気に送り込むよりも繊細で、集中が必要なことなのだ。 そんな技を使い、これまでのマリスを退治してきたダンクが「よし」と言ったなら、準備は整ったと見ていい。だが、魔素に敏感なヴェクタスがいるのだ。ダンクの言うとおり、魔術師殺しが十分に行き渡りつつ、濃く残ってはいないか、慎重に見極めることにした。
リデアンには、昨日との違いは分からない。煙の有無でしかない。ただ、ランタンの炎が昨日よりも僅かに小さく、明かりが弱いように見える。芯の出し方のせいかもしれないが、ともすると、魔素は魔法だけでなく、こういった事象にも多少影響するのかもしれない。 階段の半ばで昨日と同じく人型の靄が襲ってきた。だが昨日よりも動きが遅い。手応えも軽く、明らかに弱体化している。 牢獄は石造りだった。右に四つ、左に五つの房がある。だが、かつては頑丈だっただろう鉄格子も今はほとんどが錆び朽ちて折れ、倒れてしまっている。房を隔てる壁も半ば崩れ、太い木の根が床のところどころを侵食していた。
そういったあちこちに人型の靄が佇んでいる。煙が奥まで適切に行き渡っているかを知るには、もう少し進む必要がありそうである。 歩きながら、向かってきたものを仕留める。1匹。2匹。3匹。動かないものもいる。それも蹴り散らす。4匹目。 逃げるものもいた。マリスという、悪意、敵意、怨念の塊として生まれた存在でも、やはり元は人だからだろうか。恐怖を持っているらしい。憐れではあるが、であればこそ、意味のない慈悲などかけるほうが残酷だ。5匹目。 それが散った突き当たりでは、くるぶしほどの高さで微かに煙が揺れている。その様子は、左右の牢内でもほぼ変わらない。どうやら、必要十分なようだ。
振り返ると、入口付近に短躯の影があった。 「どうだ?」 魔素に鈍感、煙の効果も薄いとはいっても無警戒に奥まで踏み込むことはせず、ダンクは声を張り上げて問う。 「ここまでは問題ないようです。あとは、あの先ですね」 階段から見て右側に、横手へと折れる通路がある。 「ああ。その先が拷問部屋だ。けったくそ悪ィが、そこにでけぇのがいる。1匹か、運が悪ィと2匹。トーチャードは、他のマリスより厄介だぞ。なんなら、俺らと一緒に行ったほうがいい」 マリスがここまで他愛ないならば、数倍強かったとしても問題はない。だが、平気だと言っては、異常な力を示すことになるのだろう。 「十分に気をつけて、確認してみます」 できれば、ヴェクタスを戦闘に巻き込みたくないのだ。彼には、安全が確保された後で、ただ後始末だけをしてもらいたかった。
通路を曲がると、正面に扉の残骸が見えた。 引き開けようとしただけでノブが取れ、扉が傾く。 それを突き抜けるような勢いで、マリスが襲いかかってきた。 仕方がないので扉ごと粉砕した。 壊さないほうがいいのかもしれないが、既にほぼ壊れていたのだ。「来たときにはもう壊れていた」と言っても通じるだろう。 そして、部屋の中にはもう何もいない。天井から吊り下がった鎖や、壁につけられた枷。金属鋲のついた椅子。ろくなものはないが、少なくともここにはもうマリスは存在しない。 であれば後は、ヴェクタスとダンクの出番だ。
入口に引き返すと、ダンクが少し興奮した様子で呼びかけてきた。 「す、すげえ音がしたが、大丈夫だったか? トーチャードは?」 「ドアが壊れた音です。急に倒れてきました。マリスは、処理済みです」 「おう、そうか。そんならいいんだが。それにしてもおめえ、でたらめに強ェな」 「そうですか?」 比較対象がないのでなんとも言えないが、ヴェクタスからは災害レベルの力なんだから気をつけろとは言われている。だが、この程度のことであれば"普通"の範疇ではないかと思う。そもそもマリスは、こうやって一時的に倒せるもののはずだ。 だがダンクはリデアンの返事に首を振り、 「おめえらの故郷ってなァ、どんな魔境だよ」 とおぞけを振るって見せた。
