北稜の守護神
父が殺された。 男爵家の婚礼馬車を妨害したというのがその理由だった。 見ていた知りあいに聞いた話じゃ、父は子供を助けただけだった。道に飛び出した小さな子供がいたそうだ。すぐ手綱を引けば止まる余裕があったにも関わらず、馬車に止まる様子はなかった。だから父はその馬車の前に飛び出して立ちはだかった。小さな子供ならともかく大の男だ。簡単に踏み殺せるわけもなく馬車は止まった。子供は無事だった。馬が怪我をしたり、乗っていた誰かが怪我をしたとかいうことも、なかったようだと聞いている。
だが罪だった。 薄汚い平民の分際で、めでたい婚礼の儀を邪魔した。乗っていた御令嬢だか御令息だか知らないが、急停止のせいでひどく恐ろしい思いをした……。 たぶん、そこですぐに謝れば、命までとられることはなかったんだろう。だが父は、子供を殺す気かとその場で、大声で、公衆の面前で、そこにいた貴族たちを罵った。 その態度が不敬だと、平民の分際で貴族を侮辱するのかと取り押さえられ、傷めつけられた。
屈強な衛兵によってたかって殴られ蹴られた父は、路上で死んだ。 衛兵たちは"主を守る"という責務を果たしただけであるとされ、罪には問われなかった。 子供の命より、貴族のめでたさとか怖さ、体面や名誉が上。それがこの国だ。 そしてそれに抗うことすらできないのが俺たち平民だ。 みんな言う。子供を守ったことは立派だった。だが貴族に楯突くべきじゃなかったと。 そしてみんな、俺たち家族を敬遠するようになった。俺たちに肩入れしたりすれば、おまえも貴族を批判するのかと言われるからだ。俺と母さんは仕事をクビになった。オーナーは、俺を雇っておくと面倒事が起こるに決まっていると言った。違うと言うならその反抗的な目つきはなんだと言われた。母さんは、どう言われて暇を出されたのかは話してくれなかった。
そんな中で妹は金のある商人に声をかけられた。俺も母さんも働き口すらなくなって、関わりたくないみんなは誰も助けてくれなくて、断るなんて選択肢、優しい妹にあるはずがなかった。 成金野郎はゲスなエロジジイだったがーーーミカを手に入れるため、俺たち家族が孤立無援になるよう裏で手を回したとしてもーーー、妹が気に入ったってのは本当で、大事にしてくれるようだった。言うこと聞いていたら優しくしてくれる、とミカエラは言う。涙目で。殴ったりはしないし、着るものも食べるものもちゃんとしてくれる。今までよりずっといい生活ができる、だから心配しなくていいと。 そして、「可愛い妾の家族」へ下された援助金のおかげで、俺たちは飢えることも凍えることもなかった。
そうしたら今度はこう言いだした。みんなじゃないが、その中の何人かが。 スケベジジイの相手して俺たちに金をもたらす妹を、いやらしいとか、汚らしいとか。そして妬んで蔑む。そのおかげで俺たちの家に薪がありあたたかい服があることを。 俺は酒場で絡んできた連中にブチ切れて喧嘩し、突き飛ばした弾みで、テーブルの角に頭をぶつけた1人が死んだ。そいつがたまたまちょっといいとこの坊っちゃんで、有力な貴族とやらに縁があったせいで、俺もまた親父と大差なく、裁判なしで罪を決められ、戦場へと送られた。
名目上は、執行猶予期間に課される"奉仕"だったが、要するに体のいい死刑だ。 半年を"奉仕活動"に費やせば、実刑はなく社会復帰できる。ただしそれは、生きて帰ることができればの話。 行き先は北稜ドラヴァニア。戦闘訓練を積んだ騎士や兵士でさえ、行けば半分は帰らないと言われる場所だ。そこにたった半月訓練しただけの元掃除夫が行って、帰れるわけがない。 逃げれば俺の罪咎は母さんや妹に向く。だから俺は死にに行くことにした。そうするしかなかった。
