スカラ迷宮 after02
【Troy】
ラザハンに戻って一ヶ月と少し過ぎた。 僕の体感では「もうそんなに?」なのは、ほとんど寝ているせいだ。相変わらず数時間起きていて半日寝ている……どころか丸一日寝続けるようなこともある。特別具合が悪いとか悪化したというわけではなくて、それが今の僕の自然な状態だった。 僕はシャーレアンにいた最後の十日間も、特別無理をしたつもりはなかった。けれどあの国を離れて家に戻って気が付いた。実際には、ジンジャーさんたちにこれ以上迷惑をかけてはいけない、心配させるわけにはいかないとずっと気を張っていて、自然体ではなかった。 だがここでの僕は、そんな気を使わなくていい。ラザハンに来て20年以上もしてやっとそう思えるというのは、そのほとんどの間、僕を我が子として扱ってくれた両親には申し訳ないことなのかもしれない。けれどそれがようやくの本音だった。
家に戻って顔を合わせれば、話したよりも状態が悪いことは両親にも一目瞭然で、父さんに泣かれ母さんに怒られ、どこからか事情を知った先生(錬金術のだ)にも特大の雷を落とされ、裏腹に彼等の"気"持ちは手で触れられそうなほど強く僕に傾いていた。 それに、帰りの船でルドラさんから叱られた。 「おまえは昔っからちゃんとしてるがよ、“ちゃんとして見せてる"だけのことも多かったよな。褒められたいとか叱られたくないとかならともかく、「僕はちゃんとしてるから平気です」ってな。今だってそうだ。「なんともなくはないけど、大丈夫です、平気です」。俺にそう思わせようとしてる」 そう言われると、違うとは言えなかった。 「おまえの気持ちは分かるつもりだ。迷惑かけちゃいけねえとか、思わずにいるなんて無理だよな。だがよ、おまえがアグニのとこ来て何年たった。もう20年だろ。この20年で一度でも、俺たちがおまえを、他人の子だ、面倒かけるんじゃねえなんて扱ったことあったかよ」 そろそろ信じて甘えてくれとルドラさんは言った。真剣な言葉だった。
心配をかけまいとすることで、かえって心配させていたのかもしれない。「手のかからない子」は、楽ではあっても寂しいことだったのかもしれない。頼られると嬉しいというのは僕にも分かる。今更ではあったけれど、僕はもっと彼等に甘えていいのだと思えて、おかげで安心して眠ることができた。 最初はひどく心配されたけれど、ジンジャーさんが作ってくれたメモには、不要な心配をさせない程度に僕の状態が書かれていて、衰弱せず眠っているようならそれは回復に向かっている証だと納得してもらえた。 実際僕はシャーレアンにいたときよりも長く眠っている反面、起きているときの気分は格段にいい。少し体を動かしたいなと自然に思えるときには、庭を散歩することもあるし、近所の商店に買い物に行っても疲れたとは感じない。逆に動くのが億劫なときには、一日も二日もベッドから出ないでいる。
ルドラさんは王都の製薬堂で作ってもらった薬を送ってくることがあった。 錬金術を学んでいたときの仲間が何人か、北に戻ってきていたようで、それでも彼等の住む地区からここまではかなり距離があるのにわざわざ見舞いに来てくれたりもした。 薬草医の先生はこまめに診察に来てくれるし、珍しい本を持ってきてくれたりもする。 それぞれの距離なりに、みんな僕のことを気にかけ心配してくれる。冷たさの勝る五年間を過ごした後だから余計に、そのありがたさと嬉しさが身にしみた。
母さんが置いていったスープもそうだ。 固形物の消化にエネルギーを使いたくない僕のために、母とお手伝いさんが数日かけて作ってくれる。いろんな食材を熱が通るぎりぎりの温度で、その代わり数日かけて煮込む。極弱火の火は油断すると消えるから、こまめに火加減を見に行かないといけない。そのおかげでありったけの栄養が溶け出したスープになるし、抜群に美味しくもある。 だからちゃんと全部飲みきりたいのだが、今日はどうしても眠気には勝てなかった。起きる頃には冷めきって煮凝りになっているから、温めなおすことになる。ごめんなさいとは思うが、無理にも起きているような真似はしないでおく。 飲み残しをサイドボードの上に置いて横になると、とろけるような穏やかな眠りの波が来た。