ダンクはもちろん、ヴェクタスも降りてられるようになったのだから、魔術師殺しの効き目は完璧だった。 「これは、相当な熟練の技だよ。分量の加減が難しいんだ」 張り切ってマリスにとどめを刺しに行く本人には聞こえないように、ヴェクタスがリデアンに囁く。 足りなければ魔素が十分に晴れないし、多すぎると煙が薄れるまで時間がかかる。昨夜、四方山話の中で聞いたところによると、ダンクも、この仕事を請け負うようになった最初の頃は、多めに焚いて待つという方法をとっていた。魔素は一度晴れればそう簡単には溜まらないため、急ぐ必要はないからだ。 ただし、その待機時間は短くても数日、長ければ十日以上になった。魔術師殺しの効果が薄れるだけでなく、魔法を使える程度にまで魔素が戻る必要があるのである。 だがこの80年、何度もこなしてきた結果、彼は階段の入口あたりの魔素を感じただけで、分量を調節できるようになった。 「大したものですね」 「ああ。彼はドワーフとして生まれたせいで魔法の能力が低いだけで、センスはかなり高い。なにせ、80年続けてきたと言ったって、年に一度か二度のことだ。試験間隔は広いし、回数も限られている。そんな中でここまでのことができるようになるためには、相当な研究もしただろう。もしエルフに生まれていたら、相当な魔術師になっていたんじゃないかな」 そこまで話したとき、 「おい、ヴェクタース! 俺に全部やらせる気かぁ!?」 奥から朗らかな怒鳴り声が聞こえて、 「すみません、すぐやります!」 ヴェクタスはリデアンに向けてウインク一つすると、左の牢へと向かった。
ダンクとヴェクタスが二人でやれば、マリスの処理はあっという間だ。 ただ、ダンクは 「年々、とまでは言わねぇが、俺がこの仕事始めたときに比べりゃ、ずいぶんしぶとくなってんな」 と顔をしかめた。 「俺が若ェ頃ァ、ちょいとなぶってやりゃ消せたんだがな」 それから80年、毎年のようにやっていたときは、特にどうとも思わなかった。だが、5年ぶりにこうして始末してみると、明らかに違う。 ダンクは少し考えて、 「ギルドに戻ったらよ、去年と比べてどうじゃあねえで、昔の記録から見返して比べてみろって伝えてくれねえか」 昨日から通して初めて見るような真顔でそう言った。
「分かりました。必ず伝えます。ですが今は、最後の一体を片付けましょう」 拷問室……最も人が苦しみ、嘆き、恨みを残しただろう場所に出る、やや強力なマリスだ。 角をまがると、もう正面に扉はない。 そのかわりそこにはマリスの残骸があるはずである。見えない残骸が。 だがそこに、マリスがいた。
さっきは襲撃に反応し即座に、扉越しに撃退したため大きいことしか分からなかったが、目にしたその姿は異様だ。複数の人体が重なり絡み合い、もつれ合っている。 それ以上を知るより先に、リデアンは腕を横へ出し二人を制止する。 何故だとか、新手なのかとか、考える必要はない。 それは――― ほぼ一歩、一足に間合いを詰め、粉砕する。 その後で、ゆっくりとやればいいことだ。
「うえぇぇ……、ほんっとおめえは……、今どうやったんだ? あ?」 ダンクが頓狂な声を漏らしている。 どうもなにも、間合いを詰めて、殴る。それだけである。他に説明のしようはない。 「と、とにかく、片付けましょう」 ヴェクタスはダンクを宥めて前に出ると、軽く飛ばした火の玉が床に落ち、人型、ただし歪んだ形に広がって燃え上がり、そして消えた。
もうなにもない。なにもいないし、なにも起こらない。 あたりをうかがい、目を凝らし、ダンクが確かめる。そしてリデアンを振り返り、じっと見上げた。 「おめえ、ここにいた奴も叩いたんだよな? で、間違いなく1匹だけだったんだよな?」 「はい。見落としはないと思います。見えないものがいたのであれば、私には分かりませんが」 「見えねえ、まだマリスになってねえのがもう1匹……? いや、どっちにしたっておんなじだ。復活したにしろ、新しくできたにしろよ。こんな短ェ時間で起こるこっちゃねえ」 ダンクの様子は、先にも増して真剣だった。 彼は短い腕を組んで考える。だがこれということは思いつかなかったのか、 「まあ、たまにゃああるんだ。昔ここに、ほんのちっちぇマリスが出たことがある。そいつぁ、ここに入り込んで、出られなくなって死んだガキのもんだった。そういう、たまたまのな、今までになかったことってぇのはある。だからこいつも、そういうことなのかもしれねえが。ま、報告はしとけ。どうすっかは、カラガンのじいさまが決めるだろうよ」
