スカラ迷宮 7
目を剥いたフィルさんに、僕は二つのクリスタルを見せた。 「僕も二つのクリスタルを持っています。一つはシャーレアンでいただいた賢者のもの。もう一つは、モンクのものです」 僕は、賢者としては三年足らずの、座学の知識と単なるトレーニングの経験しかないヒナチョコだが、モンクとしては20年以上鍛錬し、戦って来た。僕は実際のところ、賢者というよりモンクだった。
アラミゴを離れラザハンに渡り、しばらくは我流で、そしてかの地で高僧の一人に再会してからは、その人を師として学んだ。 師は星導山の焼き討ちに際して、モンクの技と心得を絶やすわけにはいかないと国外に脱出させられた中の一人だ。お山を守れず逃げるしかなかったことを激しく嘆いていたが、僕に再会し、教えてほしいと請われると、このために自分は生かされたのだと奮い立って、熱心に―――相当厳しく教えられた。使命感あればこそだが、軽く常軌は逸していたと思う。 それはテオドリックが排除される前だったから、いつかアラミゴに戻って家族を助けるのだと、そのときに弱くては話にならないと、僕は必死に修行した。
だからと言って、医者になるという目標を放り出したわけではない。 僕は祖父のようになりたかった。立派な政治家でありながら、いざとなれば誰かを守って戦える武人。祖父が二つのことを成し遂げていたなら、僕もそうしたかった。そうなりたかった。だから、医術や錬金術を学ぶ傍らで、モンクとしても修練した。 師は、テオドリックが倒れたと聞き僕を連れてアラミゴに戻ろうとしたが、義父が止めた。外交官として政治に詳しい彼には、帝国に支配される未来も見えていた。師も納得し、それから僕はいつか帝国支配からアラミゴを取り戻すために鍛えられた。ただしそれは師の思惑で、僕にその気はなく……。 「そんな話はどうでもいいですね。ただ、信じてください」 僕は今、駆け出しの賢者ではなく、少なくとも20年は鍛錬し、魔獣やモンスターを相手に戦った経験もあるモンクとしてここに来た。
フィルさんの顔つきは相変わらず険しい。 「ヒーラーの体じゃないのは見れば分かった。そう言われても驚きはせん。だが、立っているのもやっとの奴を戦わせられるか」 「もう少し驚いてくれると思ったんですが、そう言えばそうですね」 ここで最初に"あれ"に襲われたとき、僕は左腕がちぎれかけるほどの重傷で、治療するために当然、衣服ははずしている。たしかに僕の体を見れば、ハイランダーにしても鍛えてあると分かるだろう。考えてみれば当たり前のことについ笑う僕を、フィルさんは厳しいというより怖い顔で睨みつけてきた。 「すみません。でも、これだけは譲れないんです。そして、できるからこそ来たんです」 確かに立っているのも歩くのもつらい。けれどそこに、策と手段はちゃんとあるのだ。
モンクの三極意。紅蓮、金剛、疾風。打撃力と耐久力、そして瞬発力を上げるための操気法だ。これは極意であると同時に基本中の基本でもあって、たった二年しかお山にいなかった僕も、朝晩に何十回も、呼吸の仕方から気の巡らせ方、保ち方、集め方、繰り返し鍛錬させられた。 ラザハンで師を持ってからは、その使い方も徹底的に叩き込まれた。 今僕が立っているのもここまで来れたのも、そして今から戦おうというのも、すべてそれに依っている。 移動するのに必要なだけ力を使い、戦闘はすべて避け、限界までセーブしてここまで来ている。だから、 「すべて解放すれば、ほんのしばらくですが戦えます。十手……くらいですかね。その間に決着させます」 「十手だと?」 「フィルさん。信じてください。僕は死にに来たわけじゃありません。家族は僕を死なせたくないからラザハンへ送った。義父も義母も同じ理由で僕を帰らせなかった。僕の帰りを待ってくれている人たちは今もいます。ただ、これは僕がやりたい……他の誰にもやらせたくないことなんです」
何度も聞いた、祖父を化け物、怪物と呼ぶ言葉。怒りと嫌悪と忌避と、そして誰かが殺された後には憎悪、恨み、人喰いなのではないかとなって唾棄され、ますます憎まれる。 つらかったが、仕方ないと思った。“あれ"が凶暴な怪物なのは事実だからだ。 ただそれでも、どうしても仕方ないと思えない、思いたくないことがある。 それは、誰かが"怪物"を倒し、歓喜することだった。
