スカラ迷宮 after01

 シャーレアンに戻って十日が過ぎた。  揉め事の大半はもう終わって、僕は間もなくこの国を出ることになっていた。  何事もなければ明々後日の船で、ルドラさんが迎えに来てくれる。ルドラさんは父の弟で、ラザハンの国軍である星戦士団に所属している。勤務スケジュールには余裕があると言っても、何日も続けて休むことなどめったにない人だ。だが盲目の父には未知の場所はストレスが大きいし、その父を置いて出てくる気にはなれず母も家にいる。ルドラさんは二人に代わり、丁度いい骨休めだと言って引き受けてくれたようだ。  父にはリンクパールで多少の事情は伝えてあった。と言ってもアウトラインと、いくつかの嘘だ。アラミゴの調査に行って無茶をしてしまったこと。その怪我が思ったより重く、シャーレアンにとどまっても十分な勉強ができるとは思えないこと。なにより身元引受人になってくれている二人に迷惑がかかるということ。だから留学を打ち切り、家に戻って療養したい。そう言うと父は案の定おろおろと涙声になったが、そういうことなら帰って来なさいと言うだけだった。  何故そんな無茶をしたのか、真実はジンジャーさんたちをはじめとして誰にも言ってない。父に伝えたのも、アラミゴ生まれなのに何一つ故郷のためにしてこなかったことで気が咎めた、だ。僕にアラミゴへの愛着がなかったことは父母なら知っている。だが現地に行って解放軍の人たちと交流し、居たたまれなくなったと言えば違和感はなかったはずだ。それから、死にかけた……もう少しでも運に恵まれなかったら死んでいたことは、絶対に言う気はない。そして、そんな感情的で野蛮な行動のせいで、シャーレアンから退去を命じられたことも、とりあえずは。

 ともあれ、僕はもうシャーレアンにどんな未練もなく、早くラザハンに帰りたかった。  シャーレアンが閉鎖的な国だとは最初から知っていた。だから僕をすぐ受け入れてくれることはないとは覚悟して来たけれど、それにしても高くて厚い壁だった。権力を持っている人ほど懐疑的、保守的で、有用かどうか判断のつかない僕については、受け入れるより排除しつつ様子を見ることを選ぶ。結局僕は、大学に入れたのですら来てから半年後。取らせてもらえる講義は限られていて、大学図書館に入れてもらえるようになったのはつい一昨年の話。ヌーメノン大書院には最後まで立ち入ることもできなかった。  そんな中で幸いだったのは、ミスティさんが医学、賢学の、ジンジャーさんが回復魔法を中心とした魔法学の教授だったから、彼等の講義にはスムーズに入れてもらえたことだ。より良い医者になりたいという僕にとっては、必要最低限学びたいことに合致していた。  それでも、こんなに不自由な思いをして限られたことを学ぶくらいなら、他の国の医療を学んだほうが有益だったのじゃないかと思える。

 それに、もう去ると決まったから、強がるのはやめて認める。この五年間、かなりハードだった。  なにせ僕の目にはエーテルが、“気"が見える。気のせい、気を張る、気構える、気が抜ける。そんな言葉でも分かるとおり、人の"気"の有り様はその人の心理状態や感情を表している。もう一つの表情と言っていいそれらが、僕の目には見えている。  来た当初ほど嫌悪や否定を持たれていることはなくなったが、それでも過半の人は意図的な無関心や敬遠から変わらなかったし、無条件に見下されるのもまともに相手にされないのも日常茶飯事だった。  それでもというかだからこそというか、いわば"本音の見える"この目を利用して、相手の望む距離感を掴み、少しずつ歩み寄ろう、寄ってもらおうとしてきた。苦境や逆境は、なんとか打開してこそのものだと。  他人の思惑を相手にしていたらきりがない。泣き言や愚痴は言っても仕方ない。それでは何も解決しない。それに、父や祖父は政治家だったから、何をしても国民の誰かからは痛烈に非難された。逆恨みもされたし、理解が得られないのも当たり前だった。それに比べれば僕の環境はまだまだぬるま湯だと、そう思ってやってきた。  それも今となってはただの強がりだったと言える。  ましてや今、否定的だった人たち、懐疑的だった人たちはことごとく、断固とした拒絶と排除に傾ききっている。僕を否定していい大義名分を手に入れて、それが大勢の声になったからには尚更だ。  あと数日でこんな刺々しい世界から出ていけるとなってやっと、誰がどんな目で僕を見ていようとどうでもいいと、本心からそう思えた。