親父は殺されて、妹は家族のために身売りした挙げ句 蔑まれ、俺は死ぬと決まりきった戦場に送られて、別れ際に見た母さんは、明日首をくくっても不思議じゃない様子だった。 俺に、生きる希望なんてものは欠片もなかった。胸の中に残ったのは怒りと恨みだけだ。貴族も、それが怖いからって俺たちを見捨てる奴等も、自分よりいい少しばかり暮らしをしてる誰かを妬む連中も、みんな殺されればいいと思った。もしできるなら俺は竜に頼んで、俺の命なんか喰らえばいいからあんなクソみたいな国根こそぎ滅ぼしてほしかった。 死の国行きのキャリッジに揺られながら、俺はひたすら自分の中の怨念を噛み砕き、噛み締めていた。
北稜ドラヴァニアは、常に竜と戦い続けている地として誰もが知っている。俺も知っていた。だがその実態は、本当にそこに行った者にしか分からない。 俺が煮詰めるだけ煮詰めて持ってきたはずの怒りや恨みは、目の前にある圧倒的な現実の前に粉々になった。 北稜の入口、この土地では一番安全な最後方の場所でさえ、物々しい警備がされていた。しかも、警備している兵に五体満足なのは1人もいない。腕がない、足がない、顔が半分焼け爛れている、見えるところ全部が膿み崩れたようになっている……。戦傷者ばかりだ。 皇国にも、“名誉の負傷"なんて言って戦傷を誇らしげに見せびらかしてる奴はいたが、その誰一人としてこんな有り様じゃなかった。顔や腕について一本筋の小綺麗な傷や、多少酷かったとしても直視に耐えないほどじゃなかった。 だがここにいるのは全員、目をそむけたくなるような酷いのや、見ていると気持ちが悪くて怖気がするの、歩くたびに大きく体が傾くようなの、顔中包帯で巻いてて男か女か、若いのか年寄りなのかも分からないの、そんなのばかりでーーーそれが"普通"だった。
この程度のことは、息をするのと同じくらい当たり前だった。 前線で大きな怪我を負って、存分には戦えなくなった連中がこうやって後方に来る。 一方で、まともに訓練もされていない俺みたいなのも、この一番後ろの拠点で働くことになった。 商店に雇われていた雑役、なんてゴミみたいな肩書しかない俺にできることなんてそれこそ掃除くらいのものだ。だがそんな俺にも、毎日夕方の二時間、戦闘訓練を義務付けられた。
ここに送られる前にやらされた、形ばかりの棒振りなんかじゃない。初歩の初歩の初歩の初歩だろうが、教えてくれる片腕・片足の女騎士は、訓練中は一切の容赦がなかった。 ここが本格的に襲われるとしたら、それはもう前線が総崩れになったとき。だとしたら北稜が"落ちる"ときだ。だが時折、防衛戦を越えた竜がやってくることはある。 「そういうときには、自分のことだけ考えて、一目散に逃げろ」 最初の数日は、またかと思うくらい言い聞かせられた。半端な腕ややる気で戦おうとされては邪魔にしかならない。そのせいで腕の立つ誰かが死んだら大損だ。それでも俺のような戦えない奴に戦闘訓練をするのは、いざというときに逃げるためだと、女騎士は言った。 「逃げるのも簡単じゃない。恐怖に支配されれば、立つことすらできないのだからな」 逃げるために俺は毎日毎日走らされ、腕の皮がめくれるほど匍匐の練習をさせられ、繰り返し棒切れを振り回さなければならなかった。
馬鹿馬鹿しいと思っていい加減にした奴も、これまでいくらでもいたらしい。 だが俺は幸か不幸か、馬鹿馬鹿しいと思うより早く、北稜に着いてほんの10日目あたりで、逃げることさえできない怖さというのを思い知った。 竜が出たのだ。 明け方いきなり、地面がひっくり返ったみたいな衝撃でベッドから転げ落ちた。わけが分からなかった。同じ部屋にいたコックのおやじに腕を掴まれて、俺は一緒に走らされた。 建物自体が、俺たちのいた通路も含めてまるごと崩れた。突き飛ばされたような気しかしなかったが、気がつけば俺は瓦礫の下で、隙間から見上げたそこに黒い巨大な影があった。