達成の喜び、恐怖や緊張からの解放、祝杯と笑い声。僕もラザハンで、星戦士団の人たちとともに大型の魔獣をなんとか討伐したとき、味わった興奮だ。 トドメの一突きを入れた槍使いが、ぴくりとも動かなくなった獣を確かめて雄叫びを上げる。躍り上がる人たち、ガッツポーズを取る人たち。嬉しいし、誇らしいし、安心もするし、なんとも言えない高揚感があって、快感でもある。団員を数人殺されていたから、少し節度のない戦士が一人、死体に唾を吐き蹴りつけた。 この"怪物"を倒しても、そうなるだろう。それは当たり前の光景だ。 「でも僕にとっては祖父なんです。殺して大喜びなんてされたくない」 「トロイ」 「馬鹿だと分かっています。合理的に考えれば、今ここから引き返すのが正解です。“あれ"をなんとかしない限り調査は進まない以上、数日以内に十分な人材が揃うでしょう。僕が必死になる必要なんかない。でも……」 どう自分を説き伏せようとしても、歓喜のシーンで横たわる亡骸にあの"怪物"を重ねると、悔しくて悲しくて我慢ができなかった。朗報を待つ多くの人が喜ぶのはどうしようもないとしても、せめて一人、“怪物"を倒した張本人だけでも、喜ばせたくなかった。
事情を知ってしまったフィルさんなら、倒して喜びはしないだろう。その代わり後味の悪い思いをする。 それにやはり、これはどこか僕の家族の問題で、その後始末を他人に委ねてただ見ているだけというのは、たとえ片が付いたとしても、悔いが残りそうだった。 「おまえさんの気持ちは分からんでもない。そこまで思い極めて来たなら、俺にできる手助けくらいしてやる。だがどうする気だ。しかも、たった十手だと?」 同行した斧術士は、ただ斧を叩きつける力だけなら、相当なものだったとフィルさんは言う。それが遮二無二切りかかっても、決定打になる前に怒り狂った怪物に跳ね飛ばされ、手を焼いている隙に回復されなすすべがなかった。 鋭い刃だけでなく重量も持つ斧で破れない皮膚と肉を、拳で突破できるとは確かに考えられないだろう。だがモンクにはモンクの戦い方がある。 そしてフィルさんに頼みたいのは、ナイトとして祖父を引きつけることじゃなかった。
「戦うのは、僕一人にやらせてください」 そう言うと正気を疑われたが、これは決して感情的な自己満足のためじゃない。勝つためだ。 「攻撃はすべて避けます」 僕にはそれができる。ただ、僕に避けられるのは狭い範囲の攻撃だけだ。広範囲に広がるような衝撃波のようなものはどうしようもない。だからそこは軍学者であるフィルさんに守ってもらいたい。そして、 「戦い始めたら距離は取りません。どんな攻撃が来ても、避けられるものは避けますし、避けられないものはそのまま受けます。“あれ"に有効打を与えるには、まず内部を守る気の鎧を散らさなければなりません。液体や、霧のようなものをイメージしていただければ分かるかと思います」 連続して掻き分け続けなければ、すぐに周囲から流れ込んで欠損が埋まってしまう。およそ十手とした攻撃の内最後の一手以外は、すべてそれに費やす。そこまでの間、攻撃の手を止めるわけにはいかない。 距離が開けば無駄な時間がかかり、急に向きを変えられては一点を狙って散らすのが難しくなる。だから敵はただ一人僕だけで、僕に集中してもらわないと困るし、フィルさんに求めるのも、避けがたい攻撃からの防御だけなのだ。
「たった一発か。そこまでで気の鎧はどうにかできるとしよう。だがあの巨体だぞ」 見てのとおり、肉体そのものの防壁も厚い。けれど僕の目は、気の流れを視て次の動きも読めるし、古傷や不調の在り処も見つけられる。 「―――祖父は、日常生活には支障はありませんでしたが、心臓が少し悪かったんです」 あのとき僕にはそれも視えていた。 祖父と同じ黄金色の気、金色の輝き。同じ気を持つ誰かだと思いたかったけれど、胸のあたりに僅かに陰りがあった。信じたくなくて、嘘だと思って目を凝らしても、すぐそこまで来た金色の巨人には、やっぱり胸の中心近くに、気の流れの乱れる点があった。 「そこを突きます」 それが僕の偉大なヒーローの、あの"怪物"の弱点だった。