 もちろん好意的な人たちはいつもいた。大多数の拒絶や警戒の中にいたからこそ、彼等の存在は本当にありがたかった。  学長であり総合魔法学の教授でもあるモンティシェーニュ教授、歴史学のエステバン教授は最初から僕を歓迎してくれた。本屋のアルドルトンさんや、グリーナーの人たち、カフェの人たちも新顔を面白がってくれた。もちろん学生や職員の中にも僕に同情的な人はいてくれた。そしてそのほとんどの人たちは、アラミゴの一件が知れ渡っても変わらなかった。  彼等のあたたかい気持ちには感謝という言葉では足りないほどだ。  そういう人たちと別れるのは当然寂しい。だがこの空気の中で僕の味方をすることはあまりにもリスキーで、僕を心配してくれる優しい人たちだからこそ、彼等の迷惑にはなりたくはない。  僕にはもう、シャーレアンを出て行きたい理由はあっても、無理にとどまるような動機はなかった。

 ただ、一つだけ。  「もうこの国に未練はない」とか。「早くラザハンに帰りたい」とか。  言いきることのできない要素があった。  僕の本心としてはそれでしかなくても、それを言ってはいけない人というのが、一人だけいた。

 二年前だったと思う。  ミスティさんに突然、“特別な好意"について打ち明けられた。  僕の目は人の好意を"気"として見ることはできるけれど、心が読めるわけじゃない。分かるのは、好意的な気持ちを向けられていることと、その大きさくらいだ。それが友愛か家族愛か、それとも恋愛なのかまで分からない。違いはあるに違いないが、見分けることはできなかった。  だから僕が知っていたのは、ジンジャーさんもミスティさんも、過分なくらい僕のことを気にかけてくれているということで、二人の感情の違いまではまったく見分けていなかった。  だから言われたときには驚いたし、どうすればいいのか混乱した。

 僕はほとんど恋愛経験がない。厳密に言えば、誰かに恋愛感情を持ったことはなかったと思う。  二十歳くらいのときに一度、告白されて付き合ってみたことはあるけれど、うんざりするだけだった。中身のない無駄話を延々と聞かされる。買い物に付き合ってほしいと言われてついていくと、いつまでも何を買うのかさえ決めずに連れ回される。会うたびに誰かの、あるいは仕事の愚痴を聞かされる。わざわざ呼び出されて来たのに特に用事もない。ひたすら時間の無駄に思えた。  今にして思えば、僕も自分の都合を最優先にし過ぎたとは思う。ただ、信頼のできる医者になること、そしてモンクとして誰かを守れるくらいに強くなること、双方に費やす時間が足りないことはあっても余ることはなかった僕には、無為に誰かといることが楽しいとは、微塵にも思えなかった。  それで心底うんざりしたものだから、恋愛遊戯には以後、まったく興味が持てなくなった。

 だからミスティさんにそう言われたときも、まるっきりピンと来なかった。  だからつまり、どういうことなんだろう? と考えたくらいだ。友愛や親愛と違うのは、僕と性行為がしたいということなんだろうか、と―――我ながら、無味乾燥なくせに赤裸々なことを考えたものだと思う。  さすがにそう尋ねるほど馬鹿じゃなかった。けれどおそらくそれに間違いはなくて、僕は、彼とそういうことをしてもいいと思えるのかどうかで返事を探した。  ミスティさんは、無口であまり表情も変えないし、実を言えば"気"の変化も小さいから何を考えているのか分かりづらいが、僕のことを真剣に考えてくれていることは疑いようもなかった。僕が選んだ分野の先達としては尊敬するところしかなかったし、数年間共に暮らしていたのだから勤勉で真面目な人柄も知っている。ルガディン族の男性の見た目は幅があって独特だが、愛嬌やいかつさよりスマートさを感じるタイプで、単純に言えばハンサムだとも思う。好意を寄せられて困ることも嫌なこともなく、だからあとはただ、セックスしたいと思うかどうか、していいと思うかどうか、だ。

 そこで気持ち悪いとか嫌だとか思わなかったのだから、僕には最初から男女問わないところはあったのだろう。  もしかするとそれには、僕の人生のスタート地点も影響しているかもしれない。僕のこの目に対して忌避を感じていた実母。それに対して、懸念はしながらも受け入れてくれた祖父と、むしろ便利だと喜んでいた父。女性よりも男性から信頼を得、安心感を覚えた。  女性蔑視のつもりはない。実母はもちろん養母のことも養従妹のことも好きだし、同僚や友人に素敵な人だなと思うことはあった。(人として) 最初に付き合ったのが彼女たちのような人だったら、僕の恋愛観も違っていたのかもしれない。  だからこれは、僕が男性から恋愛感情を向けられても平気だった理由の話だ。