いちいちなにがどうだったかなんて、何一つ覚えていない。 確かなのは、俺はまた別の誰かに瓦礫の隙間から引きずり出され、引っ張られて逃げ、でも逃げる間中ずっと足はがくがくしていて何度も転んだし、一度転ぶと膝がいうことをきかなくて立つのもままならなかった、ということだ。怒鳴り声やなにかの壊れる音、とにかくいろんな音がごちゃまぜになった中、俺はとにかく誰かに引きずられるまま転んでは走り、転んでは走った。 走らなくてよくなったそこが何処で、何がどうなっているのか。さっぱり分からなかった。 後になって、東の防衛戦が破られてどうの、と聞いた。それで竜に攻め込まれたんだと。 こんなことはめったにないと、俺と同じくらいの年のミッドランダーの男にそう言われたが、俺は痴呆のように頷くしかできなかった。
襲われたのだということ。そして、ここで戦いがあったということ。そして、そのせいで人が死んだということを、せめて頭で考えられるようになったのは、次の日だった。 コックのおやじは瓦礫の下敷きになって死んでいた。 片腕・片足の女騎士は竜と戦って殺されたらしい。 そういう死体がいくつも、麻の袋に入って地面に並べられていた。
頭が働くようになり、気持ちってものが戻ってくると、俺は恐ろしくて怖くてたまらなくなった。 閉じこもる俺はとんだ腰抜けの役立たずで、臆病者のへたれだったが、飯を持ってきてくれたエレゼンのおばさん、俺の母親と同じくらいの年のおばさんが、とにかく無事で良かったと言ってくれた。 「あのさ、こんなみっともない、情けない自分なんか、恥ずかしくて人の顔見られない、とか思うかもしれないね。でもいいんだよ。ここじゃ誰も笑ったりしない。あたしらみたいなさ、戦えない人間なんて、そんなもんだもん。あたしだって、腰抜かしてたのをおんぶして逃げてもらったんだ。それでも言ってもらえるよ。生きてて良かったって。助けられて良かったって」 怖いのは当たり前。戦う訓練なんてしていない。それなのに、よく逃げたな。逃げてくれて良かった、生きていて良かった。ここでは本当にそれだけで、だからその人は、戦えない自分にもできること、賄いや掃除なんかを精一杯やることで役に立つんだと言った。
北稜は話に聞く以上の地獄だった。 でも、小綺麗な皇都の石畳に当たり前みたいに垂れ流されている歪んだものは、ここには一つもなかった。 名のある貴族だろうと、歴戦の傭兵や兵士だろうと、誰も俺を見下したりしない。できることをしろ、できることで役に立てとは言われても、掃除なんかとか雑用なんかとは決して言われない。恐ろしい竜と戦うことと同じくらい、俺が汚れた部屋をーーー血や汚物でどろどろになった床をーーー掃除することは、ありがたいと言われた。大変だろうとねぎらわれた。無理はするなといたわられた。 そして、とっとと盾にでも使い捨てればいい俺みたいな平民を、騎士の称号を持つ人が命がけで守ってくれた。 毎日毎日誰かがどこかで死ぬような地獄だが、俺には、優しい地獄だった。
10日、一ヶ月、そして更に一ヶ月。過ごすうちに俺は、まともな人間に戻っていった。 国や貴族、隣人を恨んでいた気持ちは、消えたというよりどうでもよくなった。そいつらのことなんかより、母さんや妹はどうしているかと、そればかりが気掛かりだった。だが"奉仕"して間もない頃は外部とのやりとりが禁じられていて、手紙を送れるようになったのは70日が過ぎてからだった。 その日は朝早くから用箋と筆記具を持ったララフェルのおっさんがやって来て、それを教えてくれた。今日からは、一ヶ月に一度だけだが手紙を送れるぞ、と。 「あー、ただよ、やべえことは書くな。一応こっちでも検閲っつうのはしなきゃなんねえし、あっちもあっちで絶対ぇ中身確認してっからな」 だから、慣れないうちは自分みたいなのが一緒にいて、書いていいこと、書くとまずいことを確かめるから勘弁してくれ、と片手で拝む。 「手紙読まれるなんて、気分のいいもんじゃねえよな。けど我慢してくれ。ここにあるルールってのは、納得いかなくたってちゃんと守っとけ。さもなきゃ後で難癖つけられて、帰るに帰れなくなっちまうぜ」
