まんまるいしの物語
今、私はこの手に、小さな石を一つ、持っている。 職人が磨いたのかと思うほど整った球形をしたこれは、“まんまるいし”。今から20年ほども前に、兄が小さな友人から譲り受けた、約束の証だ。 私は思い出す。あの日のことを。砂の色をした石造りの街の一隅で起こった、ささやかな別れの一幕を。 あれは冬の入口。イシュガルドでは日々 寒風が吹き付ける、ウルダハという街でもどこか肌寒い日のことだった。
兄は半年ほど前からその地に逗留していた。滞在先はかつて前線で知り合った傭兵だという男のもとだった。戦い続けて生きてきた、そしてまたこれからもそうして生きていく兄にとっては、束の間の平穏な日々だったことだろう。 その兄を迎えに行くのは気が重かった。家に連れ戻すのであれば勇んで出かけたろうが、兄の場合は戦場へ戻すだけになる。 だがそれこそ兄が己に課した"貴族としての責務"であり、私にそれを覆す力はなかった。
普段は市街への乗り入れが許されないキャリッジだが、何事にも例外はある。デュランデル伯爵家の次期当主をその弟が迎えに訪れるというのに、徒歩で行けとはウルダハ王家もさすがに言わないのだ。通行可能な通りは指定されたものの、多少の迂回だけで私たちは兄が間借りしていた(と言っても購入したのは当家なのだが)一軒家に辿り着いた。 兄はいい加減なように見えても、時間に遅れるようなことは決してない。私たちが到着したときには既に、小さな荷物とともに玄関先にいた。談笑しているのは、ルガディン族であるにしても珍しいほどの巨漢である。イシュガルドにはほぼいない種族であるがゆえに私は、その男の巨躯ばかり目に入ってきて、その足元の少女に気付いたのは、兄が屈んだからだった。 ルガディン族の子どもというものを私は見たことがない。が、だとしてもその少女は小さく、ヒューラン族に見えた。しかしそれに言及するのは無礼であろう。
「よう、シャル」 兄は相変わらずだった。貴族らしからぬ言動に、皇都の貴族たちは眉をひそめる。時折は私もそうしたくなる。だが反面、誰よりも貴族としての責務ーーー国と民のために戦うということーーーを果たしている兄に、表面的かつ些末な讒言などするのは愚かであると思う。 せいぜい私ばかりは貴族らしく恭しく、年長者にして次の当主たる兄に、弟としての、そして臣としての礼を取って頭を下げた。
不動産を購ったのは当家ではあるが、それも兄の決めたこと。そして、戦うことだけに生きる兄を、束の間であれど市井の平穏の中へ置いてくれたことは、まぎれもない恩義である。不躾にならぬようにと見繕った礼を品を用意させると、 「この家だっておたくらに買ってもらったもんだってのに……。けど、ありがたく受け取っとくぜ。こっちはこのチビ育てんのに、あるもんはなんだってありがてえからな」 一瞬の当惑と、素朴な遠慮。ざっくばらんな物言いだが横柄なところはなく、謝辞には心が籠もっており気持ちが良い。私は、なるほど兄が気に入るわけだと納得した。
元気でな。無茶はするなよ。他愛もない別れの会話だが、 「必ずまた会おうぜ」 「ああ。いつかまたな」 短い言葉には、真情と覆し難い現実がうかがえた。 そうしてつつがなく出立を迎えようとしたのだがーーー。
「ちびこ。ほら。シオに、バイバイだ」 兄の幼少の頃の渾名、それがここでの通称だったようだが、そう促された少女がきょとんとした顔になり、 「しーちゃん? ……ばいばい?」 どうやら少女は兄がこの家を去るということを理解していなかったようで、そしてそれに気付くなり、なんとも形容のしがたい泣き声、それともわめき声を上げて、兄の脚にしがみついた。 行っては嫌だ、と言っていることは分かるが、戦時下の警報でもこれほどではないという音量の泣き声、わめき声、さもなければ叫び声が耳をつんざくようだ。
巨漢のルガディンが、その傍に膝をつく。そして、 「ちびこ。いいか? シオにもな、自分のうちがあるんだ。そこで待ってる人がいる。ちびこだって嫌だろ。父ちゃんがよそへ行って、そのまま帰ってこなくなったらよ。早く帰ってきてって、待ってるのは寂しいだろ。そこのにいちゃんやおじさんがな、そうやってシオの帰り、ずっと待ってたんだよ」 少女の頭を撫でながら、低い声で、ゆっくりと言い聞かせた。それは私にさえ染み入るような、シンプルで、しかも深い実のある声だった。
少女は大きな目で私たちを振り返った。そしてじっと私を見上げていう。 「おにいちゃん、しーちゃんかえってこなかったら、さみしい? いや?」 涙が溢れかえった目に見つめられ、私は、頷くしかなかった。 そんな私の代わりに執事のエルベストが、 「わたくしどもはずっと、シオ様のお帰りをお待ちしておりました。お嬢様には申し訳ございませんが、どうか、ご帰宅をお許しくださいませ」 エルベストの言葉遣いは、少女には難しいかもしれない。それでも、実のある言葉というのは、思いを届けるのだろう。 「まってて! まあだめよ! ちゃんとまってて!」 少女はそう言って兄の足を離し、家の中に駆け込んでいった。
「しーちゃん。こえ」 やがて駆け戻ってきた彼女は、握りしめた拳を突き上げた。 兄が背を屈め手を出すと、そのうえに乗せられたのは灰色の小さな物体、小石だった。 だがそれは、いったいどこのもの好きが磨いたのかきれいな真球で、素朴ながらも不思議な美しさを持っていた。 「ちーこ。これ、まんまるいしじゃねーか。宝モンだろ」 「こえあげう。こえあげうかあ……だかあしーちゃん……」 行かないで、とは、彼女は言わなかった。 「だかあじぇったいまたあしょんでね」
ささやかな約束。 だが兄には決して容易くない約束だ。 一歩後ろどころか四方を死に取り囲まれた戦地から、生きて帰れる保証はどこにもない。 だがだからこそ、無垢な少女との約束が、兄を引き止めてくれる気がしたものだ。悔しいが、私たち大人との約束の何倍も強く。 兄はこの石をエルベストに預けた。自分で持ち歩いていてはいつなくすかもしれないと。 そしてその石が今、私の手にある。
エルベストは20年ずっと、この石に願いをかけてきたという。どうか無事にお帰りになられますようにと、願わない日は一日とてなかった、彼がそう言うのであればそれは物のたとえなどではなく事実だろう。 その石を私に寄越したのは、これからその願いを掛けるのは、私だということだ。 さすがは、私たちが生まれる前からデュランデル家に仕える男だ。今の私にはどんなプライドも意地もない、見栄など張っていられないと、分かっている。
どうか兄が無事でありますように。 怪我一つなくなどという贅沢は言わない。だがどうか、どうか無事でありますように。 この戦争があと何年続くにせよいつか終わるにせよ、それがどんな決着になるにせよあるいはまだ千年続くにせよ、頼むから生きていてほしい。生きて帰ってきてほしい。 あの小さな少女、今では年頃の娘になっているが、どうかあの小さな約束を破らないでほしい。あんなに小さな子どもだったのでは、約束のことなど覚えてもいないかもしれないが、兄は必ず覚えている。だから必ず、たとえ相手が忘れていたとしても、守り、果たしてほしい。 どうか無事に帰り、どうかもう戦うことのない人生を、どうか、どうかーーー。