 なんにせよ僕は、よく分からないからひとまず承諾した。恋愛関係というのがそもそもよく分からず、性行為が可能なのかどうかも分からない。(僕の心理的に、そして肉体的に) 付き合ってみたら思ったよりもつまらなかったとか、それは僕からだけでなくミスティさんからもあるはずで、だから試してみるのが一番だった。  試してみて分かったのは、誰かから特別に思われるというのは、嬉しいし心地いいということだ。  ただ―――ただ僕の気持ちは、思ってくれるから思い返すという域を、出なかったようだ。現に今こうしてシャーレアンを去らなければならないというときに、どうしてもミスティさんと離れたくないとは、思っていない。

 もう会えないだろうことは寂しい。けれど他の人に比べて際立ってということはなく、今までありがとうございました、どうかお元気でという思い以外は出てこない。  酷いなと思う。かけてもらっていた思いの大きさが分かるだけに、たったこれだけしか思い返していなかったなんて、酷いとしか言えない。  だがもっと未練があるふりをするとか、恋しがるふりをするとか、それこそ不実に思えて僕にはできない。  だから今、どうすればいいのか一番分からないのは、ミスティさんのことだった。

 アラミゴにいるときには怒りの"気"を発していたミスティさんだが、船の中で、何にそんなに怒っているのかを話してくれて、それでおさまった。  僕のした無茶にも当然怒ったが、どうして自分がそのときそこにいなかったのか、何故止めなかったのか、ミスティさん自身や周囲の人たちにまで腹が立って仕方なかったらしい。 「私がいれば」  とミスティさんは僕の左手に言う。確かにあの場にミスティさんがいれば、この手はもっとちゃんと左手の形をとどめていただろう。だからミスティさんは、理不尽すぎると自覚していても、フィルさんにも怒っていた。どうしてこの程度の治療しかできなかったのか、と。  だが同時に、それが理不尽どころかそれ以下だということも彼は分かっていた。私がそこにいればとミスティさんは思う。だが、もしあの場にいたのがフィルさんでなくミスティさんだったら、僕は死んでいた。ミスティさんは医師として完璧な治療はできてもヒーラーとしては平凡で、死にかけている僕の生命力を補助できないからだ。だから、理不尽にもフィルさんに腹を立ててしまう自分に、よりいっそう腹を立てざるをえない。  止めなかった不滅隊の人たち、僕をそんな無茶に追い込んだラスティング・ドーンさん、ありとあらゆるものが許せなかったらしい。

 僕にそんな気持ちを伝えて整理はついたのだろう。そこからはもう激怒しているということはなかったが、それでもたまに思い返すようにして、許せない思いは湧き上がっていた。  そして今は、僕に意識を向けないようにしている。出て行くと決まってしまったからにはどうしようもない。気にかけないようにしたのだろうと思う。僕にはやはり心は読めないから、“気"が抑えられていることと、意識して逸らされていることくらいしか分からない。  僕はそれにどう応じていいか分からずにいる。そしてたぶん、このまま別れることになるんだろうなと思っていて、それを寂しいとは思うけれど、嫌だとは思えずにいた。

 相変わらず僕は、数時間起きていて半日寝ているとか、起きているつもりだったのにいつの間にか寝ているとかで、到底回復したとは言い難い。  それでも二人とも、僕に構って大学の講義を投げ出すわけにはいかない。学生なら自分一人のことだが、教授では抱えている学生全員の損失になる。それに何より、それが僕のせいであれば、二人への不満ではなく僕への敵意になる。日中は留守にせざるをえないだけに、帰ってくるとジンジャーさんはほぼ付きっきりでいてくれる。  同じ屋根の下で暮らしていれば、僕たちの関係性についてはジンジャーさんも知っていて、 「ほんっと、はっきりしない子でごめんねぇ」  そんなことを言ったりもする。