僕の命はおおよそ僕自身が背負っているものの、状況によっては完全にフィルさんに預けることになる。彼の援護が遅く、防護が間に合わなければお終いだ。攻撃が途切れれば回復されるし、そもそも至近距離であの巨体から繰り出される攻撃をまともに食らえば命がない。 そんな役目を押し付けるのも申し訳なかったが、もし失敗したとしても恨む気は微塵もない。こんな無茶に付きあわせて申し訳ない、自分のミスでと思わせてしまうなら本当に申し訳ないと、ただそれだけだ。 だからこのワンチャンス、決して失敗はできない。 けれどもし失敗したら、 「もし僕の"一撃"が届かなかったり、そこまで行く途中で途切れたら、すぐ撤退してください。本当なら、そのときは僕のことは気にせずにと言いたいんですが」 「当たり前だ。俺に罪悪感を背負わせたくないとか言うなら、見捨てていくのも同じことだろうが。とは言え、共倒れが最悪の結果だってことは分かってる。ぎりぎりまではなんとかしてやる。だがどうにもならんときには、心配するな。俺だけで退く」 「お願いします」 なにせすぐそこに、貴方に恋している女の子がいる。僕にもそういう人はいるけれど、少なくともこれはフィルさんの人生の出来事じゃなく、僕の人生の出来事だ。失敗の結果を背負うのは、僕でなきゃならない。
眠っている弓術士のことはコトコさんに任せた。安全な場所だとは思うが、万一なにかが近付いてきたとしても、彼女が気付いて守ってくれるだろう。 泣きそうに見えるくらい心配そうな顔で見送る彼女を残し、僕はフィルさんとともに奥へ向かう。 フィルさんは鎧をあの場に残し、軽装になっている。それでも戦闘力は健在で、小型の相手くらい、ルガディン族の男性ならば掴んで叩きつければ致命傷だ。 僕は、身体を使って戦えるようにジャケットとシャツは脱いで置いてきたが、どんな雑魚にも僅かな力だろうと使いたくはないので、やっぱりただついていくだけだ。 “怪物"はどうしたことか、宝物庫の一番奥を縄張りにしていて、少し出てくることはあってもやがてそこに戻ってしまうらしい。おかげで僕のときも今回も延々追い回されることはなく、コトコさんは間もなく戻ってこれたし、機敏ではないルガディン族であるフィルさんでも振り切ることができたという。 財産や宝物に執着なんてまるでなかった祖父なので、誰かが言っていたような、強欲のために宝物庫にいるとは思えない。 理由は分からないが、第二陣の人たちが見てきたように、一定の広さがあるのを幸いだとだけ考えておく。通路では狭すぎて、相手は腕力任せに壁ごと殴りに来ても、僕にはかわす場所がない、なんてことになりかねない。
もう少し近付くと気付かれかねない、というあたりに来ると、周囲にはまだ新しい血の痕がいくつも見つかった。それから、人の腕。祖父のしたことだと思うと、いっそ笑いたいような気になってくる。 だからこそ、止めなければならない。もう終わりにする。祖父の意識なんか欠片ほども残っていないとしても、祖父から生まれたあの"怪物"に、これ以上不名誉なことはさせたくなかった。 フィルさんについ、お会いできて良かったと言いかけたが、やめた。それでは死にに行くようだ。 僕は死にたいわけじゃない。紙一重のところまで無茶はするけれど、ちゃんと生きて帰らないとならない。僕の命は、そしてきっと誰の命も、本人一人だけのものじゃない。少なくとも僕は、僕を支えてくれる人たちの中で生きてきた。 「―――行ってきます」 今は、あれが祖父だからどうとか、迷いはない。やるべきことをやる。それだけだ。
薄暗い通路を、財宝の煌めきに満ちた広間へ、怪物の背へと歩きながら、気を練り、巡らせる。巡らせる内に引き出し、集め、練り合わせて、四肢の先まで流す。感覚はまだ鈍いが、左腕にも力が戻った。 侵入者の接近に気付いた怪物がのっそり鈍重な動きで立ちあがり、振り返る。 獣の形に、緋色の呪縛紋。重い黄金の気が僕の接近に合わせ、猛々しく輝き始める。 僕自身がモンクとして修行したから分かる。あれは"疾風"だ。昔祖父が暴漢を撃退したときも使った。大きさの分だけ重くなる体を、あれは気の力で動かしている。 そして僕も。 金剛。 疾風。 紅蓮。 今の僕にある、そして使える気のすべてを一息に集中、爆発させた。