「分かりました。それじゃあ」 そろそろ引き上げましょう、とでもヴェクタスは言いかけたのだろう。だがそこで言葉を切って屈み込んだ。 振り返ろうとしたとき、床の亀裂の中になにか見えたらしい。僅かな焦げ痕の残る傍に膝をつく。リデアンが少し動くと、ランタンの光が共に動いたせいだろう。なにかがキラリと、その亀裂の中で輝いた。 「なにかあるね。ダンクさん、分かりますか?」 「どれ、ちっとどきな」 ヴェクタスと入れ替わりにダンクが覗き込む。リデアンは、見やすいようにとダンク自身が影にならない位置へとランタンを動かした。 すると、 「こりゃあ、魔石か……?」 そう言いながらダンクは亀裂の上に手をかざし、おそらくそれで、危険の有無を確かめたのだろう。太い指を入れ、そこにあるものをつまみ上げた。
それは、黒紫色の不透明な、しかし明かりを受けると縁だけが僅かに赤紫に透き通る、石片のようなものだった。 魔石については、魔法に関する道具の話の中で時折出てきた。魔素がモンスターの体内で凝縮されたものだ。 であればマリスから見つかっても不思議ではなさそうだが、ダンクの様子からすると、どうやら今までに出てきたことはないらしい。 リデアンはヴェクタスをうかがう。今ここで、「本来マリスにはないものなのか?」と問うことが、ちょっとした無知で済むことなのかどうか、判断がつかないからだ。 ヴェクタスも黙っているあたり、彼も迂闊に尋ねるのはやめたほうがいいと考えたのだろう。 それに、ダンクはおしゃべりだ。 「おいおい、これこそどうなってんだ? こうなると、こいつが本当にマリスだったのか、ちっと違うモンだったのかも分からねぇぞ」 案の定、先に喋りだした。
【三 ネクストステージ】
ダンクとともにネーナ村に戻ると、ヴェクタスは丁寧に礼を言い、村で一番いい酒をプレゼントして別れた。 村にもう一泊し、明日になってからゆっくりと戻っても良かったのだが、報告しなければならないことが三つもあったためだ。 一つは、ダンクの体感としてマリスが昔よりも強くなっているということ。直近の記録と比べると微差だとしても、昔からの記録を一度振り返って確かめてみたほうがいい、という助言だ。 二つ目は、ボスマリス、トーチャード・マリスと呼ばれている拷問室のマリスが、異様な早さで復活したこと。別の思念が急激にマリス化したのかもしれないが、どちらにしてもこんなことはダンクが知るかぎり、一度もなかった。この五年間にも起こらなかったことなら、今回が初めての現象ということになる。 そして三つ目は、魔石だ。
物体としては無害であるそれを、それでも念の為リデアンが懐に入れている。魔法関連のものである以上、なにかあったときにはそのほうが影響を受けないだろうからだ。 がたがたと揺れる馬車の上で、やっぱり他に客がいないのをいいことに、ヴェクタスは小声で囁く。 「いったいどういうことなんだろうな」 ダンクによると、魔石はあくまでも”生物”が魔素を溜め込み蓄積させた結果、できるものらしい。しかし”魔素によって生じた魔法現象”であるマリスは、ヴェクタスが生み出す炎と同じだ。それが人の思念のようなものを持っていたとしても、生物ではない。そのマリスに魔石があるというのは異常なことなのである。 「マリスとは関係なく、別の理由であそこにあった可能性も考えられますが」 「ああ。ダンクさんはマリスのものだと考えていたが、その程度のたまたまなら、ありうると思うよ」 別の生物があの場で死亡し、魔石を残した。そして今日、たまたまその真上でマリスを倒した。確率としては、ありえないほど低いということはない。 「ただ、だとしたらその死骸がまったくないのは、少し変だ。マリスのように霧消するものならともかく、生物だろう? それなら、骨くらいは残っていそうなものだがね」