 明瞭な答えや決着はあったほうがいいのかもしれないが、なし崩しに終わってしまう物事のほうが、世の中には多い。たぶん僕とミスティさんもそうで、このまま明日になり、明後日になり、その夜が明けたら僕はこの国を出て行って、それきりになる。  それが差し迫っていても、離れたくないとかまだ一緒にいたいとかは思わないのが事実で、その代わり僕はただ申し訳なく思う。  それを言葉にして伝えて詫びたほうがいいのか、黙っていたほうがいいのかは分からない。嘘をつくという選択肢はあるけれど、それは何度考えても僕には選べないものだ。それとも、ミスティさんにとってはそのほうがいいのだろうか。僕にとっては不本意で納得できなくても、ミスティさんがそれで納得がいって、けじめがつくのなら……。  人間は、ただ生きているだけでもエーテルを消費している。ベッドに横になって息をすることにさえだ。そのうえあれこれ考えようとすると、すぐぼんやりして頭が重くなってくる。  そうしてまた一日が明けてしまった。

 ラザハンとの往復船が港に入る日、僕はまた久し振りに自分の足で外に出た。  査問会ーーー僕の処遇について決めるという名目の、結論は既に決定しているただのダメ出し会ーーー以来だから、6日ぶりだ。本当は歩くのに息が切れるくらいだが、馬鹿げていて結構で僕にも意地はあるし見栄もある。ジンジャーさんに抱えられるのはやっぱり丁重にお断りした。  そんな僕を目にしたとき、同情や労りではなく侮蔑や嘲笑を覚える人なんて、見たくもない。  無理をすればまた気絶しかねない、むしろするのだろうが、幸いルドラさんは剛胆だし、不足するエーテルを補うための経口薬と、血管注入型のアンプルは多めに持たされている。

 ジンジャーさんははらはらしているし、身体的には離れていても、“気"が僕を包むくらいに強く気にかけてくれているのが分かる。  ミスティさんは、相変わらず小さくシュリンクした気のままで、その後ろからついてきているようだ。たぶん、これが僕たちの結末だ。  僕は、僕に良くしてくれた人たちに、見送りには来ないでほしいと頼んでおいた。ジンジャーさんたちは家主であり推薦人だった時点でもう遅いが、それ以外の人たちまで僕への反感に巻き込まれてほしくはない。彼等のためでもあるし、それで心苦しく思う僕自身のためでもある。  白い目というのは空虚な気でもあって、白々しいそれらをできるだけ無視して港につくと、華やかな色彩の帆を上げた船が一隻、既に入港していた。  それを目にするだけでも、懐かしさとあたたかさに息が詰まりそうになる。

 ルドラさんは、僕の状態が思っていたよりかなり悪いことにぎょっとした。だがさすがに20年以上も軍人として鍛え過ごしてきただけに、父のように狼狽することはない。 「アグニが知ったら卒倒するぞこりゃ」  そう言いながら、船旅のせいで具合が悪くなったことにするかと溜め息をついた。  ただ、さすがにぎりぎり手らしい形をした左手に気付くと、額の鱗が重なってこすれ、鳴るほど険しい顔になる。逆立って固くなる"気"は、ミスティさんに似た怒り方だ。 「おまえ、何しでかした」  ルドラさんにはこの後船内で、もう少し詳しい話をするしかない。とはいえ彼も武で身を立てた人だし、魔物の討伐などで共に戦ったことは何度かあるから、父よりは冷静に僕の話を受け止めてくれるだろう。それだけのことでなんて馬鹿なことをしたんだとはやっぱり言われるだろうし、気の弱い父にどう伝えればいいか悩むだろうが、既に和らいだ気は僕の左手を包んでいて、見放される心配がないのがありがたかった。

 本当ならもっと別れを惜しみ、ルドラさんと二人との間でかわすべき言葉もあったはずだが、 「本当なら、こうして立っているのも勧められませんのよ。早く横にならせてあげてくださいな。あたくしなりに、知っておいていただきたいことはこちらにまとめておきましたから、どうか後でお読みになってくださいまし」  ジンジャーさんに促され、早々に船室に引き上げた。甲板に立って見送り見送られるシーンは総カットだ。  ……ミスティさんとはこの最後の数日、顔を合わせるのも最低限、診察時だけで、必要なこと以外口もきかなかった。今日も彼は、ルドラさんに挨拶するために一言二言喋ったきりだったように思う。  そして僕も何を言っていいか分からずに、ジンジャーさんとひとまとめに、この五年間の感謝を伝えるくらいしかできなかった。  自然消滅にしても曖昧すぎる幕切れで、けれど現実はこんなものかもしれない。愁嘆場あるいはドラマチックな別れ、きっちりとケリのつく話。そんな、物語のようにはいかないのだろうーーー。