俺は"罪人"だ。ここでの"奉仕"と引き換えに実刑を免除してもらう立場だ。“更生"や"改心"が期待できると分かるまでは、外部と連絡する自由なんてない。 ここにいる連中はそんなものクソ喰らえだと思ってくれても、俺をここに送った奴等はそうじゃない。そいつらに目を付けられると、“奉仕"期間が延びる。 「ムカつくよな。くだらねえよ。けど、我慢しろ。いいか? おまえがそいつらにできる一番の復讐はよ、腹立てて自分の人生ワヤにすることじゃねぇ。半年じっと我慢して生き延びて、自由になることだ」 モリト・ムリトというおっさんの言葉に逆らうつもりはまったくなかった。手紙を出せるなら、変なことを書いて目を付けられたりしないよう、確認してくれるってのも少しも嫌じゃなかった。だが、 「自由になんかなれるわけねえ」 そこだけは頷けなかった。
半年ちゃんと務めれば、本当にきれいさっぱり罪も何もなかったことにしてくれるなら、そもそも親父が殺されることも、俺がここに送られることもなかったはずだ。 貴族どもは、法も常識も何もかも、自分の都合のいいように振りかざすし、邪魔なら無視する。だから、建前上 罪は贖われたことになっても、使いたければ簡単に蒸し返し、何なら上乗せする。俺は久しぶりに嫌な気分になった。 だがモリトのおっさんは、 「そりゃ違う。安心しな」 と真顔になって俺を見上げ、小さな手で俺の指を掴んだ。 「いいかよ、ヨシュ。ここでの"奉仕"を終えるとよ、おまえはレコルス伯の私兵か、あるいはレコルス領民になることを選べる。そうすりゃおまえの身分も立場も、もちろん家族も、全部 伯爵の庇護下に入る。そしたら他の貴族連中にゃ、手なんか出せなくなる。で、家族をこっちに呼べ。たしかにレコルスは前線のすぐ隣で、危なく見えるだろうが、もう知ってるだろ。そりゃほんの少しの話だって。そのほんの少しと引き換えに、妹さんとおふくろさんにも、もっとマシな暮らしさせてやれるぜ」 子供みたいな手に、だが大人の男らしい強い力が籠もった。
レコルス伯爵ーーー。 この北稜を守る軍の総指揮官だ。南陵の最北端レコルス地方を領地にして、何十年も戦い続けている。30そこそこで"千伐将"の称号を得、今では"不伐公”、伐(う)たれ不(ざ)る者なんて呼ばれたりもする。 蒼天騎士や蒼の竜騎士に並ぶほどの有名人だが、皇都では話半分に扱われていたり、逆に、頭のおかしい戦闘狂のように言われていた。戦神の化身だとかハルドラス公の再来だとか言われるのも、嫉妬深い貴族連中には気に食わないんだろう。それに、話だけ聞いていると作り上げられたおとぎ話の英雄みたいで、どことなく嘘くさかった。 だが間違いなく実在する人で、その戦まみれ、血まみれの経歴から、貴族連中の間ではかなり厄介な存在らしい。なにせ強い。戦争が終わらないこの国では、強さは絶対的価値の1つだからだ。
モリトのおっさんに言われて初めて、俺はその人がこの北稜にいる、現実にいるんだと気がついた。本の中で名前だけ知ってた登場人物が、実は現実に存在すると言われたような感じだった。 「レコルス伯爵ってのは、ほんとにそんなに強いのか?」 つい尋ねると、モリトのおっさんはぶんぶんと首と手を横に振る。 「馬鹿言っちゃいけねぇ」 やっぱり大袈裟なのかと思ったが、違った。 「俺みてえなのが、あの人と同じ戦場にいられるわきゃねえだろ。だからこの目で見たことなんかねえよ。けど、これだけは言える。ちょっとでも弱かったら、年単位でこんな場所にいられるわけがねえ」 見てみな、いや見てきたろとおっさんが言う。この最後方の拠点にいる不具の連中。あいつらはみんな、この北稜のどこかで戦った奴だ。たとえ生き残っても、大勢があんな有り様になる。 「レコルス伯ってのはよ、そん中でずっと戦ってきて、今でもいっちばん前に出て戦うってんだ。そこんとこをこの目で見たことはねえが、そりゃもう強ぇに決まってるだろ」