それに、とヴェクタスは続ける。 「この三つの問題はそれぞれが異なる要因によるものなのか、それとも一つの根を持つのか。君はどっちだと思う?」 「マリスの強化が閾値を越え、それによってトーチャード・マリスの再生速度が上がり、生物に近付いたため魔石も残った、ということですか? ありうるとは思いますが、断定はできません」 「ああ。魔石だけが別件だとか、トーチャード・マリスのことだけが何らかの外的要因による急激な変化とか……。少なくとも、去年どうだったかくらいは分からないと、なんとも言えないな」 しかも二人には、この一件に関する情報だけでなく、この世界についての常識、知識がまだまだ不足している。 であればこそ、自分たちはこれを調査結果として持ち帰り、あとはギルドに任せるべきだ。 気にはなるが、謎の解明は自分たちの仕事ではないのである。 「まあ、首を突っ込みすぎるのはよそう。今回は特に、変なボロが出そうでただでさえひやひやしたんだから」 「”ダンジョン”違いの、うっかりですか」 「うっ。そうだよ。あれでもし、ギルドに戻って尋ねるしかないとなっていたら……」 「地下牢の調査に何故か浮かれた挙げ句、まともな準備もなくマリスを払おうとした冒険者として、否応なく注目されたでしょうね。ダンクさんがいてくれて、助かりました」 「君、やっぱりこっちに来てからトゲが増えてるよ……」 そんな会話もがたごとと、御者の耳には届いていないだろう。 やがて、 「おい、そろそろ着くぞ!」 体格のいい御者の、野太い声がマルダナ着を告げた。 ギルドへの報告は、思ったよりも時間がかかった。窓口での報告で済ませるわけにはいかず、カラガンへの伝言があったからだ。 ギルドマスターへの面会などそうそうできることではないのが、ダンクの名前を出した途端に叶ったのは、彼が積み上げてきた80年の信頼だろう。 三つの異常―――マリスの強化傾向、トーチャード・マリスの再生、そして魔石の発見―――を伝えると、カラガンはダンクの助言について確認し、 「分かった。あとはこちらで引き受けよう」 と短く言った。 それだけだったがその細い目は真剣で、退出するときにはもう既に、今後の動きを思案している様子だった。 やりきった、という気はしないが、これで二人の仕事は終わりだ。ホールに戻り、会談中に用意されていた報酬を受け取る。ギルドを出ると、夕暮れ時の通りはいつもより人が多かった。
近々祭りがあるらしい。その準備のための買い出しや、催しに必要な買い物に出る客が多いのだろう。露店や屋台の数も増えているようだ。 そんな中を馴染んだ宿へ向かいながら、 「リディ、今日の夕飯……」 ヴェクタスが言いかけて、路傍に出ている屋台を一瞥した。 「食堂も混んでいそうだし、買って、宿で食べようか」 リデアンは頷いた。 なにげない言葉だったが、分かった。何か話したいことがあるのだろう。
宿の部屋は狭いが、二人には慣れた場所だ。買ってきたものを広げて、特に改まった様子もなく、ヴェクタスは話し始めた。 「魔導書を探そうと思う」 リデアンは食事の手を止めずに聞く。 「ダンクさんが持っていたのを見ただろう? あれが、私にとって一番いい制御装置になりそうなんだ」 昨夜、リデアンと別れて小屋に戻ってから、二人であれこれと話していた中で、ヴェクタスはダンクから 「おめえ、どれくらい使えんだ?」 と問われた。魔法についてだ。正直に、魔法の力そのものには自信があるが、制御にしくじることがあると打ち明けた。そして、暴発を防ぐための道具を探しているのだとも。 「それで言われたのが、魔導書だよ」 魔導書は、魔法の増幅、あるいは制御とともに、発動を助ける複合魔導具である。 ダンクのものは増幅と補強を主にしているが、制御に特化したものも作れると彼は言っていた。 「それに、魔導書の仕組みは、そうだな、データパッドみたいなものだ。ハードとしての基本性能がある。そこに自分で選んだいくつかのアプリを入れる。ユーザーは、スリープ解除して、使いたいアプリを選択する。それだけで、決められた威力と効果、挙動の魔法が発動する。これなら、戦闘中に慌てて変な魔法を暴発させることもない」 「なるほど。たしかに、貴方に向いていますね」 「ああ。問題は、いいものはそう簡単に手に入らないことだ」