そうしてうとうとと沈んでいきそうなとき、不意になにかがぼすんと胸の上に叩きつけられた。 それは柔らかく大きなもので、反射的に右手をあげて触ると、さらさらふかふか、そしてもちもちしている。 「トーローイー。また眠いの? もうちょっとだけ起きてない?」 不満げに言いながら、その白っぽいふかふかの上から角のある小さな顔が覗く。 「ヴィトヤさん。なんですか、これ」 閉じそうになる目をなんとか開けて見下ろすと、白い中にそこだけ少し固い鼻面と刺繍された黒丸2つ、つまり顔らしいものが確認できた。どうやら……猫? のようだ。 「んっと、これは……、よし、ここに決定」 ヴィトヤさんはルドラさんの娘で、僕の従妹ということになる。2つ年下なので30になったはずなのだが、小柄なアウラ女性は僕からするとどうにも少し幼く見える。だとしてもせいぜいで20歳前後の感覚だから、そんな年頃の、あるいは妙齢の女性が、ベッドにいる僕の上にのこのこと体を乗り上げてくるのはどうなのだろうか。 ヴィトヤさんは僕の上に腹ばいになって、持ってきたそれを枕元、壁際に置く。薄い上掛け越しに、豊かとは言えなくても柔らかな膨らみが僕の胸に押し付けられているのだが、本人はまったく気にしていない。こんな体勢なのは土足でベッドを汚さないためだろうが、本当に困った人だ。
「これ絶対トロイ好きだからさ、買っちゃった」 すべすべのさらさらのもふもふのふかふか。太った、と言うにしてもまるまるとした猫らしき物体だ。ぬいぐるみというよりはクッションだろうか。なんにせよ、僕の部屋にまた一つ人形が増えたらしい。 陶製のドール、木彫や金属製の置物、それから布製のぬいぐるみ。それらの中には、留守にしていた五年間で勝手に増えていたものもある。ほぼヴィトヤさんが持ち込んだもののようだ。どういうわけか水生生物に偏っていて、くたくたした十本足のタコ(それとも赤くて丸い胴のイカ)、小さな手足のついたころころした鮫らしきもの、大きな水色の二枚貝の中には、真珠ではなく毛糸で編んだらしい河豚?(それとも針のないハリセンボン) それから珊瑚で作られた小さなカニの親子の置物に、たぶん海藻ではないかと思われる妙な手触りをした緑色のなにか。 似合わないと言われるだろうが、僕はこういうものが好きだった。
最初は、寂しかったからだろうと思う。家族のもとを離れて異国で一人。預けられた先のおじさんとおばさんは本当に良くしてくれたけれど、平気な顔をしているのはやっぱり"ふり"だった。いや。平気なふりをしようとしたというより、平気でなければ駄目だったから、平気なつもりでいた。そんなときヴィトヤさんが忘れていき、もういらないと言った人形が、神の姿を模したものだったせいで捨てるにはしのびないと、僕のところに来た。それはドグ神のもので、黒髪の巻き毛で小柄なおばさん、今の養母とは真逆の、すらりとした長身に腰まである金髪。面のせいで顔は分からなくても、少しだけ実母に似て見えた。 ぬいぐるみというには固かった覚えがある。けれど割れたりするような材質ではなく、手触りは布だった。心細くなった夜には抱えて寝ていたこともある。そんな僕を見ておじさんとおばさんは、少しでも寂しくないようにと心を砕いてくれたのだろう。最初のいくつかの人形や置物は、そうして僕のものになった。
男なのにおかしいと思ったことはなかった。たぶん誰にもからかわれなかったからだ。ヴィトヤさんには笑われた覚えがあるが、彼女は自分の持っているいろんな人形やぬいぐるみを持ってきて、これはいらないか、こっちはどうかと喜々として僕に譲るようになった。「変なの」と言ったすぐ後には、変でも良くなっている。変じゃないと思うからではなく、変なままで好きになってくれる。ヴィトヤさんはそういう人だった。 年下ではあっても、子供の頃からずっと、僕に対しては姉のように振る舞う。それは今も変わらない。30を過ぎれば2つ3つの違いなどあってないようなものだから尚更だ。