なんにせよ俺には、定められた"奉仕"をやり遂げさえすれば、そのままレコルス兵、あるいは領民となって"奉仕"を続けることを選ぶ道があるってことだった。 過酷すぎる最前線を支える者として、レコルス伯爵には徴兵権があるし、志願兵を採択する権限がある。それは皇都の軍部よりも強い権限で、「こいつは俺が使う、俺のものにする」と言ったら、誰にも逆らえない。 それがクソ貴族で、無理やり戦場に叩き込まれたりするなら最悪だが、俺がひたすら逃げるための戦闘訓練しかさせられないように、レコルス伯爵は、その下で俺たちを管理する貴族や騎士たちは、もっとずっとまともな支配者だった。
俺は初めての手紙に、自分は無事だということと、二人とも大変かもしれないが、俺の"奉仕"期間が終わるまでどうにかがんばってほしいとだけ書いた。 安心させようとして、戦わずに済んでいる、なんて書きそうになったのはモリトのおっさんが止めてくれた。それを読めば家族は安心するかもしれないが、戦わせろと難癖を付けられかねない、と。 そんなふうに、書かないほうがいいことを省くと、最初の手紙は味気ないほど簡潔にならざるをえなかったが、それでも、どうにか半年生き抜いて、きっとまた会えるから、とくらいは、書くことができた。
書いたとおりのことを、俺は胸の奥に仕舞った。 半年なんとかがんばって生き抜けば、俺だけじゃない。母さんとミカにもレコルス伯爵の手が届く。そうすれぼ、皇都なんかよりずっとマシな場所で、もっと穏やかに暮らすことができる。 親父の死からずっと閉ざされていた未来に、ようやく光が見えた気がした。
生きたい。生きて帰りたい。その一心で俺は、泥まみれの地面を掴んで前へと這い進む。 叩きつける雨は分厚く重く、湿った体が重くてたまらない。足の感覚は痛いようなまったくないような、それでも俺は生きたかった。 だから逃げる。死にものぐるいで逃げる。生きる。 それが俺の戦いだと、今の俺には腹の底から分かっていた。
北稜に来て俺は、同じ理不尽な目に遭ったからこそ、そしてそれに負けずにここで生き足掻いたからこそ、心から仲間だと思える人たちに会った。 そしてその中には、これまでの戦いの中で死んでしまった人たちもいた。 だから俺は生きる。その人たちが生きたかった分も、絶対に生きて、生きて、そして帰りたい。 泥の中を、ただ逃げることだけ考えて這いずり回る、けれどこれが俺の戦いだった。
それに俺は約束した。仲良くなって、友達だと思えるようになったみんなと、もし誰かが死んでも、生き残った誰かがいたら、互いの家族や友達、恩師に、伝えてくれと。ここで立派に生きたこと。そして、還ってもう一度みんなに会いたかったと。 モリトのおっさんも、ミシャねえさんも、レイティアさんも、ノックさんも、みんな死んだ。でも俺はまだ生きている。誰かに俺のことを伝えてもらうんじゃなく、俺が、ちゃんと生きてもう一度家族に会いたい。そして、それが叶わなかった人たちのことを伝えたい。 だから俺は生きる。逃げる。逃げ延びて、生き足掻く。泥まみれのミミズになってでも、生きて帰る。必ず。
だが絶望の翼は巨大で速かった。 豪雨の中、一瞬の雷鳴に照らされた俺は、見つけられたということを背中で感じ取った。 必死に腕を動かした。前へ、前へ。あの茂みに。あそこに潜り込めば、助かるかもしれない。口の中に泥が入るのを吐き出して、もがき這いずる。 絶望なんかするもんか。 たとえ、たとえもし、もうどうにもならないのだとしても、そのときが来るまで、いや、来てたとしたって諦めるもんか。 それが俺がここで学んだことだった。