「はあぁぁぁァァァっ!!」 番人の足元に跳び、僅かに右に傾いていた重心を、右足を払って更に崩す。一。 疾風の極意によって僕の反射が上がっているせいで、相対的に相手の動きはスローに見える。ゆっくりと傾いた体の右の脇腹に双竜脚。二。 まるきり効いていないようだが、それでも気の流れは一瞬止まり、滞ったところに双掌打。三。 自分の体ごと掻き裂く勢いの鉤爪を避け、その右腕の付け根に破砕拳。四。 膝が崩れそうになったのを、今巡らせている上に更に金剛の極意を重ねて軸足にし、胸の中央を蹴り上げ、気で力の方向を反転させ踵落とし、爆裂脚で五。 体中央の気がだいぶ薄くなったが、まだ足りない。体を縮めガードしようとした腕を連撃で弾く。六。 だがこれは体央に届かず、僅かに気の厚みが戻ろうとするのを、体を回し背をぶつけ阻む。鉄山靠で七。 相手に背を向けた状態は、目で気を視る僕には不利だ。だが接していたせいだろう。大量の気が上へと上るのを悪寒のように感じ、とっさに床に伏せた。その上に大岩でも落ちたように頭突きが来る。かろうじてかわし、床の上で脚を振り子に体を回して勢いをつけ連続で蹴り上げる、星導脚、八。使えるのはあと一手。 と思ったと同時に、“怪物"が巨体を旋回させる。僕はとっさに低く飛ぶ。背のすぐ下を太い尾が薙いでいくのを、転がるように避けて着地し、―――まずい、この戦いでは背面をとっても意味がない。 僕は九手目で背中への膝蹴りを使い、気の鎧を晴らすのではなく戻るのを阻害するしかなかった。
十手と言ったのは、十手もあれば十分という意味じゃない。僕が三極の髄を使い続けられるのが、そしてそれに耐えられるのがぎりぎり十手だった。 攻撃や動作ではなく、体そのものを支える金剛が切れる。そうなったら僕は立ってもいられない。 今まだぎりぎりで膝をつかずにいられる内に、残り一手を諦めてその力で退却すべきだと分かりきっていた。そうして誰か、僕よりはるかに強い人に、任せるべきだ。分かっているのに、僕は残っている気でもう一度三極の髄を重ねた。 考えるのはやめて、十手、振り返りながら叩きつけられる右爪を避け、もう一度右の脇腹に正拳。左手が砕けるのが分かったが、痛みはない。 打撃が届く痛みを感じたらしい"怪物"が悶える。無防備にあいた胸の、僅かにまだ気の濃いところに右の崩拳を叩き込む。十一。 それでとうとう、薄暗いいびつな脈動が金色の光を失って浮かび上がった。 だがその瞬間、“怪物"は僅かに後ずさり、獣のように床に両手を突いた。咆哮とともにすさまじい怒気が、周囲のエーテルまで吸い込みながら爆発的に高まり、金色の闘気が赤みを帯びていく。紅蓮の極意を乗せた怒りの気で、四方のすべてを吹き飛ばすつもりだ。
直感的に死を感じた。だが今離れればすべてが無駄になる。その代わり今さえ凌げば、これだけの気を放出した後で、なお体内を闘気で守ることは不可能なはず。 生と死、紙一重でなく表裏一体のチャンスだった。 弾き飛ばされ距離が開くのはまずい。床を蹴って怪物の腹下に滑りこむ。真下で、床に接した状態で食らえば、押し潰されるだけで済まないかもしれないが、やるしかなかったし―――僕の体を強いエーテルが包み込んだ。 爆発する。その破壊力を雲のようなエーテルが受け止め、飛散する。僕が感じたのはせいぜい二階から地面に叩きつけられた程度のショックで、極大の気を爆散させた獣の体内の気は、今までにないほど薄くなっていた。 その中でも特に気の陰る胸の奥に届かせるため、裂けて骨の飛び出した酷い手だが、左手をどうにか開き、この"獣"の胸に当てる。当てた手に今の僕に残るすべての気を集中させて、紅蓮発勁。 十二手目で、“獣"は大きく一度痙攣し、僕の上に落ちてきた。
すさまじい重さの肉塊が覆いかぶさる。だがその重さを感じたのは束の間で、代わりにぼろりと、崩れる感触がした。 それはもう崩れていく泥と砂の獣人像だった。 破片になって、砂のようになって、重さをなくして僕の上を転がり落ちていく。 なにか重い水袋のようなものが腹の上に落ちてきて、なまあたたかく脇腹を伝って滴る。何かと思ったが、僕は自分の頭を上げてそれを見ることもできない。
体がバラバラになりそうだった。気功で無理やり動かして、本来なら耐えられない負荷に耐えさせた。そのツケだ。 かき集めていた気がすべて、集中が切れて消散していく。それが僕の生命力、命まで含んでいるのが分かる。流れだしていくのに合わせて体が冷えて、耐え難いほどの痛みも鈍く遠くなる。 まずい、駄目だと思うが、引き戻すための力もない。 このままだと死ぬ。確実にそう分かる。 だが嫌だ。まだ死にたくない。僕が死んだら悲しむ人がいる。だったらこんな身勝手な無茶で死にたくはない。 そう思う意識も消えそうになる中で、そこにいると信じて僕は必死に懇願した。助けて、フィルさん、と―――……。