まず、ヴェクタスほど魔法の素質に恵まれた者にとって、マルダナでも売っているような初級本は役に立たない。制御装置として弱すぎるし、送られる魔素の負荷に耐えられず破損してしまうらしい。 しかし高等魔導書はほとんど流通していない。王都アル・ダールの魔道具屋であれば扱っているが、 「安くても200シルだそうだ」 「つまり、20000クレジット(≒200万円)相当ということですか」 さすがにリデアンも僅かに目を見開いた。
「そもそも魔法関連の道具自体、剣や槍よりも少なく、しかも高額だろう? 魔法使いが少なく需要が乏しいせいもあるが、作ることが難しいのもあるようでね」 杖は、魔素を多く含む樹木を用い、その魔素の流れを整え強化して作る。オーブは、質のいい大きな魔石を研磨・加工して作る。これらの製作にも、魔術師が必要で、かつ素材が厳選されるというハードルがある。とはいえこれだけならば、腕のいい鍛冶職人を要する武具と大差はない。 だが魔導書の製作には、それらの何倍もの時間と手間、そして高度な魔法知識と熟練の魔術師が必要になるという。 「まさにデータパッド、魔法的な精密機器なんだよ」 外装、すなわち本としての部分は本作りの職人に外注できるが、模様や文字は手書きになる。熟練の魔術師が特殊なインクとペンを用いて、ラインの一本一本、文字の一つ一つに、適切な魔素を込めながら書いていく。そのため魔術師ギルドでも、一冊を仕上げるのに専門の魔術師が数人がかりで4~5旬はかかる代物だった。
「手書きに時間がかかるのは分かりますが、そこまで緻密なものなのですか」 「たかが文字や模様じゃないんだよ。ダンクさんのところで、試しに書いてみたんだが……」 ダンクは、まっすぐなラインを一本引くだけで疲れてしまった。大袈裟なと思ったヴェクタスは、しかしダンクの半分も、しかも震えずに線を引くことすらできなかった。 「ただインクを紙に移すわけじゃない。紙とペン先のインクを、適切な強度で魔法的につなげるというか……。そのうえ、常にペン先を持って行かれるような、こまかく暴れるような感じがするんだ。とにかく集中力と微細な制御が必要になる。ギルドでも、専門の術者が得意な部分だけを担当して、一日に半ページ進めば早いほうだそうだ」 電子回路を人の手で作り配置する。まさにそんな作業なのだとヴェクタスは言った。 「さすがにナノ単位の作業ではないにせよ、人力で可能な限界点を攻めている感はあるね。だから在野の魔術師が独自に作っているなんてことはめったにないし、あったとしても性能や安全性に保証はない。そのうえ、正規の価格を上回る額を請求されたとしても、不思議じゃないどころか当たり前だ」
高品質かつ信頼できる魔導書を、富豪以外が手に入れる方法は実質一つしかない。 ダンクはそのたった一つの方法として、魔術師ギルドへの入門を勧めた。 そうすればダンクのように自分に合わせたものを作ってもらえる。しかも無料、つまり貸与あるいは贈与である。 「その代わり、ギルドメンバーとしての実績が必要だし、魔導書がもらえるのも仕事道具としてだ。しかも冒険者ギルドみたいな何でも屋、自分で仕事を選んで、いつでも辞められるわけでもない」 「たしかに、それは貴方には不向きですね」 「人生の目標にしたいわけじゃないし、なにより、組織に属して同じ場所、同じ連中と過ごすのはね。いろいろと具合が悪いだろう」 この世界に慣れれば、上手く合わせることはできる。だがそれでは、嘘で塗り固められた籠の中、常に辻褄を合わせ、破綻を気にしなければならない。そんな不自由を、せっかく自由を手にしたヴェクタスが選ぶわけがない。