―――半年という期間が過ぎた後、いったんは皇都に帰ったが、自分の意志でレコルス領に来た。 両足をなくした俺は、1人じゃ身の回りのことさえ不自由する。それでもここで、そんな俺にできることをしたかった。 命がけで北の地を守ってくれる人たちの、どんなに小さくてもいい支えになりたかった。死にかけながらそれでも生き延びた俺には、できることならなんでもできるという自信があった。 母さんとミカは驚いたが、レコルス伯の、その下で今も戦っている人たちの力になりたいんだと力説すると、一緒に行くと言ってくれた。
伯爵領にはもともとのイシュガルド民だけでなく、傭兵として北稜に来た連中なんかも住み着いていた。かつては最前線に隣接するからと、誰も住みたがらない土地だったそうだが、今は違う。領民たちも多かれ少なかれ俺たちと同じ思いでいた。 かつての名残として公爵領ではあったものの、竜に狙われるようになってからは何百年もほぼ放置されてきた、荒れた土地。だが20ほど前にレコルス伯が譲り受けて以来、北稜への通り道として整備、管理されるようになった。 土地に縛られることのない医者や教育者、神官はとっくに何代も前に逃げ出していたが、彼等の代わりに元傭兵の戦医が居着き、元商人が子供たちに読み書きを教え、他国の農民が共に田畑の改良に精を出した。 俺はその中の一員になった。
俺の仕事は、人員名簿の整理と管理だ。補充要員として送られてきて、そして死者、あるいは負傷者として返される名前。これらに間違いがないかを確認し、参照し、記録する。地味ではあるが、間違えば生きている人間が死者となり、権利や財産を失いかねないのだから、いい加減にはできない。 「君はこまかいねぇ」 と、そう言われ、推薦された。掃除夫をしていたときも、他の奴がどうでもいいというような汚れにも気がついたし、見つけると気になった。面白い仕事じゃなかったが、退屈でつまらないとも思わなかった。 そんな俺には、二度、三度と繰り返しチェックしたり、机に向かって黙々と書類を見比べ、書き記していくのも苦じゃなかった。 母さんと妹も、農作業の手伝いにはだいぶ慣れてきたようだ。借りた小さな家の脇にはこれまた小さな畑もあって、もらった種や苗を、そこでおっかなびっくり育てている。それに妹はどうやら、医療館にいる医者の助手、隻眼のルガディンにちょっと気があるらしい。相手も満更ではないのか、いそいそと昼飯を作って届けたりもしているようだ。
俺は、遠く皇都にいて、何も知らない奴等のことを思う。 北稜は、何も知らずに思うよりはるかに苛酷で危険で無慈悲で残酷だ。 けれど、北稜の地から帰る人が少ないのは、死ぬからだけじゃない。 とどまるからだ。 戦えなくなったなら戦い以外で、どんなことでもいいから役に立ちたい、助けになりたいと思ってしまう。
ーーーあの日俺は、レコルス伯その人に助けられた。 大型の竜を相手に一歩も引かずに戦う精鋭。その先陣を切って突撃するのが、その人だった。 最高司令官、最上級の指揮官だというのに誰よりも前で戦うというのは本当だった。 そして、その号令に率いられた騎兵は、誰もが一騎当千に思えた。 両足を押しつぶされて大量に血をなくし、死ぬ寸前だった俺の命を繋いでくれたのも、レコルス伯が率いる精鋭の1人だ。
直接声をかけられたりしたわけじゃない。だがそれでも、俺たちみたいなのを守るため、死なせないため、この人たちは命がけで戦っているんだと、僅かに垣間見ただけでも理解できた。 どんなに着飾っていたって偉そうにしていたって、ゲスは分かるつもりでいた。 だったら、土砂降りの雨の中、顔の見えない鎧姿だって、俺たちのために戦ってくれている人のことも、分かるつもりだ。 あの巨体の竜と、俺の間に立ちはだかってくれた、槍を構えるあの背中。 『こいつは絶対にやらせない』。 百万の言葉よりも雄弁にそう語っていた。俺はそう信じる。信じている。