「これ大きいから、起きてる間の背もたれにもいいと思うんだよね。高かったんだよ~」 ヴィトヤさんが勤めている商会に、アズマ経由で入ってきたエオルゼアの流行りものらしい。3つだけ入荷したうちの一つをヴィトヤさんが買ってきたのだが、市場に出したい親方に渋られて、従業員割引は実現しなかった。彼女はいつもこんなふうに勝手だが、自分が勝手にしていることだというのはちゃんと分かっていて、求めるのはいつも、僕に喜んでもらうことと、褒めてもらうことだけだ。 「ありがとうございます。大事にしますね」 そう言うだけで、ただでさえ陽気で元気なヴィトヤさんの気がぱっと華やいだ。
人の"気"は、強いほうから弱いほうへと自然に流れる。今の僕にとってヴィトヤさんは、傍にいるだけで薬になるような存在だ。だがこれでも彼女はれっきとした既婚者で、旦那さんは(ヴィトヤさんが人懐っこすぎるせいだが)けっこうなやきもち焼きなので、そこにいてくれませんかと言うのはやめにしている。 元気と言えば母も十分溌剌として元気だし、新しい薬の開発に張り切っている昔の仲間が、やる気に満ちた状態で遊びに来てくれたりすれば、しっかりその恩恵にあずかれた。 少なくとも、家に籠もりきりの僕のところにわざわざ来るのは見舞客や親族だけで、不愉快な感情を目にすることはまったくない。義理で来ただけの相手でさえ、義理くらいは感じて来てくれているのだから十分だ。
僕がシャーレアンのことを思い出すのはいつも、そういう彼等と比較してになっていた。 そしてそういうときにはどうしても、きちんと解決も解消もしないまま残してきたもののことが気になった。だがそれはもう僕には無縁のものだ。どうしようもない。たぶん相手もそう思って、過去のものとして整理しただろう。 そう思うと少し寂しい気がするのが、ささやかであるにも勝手にも程があるけれど、僕の本音だった。
「トロイ? もう無理? 寝ちゃう?」 「すみません……眠くて……」 「しょーがないなー。じゃあこれちょうだい。トロイは後で新しいのもらってよ」 本当に、気取りがないにしても気が置けないにしても限度があるとは思うが、僕の食べ残しのスープを、使っていたスプーンもそのままでヴィトヤさんはもう口に運んでいる。 「ドゥルヴさんに……怒られますよ」 「ん? 何を?」 思いつくままに口にしたけれど、もう少し僕に対しても(どの男性に対してもだろうが)異性という意識を持ったほうがいいということを説明する前に、起きているのが無理になった。
【Misty】
その日の講義で使った薬がラザハン製だったからだろう。講義が終わって教室を出ていこうとする私の耳に、こんな声が聞こえた。 「そういやあいつどうしてんのかな」 そう言った男子学生の声は、少しばかり沈んだようでもいて、たとえ好意はなかったとしても、重傷者のその後として気にはなる、といったものだったと思う。そんな関心があればこそ、ラサハン製の物から彼のことを連想したのだろう。 だが答えた女子学生の声は、 「くたばってるんじゃない?」 笑っていた。
もしそこで、会話の相手、共にいた何人か、口火を切った彼だけでも、そんなことを言うものじゃないと窘めたなら、私にもまだ忍耐の余地はあったと思う。だが笑い声に呼応するように笑い声が返り、何度か耳にしてきた雑言になり、 「別にいいじゃん。どうなっててもさ。こんなつまんない話やめようよ。せっかくいなくなったのに」 吐き出すような言葉に、私の忍耐は限界を越えた。
「それはトロイくんことか」 一団に近づき問いかけると、全員口を噤む。二人はしまったとくらい思ったのか顔色を変えたが、三人はだからなんだと言わんばかりに私を見上げ、剰え言う。 「教授。いくら寄宿させて面倒見てたからって、それってただの贔屓ですよね。実際あの人、どこか少しでもシャーレアンに」 相応しいところかありましたか、とでも言いたかったのだろうが、 「自分の好悪や価値観で、傷ついた誰かを笑う。それがシャーレアンに、しかも医者になろうという人間に相応しい態度ということか」 我慢ならなかった。
もう怒りも湧かなかった。 あるのはただ、こんなゴミクズとは一秒たりとも同じ空気を吸っていたくないという嫌悪感で、私は教室を出、そして学舎も出た。 午後の講義を行う気は完全にゼロだった。 歩きながら私は決めていた。ラザハンに行こう、と。