「魔術師ギルドから直接買うことも、おそらく無理でしょうね」 「ああ。そもそもギルドは、魔術師用の装備や道具の市販にすら反対だそうだ」 単純な武器に比べて広範囲に影響する魔法、それを強化する魔道具を、善悪の見極めがつかない者に渡したくないのだ。 「自分たちの優位性を維持したいのも当然だし、すべきだとも言えるから、これは仕方ない」 犯罪者より警官が、テロリストよりも正規軍が、より性能のいい装備を持つべきなのは、この世界でも同じということである。 そんな中で例外的に魔道具を賜った誰かについて、ダンクも噂くらいは聞いたことがある。だがその真偽は分からないとのことだった。
「それでは―――つまり、魔導書があれば貴方の問題は解決するとしても、入手方法がない、ということになりませんか」 リデアンが言うと、 「まあね」 それだけ答えて、ヴェクタスは皿をつつく。何事か考えているようで、沈黙が落ちる。 リデアンは、改めて今の話を振り返った。 魔導書を手に入れる方法は、実はある。むしろ簡単だ。買えばいい。たった200シルである。本の価格としては破格だが、稼ぐのは実のところ簡単なのだ。 道中で出くわしたのでとりあえず殴り倒しておいた大きな猪が、討伐報酬20シルという依頼の対象だったのは、8日前のことだ。引き受けて討伐に向かった”赤”ランク3人のパーティーが、転がっていた死体から証の牙を持ち帰ってきて、それを正直に報告したものだからちょっとした騒ぎになっていた。 20シルという高額報酬の依頼はめったにないが、5シル程度のものならばそれなりにある。それである程度の元手を作り、あとは商売、取引で増やせばいい。それこそがヴェクタス・アヴローンの本領だ。 だが、彼が考えているのがその算段でないことは、リデアンにも分かっていた。
やがてヴェクタスが、食べかけの燻製肉からリデアンの顔へと目を上げ、言った。 「だから、『魔導書が手に入る場所へ行く』のではなく、『魔導書を手に入れる方法を探す』ため、旅に出るのはどうかと思ってね」
ヴェクタスは、旅に出ることにした、とは言わなかった。 今まではずっと、こうしよう、これにしよう、と決めて動いてきたが、今は、リデアンの意見を待っている。 「それは……」 リデアンは少し考えた。この街にいる理由、いなければならない理由は、あるだろうか。 ―――ない。 むしろ、離れたほうがいいかもしれない。何も知らずに最初に辿り着いた街で、親切にもしてもらったが、なにかおかしいと思われてもいる。特に、800年も生きているというカラガンには怪しまれているだろう。 ……いや。”だろう”ではなく、いるとほぼ断言できる。無理もない。彼の長い人生の中では異世界人に会ったこともあるかもしれず、であれば、“手洗いの預言者"のように面倒な存在にならないか、警戒するのは当然だ。
幸い、冒険者ギルドは大きな街には必ず存在するし、簡単な受注窓口程度であれば、小さな町や村にも設けられていることがある。そして、その活動はどこでやろうと自由なようだ。必要なのは、登録金として定期的に決まった金額を納めること。 であれば、依頼をこなしながらこの世界のことを学ぶ、それはここでなくてもできる。 「いいですね。そういう旅も、“RPGらしい"のでしょう?」 リデアンが言うと、ヴェクタスが笑った。少しほっとしたようだ。 「ああ。最初の街を出て、違う場所に行って、そこで起こっているトラブルを解決したりして進んでいくんだ。そう都合よくトラブルはないかもしれないが、目的のために旅をして情報を集め、先へ進む。これもRPGだよ」 声が少しばかり弾んでいる。目標を見つけて明日が楽しみになったようだ。 浮かれすぎないようにと釘を差すのは、今はやめておこう。そう決めてリデアンは、旅の支度について思案しつつ語るヴェクタスの声に耳を傾けるのだった。