トロイくんが私に対して持ってくれた思いは、私のものに比べたらずいぶんささやかだったと分かっている。人としての好意、先達としての敬意、その程度だ。どうしても私といたいと思ってくれているわけではない。だからこんな悪意だらけの場所に引き止めるなど言語道断で、そしてそのまま、きちんと話もせず別れてしまった。 だから今更、私の思いを押し付けるつもりはない。ただ、彼の左手をもう少し治療したかった。それは、あんな連中の相手をするよりはるかに意義のあることだった。
「ちょちょちょ、ミーちゃん、講義は? 今日4コマ……」 想定外の私の帰宅に、休みだったジギが部屋に来る。荷造りを始めながら私は、 「辞める」 そう言った。 「はあ!? なによ突然!? やめるってなに!? なにをよ!?」 「うんざりした」 「はいはいはいはい説明しなさいよ! それだけで分かるわけないでしょ!?」 あんな連中のことは口にするのもおぞましい。 事情はいずれ耳に入る。歪んで伝わるに違いないその話からでも、ジギなら事実を推測できるだろう。私はもう一秒でもこんな場所にいたくなかった。 だが、 「だからちょっと待ちなさいっての!!」 力任せになるとジギには勝てない。奪われた鞄を取り戻すには、どうあってもわけを話さなければならなかった。
こまかいことは思い出したくもない。とにかく学生に失望した。そういうことだ。 好悪で人の命を笑う。それがもし心底の、真剣なものならまだいい。ラスティがトロイくんに向けた嫌悪も不愉快極まりないが、それでもあいつのそれは腹の底からのものだろう。良し悪しは別として、それは生半なことでは変わらない、譲れない思いだ。だがあいつらはただぺちゃくちゃと、自分たちの優越の材料として取り上げる。 教授という立場上、学生に対する責任があった。だからずっと我慢してきた。だがもうどうでもいい。単位をやらないだの注意するだの、知ったことじゃない。私が辞めたところで後任はいるし、その誰かがあのゴミどもを医者にもするだろう。だが知ったことではない。私はもう二度と関わらない。 あんな連中のために使う時間があるなら、私はそれをすべてトロイくんに使いたい。それだけだ。
「分かったら返せ」 「止めたって止まらないんだから返すけど、あんた、アタシがどんだけ迷惑すると思ってんのよ」 「おまえなら平気だろう。嫌ならおまえも来ればいい」 「おあいにくさまー。うちのコたちはミーちゃんのとこのコらと違って、良心も良識も見失ってなんかいませーん。アタシはあのコたちを立派なヒーラーにしたいもの。そう簡単に投げ出せないわよ」 「だったら我慢してくれ」
溜め息をつきながらもジギは私に鞄を返し、それから港に通信して船の出入りを問い合わせた。 私は荷造りを続けながら、結果を待つ。 「うん。ラッキーね。一昨日入港したアズマの船が、明日の朝イチに出るみたいよ。ミーちゃん、ラザハンに行くとかどうとかの前に、もうとにかくここ出たいんでしょ? だったらまずアズマに行って、そこでラザハン行きの船探しなさいな」 迷惑代は、アズマに着いたら美味いマンジュウでも探して送ることだとジギは言う。それで勘弁してあげる、と。 ただ、知っておきなさいと言われた。私の学生たちがトロイくんに対して辛辣だったのは、私のせいでもある、と。
「ミーちゃんが悪いってわけじゃないわよ。でもね、原因があんたなのは事実。あんた全然自覚ないからあれだけど、若いコたちにとってあんたは"憧れの教授"なのよ。ただのミーハーだけどね。彼女になりたぁいとかまでは思ってなくても、キャッキャ言ってるのが楽しい、つまりはアイドル。でもアイドルって、誰に対しても同じように愛想振りまいて、同じように無関心だから成り立つの。そのアイドル様が、特定の一人にだけ特別に笑いかけたり、おしゃべりしてあげたりして御覧なさいな。嫉妬がどこに向くかくらい分かるでしょ」 つまり、私も加害者に加担していた、いや、私が加害者を生み出していたということかと、さすがに愕然とした。 「嫉妬したからって、それで誰かを虐げていいなんて法はないわ。だから悪いのはあくまで学生たち自身。ミーちゃんじゃない。でももしミーちゃんが、せめてあのコらの前でくらいトロイちゃんに冷たいふりしてたら、少しは違ったかもしれない。って言ったって、あたしだってそれに気付いたの、アラミゴから戻った後だもの。大きなこと言えないけどね」
だから、とジギは言った。落ち込んだり自責したりする暇はない、と。私たちが周囲の人間の反応に鈍感だったせいで、トロイくんが失ったもの、得られなかったものがある。その代わりにできることがあるならしなければならない。ラザハンに行き治療の続きをすることは、間違いなくその最たるものだ。 「トロイちゃんには、癇癪起こして大学辞めたとか、余計なことは絶対言うんじゃないわよ。あと、色恋沙汰はいったん禁止。棚上げ。後回し。いい? あんたがラザハンに行くのは、中途半端になった治療のため。まずはそれだけよ。で、それが一段落ついて落ち着いたら、そこから先は好きになさいな。ただ言っておくけど、フラれたからって、もうここには戻れないからね?」 「……分かってる」 それは分かっている。半年なり期間を設けて、正規の手続きで辞職し国外に出るならともかく、今日の明日で責任も立場も捨てて出て行くのだ。それくらいの覚悟はあった。
気が立っていて眠れなかった。 長い夜だった。 本でも読もうとしても、つい考えてしまう。 一欠片として理解や許容の余地はないと思った学生たちだが、彼等を助長していたのが私の態度だということ。ジギの言うとおり、悪いのは彼等自身だ。だが私の態度次第では、トロイくんももう少しくらいは過ごしやすかったのだと思うと私に責任がないとは到底思えない。 そして彼のところへ行き、ジギの言うとおり、トロイくんが困るような話をするつもりはない。当然彼も気にはするだろうが、まずは治療のために来ただけだと、それははっきりと言わなければならない。 講義を放り出していいのかとは思われるだろう。それは適当な嘘をつくより、大丈夫だ、気にしなくていいとだけ言っておこうか。 そしてもし、もう一度私と過ごしてもいいと言ってもらえることがあったなら、そのときには本当のことを話してもいいかもしれない。そうでないなら、君への態度に腹を立てて出てきたなどということは、言わないほうがいい。 そしてもし、私の気持ちが負担になるなら、つまりはフラれたなら―――トロイくんの傍にいるのは迷惑だろう。どこか別の国に行くしかない。どこかよそ。それがどこの国なのか、そこでどうやって職や住処を得て暮らすのか、それは今のところ、まったく想像ができない。
眠くなってきた頃に東の空が明るんで、私は鞄2つだけ持って家を出た。玄関まで見送りに出てきたジギは、 「困ったことがあったら連絡してちょうだい。まさか手紙も届けてもらえないなんてことはないでしょうしね。それからこれ。アタシからの餞別よ」 そう言って渡されたのは、5万近い現金にできる手形だった。 「ジギ」 「いいこと? この国は、人生のほとんどすべてが国によって保障されてる。だからこれだけあったらなんでもできるように思うでしょうけど、他の国に行けばこんなもの、住むところを借りて、生活に必要なもの揃えたら、半分も残らないわ。トロイちゃんとうまくいけば、ご実家のお世話になることもできるかもしれないけど、そうでなかったらあんた、一人で生きてかなきゃいけないのよ?」 それを考えれば、この程度の援助はあってなきがごとしだとジギは溜め息をついた。
私たちはシャーレアンでの生き方しか知らない。貧困や戦争は本の中、人の話の中だけのものだ。税金、肉体労働、経済格差、暴力とそれを用いた犯罪。それらがこの国の外での世間なら、私はかなりの世間知らずということになる。ジギが私を心配するように、私自身も不安ではあった。 だがもう暴挙はおかした後だ。それを反省し、謝罪し、元の居場所に戻るなどというのは、考えるだけでもぞっとする。 だから、 「もう行く」 私にはそれしかない。 「ええ。いってらっしゃい。しっかりやんなさいよ。トロイちゃんによろしくね」 私がシャーレアンでたった一つ、たった一人だけ未練も名残も覚える兄に見送られて、私は家を出、白い朝靄の中を港へ向かって歩き出した。希望や期待はなく、あるのは不安と使命感ばかりだ。それでも私に、引き返そうという思いが湧くことは一度もないまま、やがて船尾はるかの水平線に、私の故郷は見えなくなった。