ブラトロ はじまり
目が覚めると、既に室内は眩しく感じるほど明るかった。カーテン越しにもこれだけ明るいなら、もう正午近いか、過ぎたのだろう。 隣にも部屋の何処にも灰色の肌の巨漢は見当たらず、それならたぶん仕事に違いない。彼がいないなら、このままもう一度寝ようとそれを阻む者はない。ないが、この状態で二度寝すれば次に起きるのは夕方を過ぎていそうで、それは避けたかった。規則正しい生活に意味はなくても、これは30年かけて染み付いた僕の習性みたいなものだ。 起き上がると、体中の気怠さにまぎれ、下肢に異物感を覚える。時折本当に何か入れられていることもあるけれど、今日のこれはただの残滓、感覚の名残だった。
僕がこの邸宅、ブランスウェルドの屋敷に連れてこられてから、そろそろ半年経つだろうか。誘拐同然にここに連れて来て、置いてやるから俺の相手をしろと言った。……いや。もっと正確に言えば、命令でも指示でもない。選択肢のない駆け引き、それとも、力関係の明確な取り引き。絶対にノーのない、一方通行の、行き止まりだ。 僕が断固として拒めばこうはならなかったのかもしれない。だが実際僕は、帰らせてくれとは言えなかった。 ブランスウェルドは言った。 「あいつ(フィル)ンとこじゃ、迷惑かけちゃいけねえ、殺しなんぞさせちゃいけねえと、気ィ張らずにゃいられねえだろ」 だがここでは、絶望したければすればいいと言った。そうなったら殺してやると。そして言った。 「俺は元海賊だ。人を殺すのもハエを叩き潰すのも、大して違わねえ」 大きな口の端を上げてニッと笑ったとき、僕はそれがなんの誇張でも威勢でもない、いっそつまらないほど他愛もない事実でしかないのを視た。
彼の気は珍しい藍色で、しかも旺盛な生命力を示して色濃く溢れ出している。それだけ横溢していれば普通は無秩序ででらためなものだが、彼の気は軽くなだめられるような形で、コントロールされていた。 実のところそれはフィルさんの気のあり方にも似ていて、強い信念や情熱を、それを上回る明確な意志で自分のものにしている稀有な形だ。……はるか昔で言えば、僕の祖父もそうだった。 ブランスウェルドの気は、“殺人"というタブーにほんの少しも沸き立たず、震えも揺らぎもしなかった。他愛もなく、造作もなく、自分の意志一つで簡単にできることの証だった。 そして彼が言ったことは図星で、その代わり俺のものになれ、ということだった。
どこまで僕のことを調べたのか、そして、人が調べられる事実からどこまで正確に推察したのか、僕に男性の恋人がいたことも知っていて、そして、彼が故郷に帰っていったことも知っていた。 「世界の危機に対処するため、必要な人材か。大きく出たモンだ。ま、一人の人間と世界、……その一人の人間も含んだ世界を救うためと言われりゃ、な? そのうえ肝心の可愛コちゃんは、行かないでくれなんて、言わなかったんだろ?」 そのとおりだ。僕は、行ってくださいと言った。足蹴にして出てきたシャーレアンから、そんなことはもうどうでもいいからぜひ帰ってきてくれと求められたのだ。今を逃せば二度と帰れないかもしれない。それに、僕の背負ったものは多くの人が背負ったものだ。それを根幹から解決できるなら、そうしてくれたほうがいいに決まっている。 だから僕はミスティさんの背を押して、船に乗せた。
「正直おまえも、そのほうが楽だったんじゃねえか? なあ? 心配して付き添ってくれんのはいいがよ、おかげで四六時中 平気なふりするハメんなる。な? ほっとしなかったか? カレシがいなくなって家ン中 一人ンなって、これでもう平気な顔してなくていい、好きなだけ落ち込んでいられるってよ?」 それもまた図星だった。 元海賊。リムサ・ロミンサが海賊廃止に向けて動く前にそれを見越して足を洗い、財宝のすべてを処分し誰より早く海運業と貿易に舵を切った。海賊として鍛えた航海術、操船術と、そして海戦術を駆使し、“未開の海(ブルーオーシャン)“を商売人として思う様泳ぎ回り支配して、今では莫大な資産を持つ事業主だ。その並外れた直感と洞察力は、僕の"気"を視る能力が子供騙しに思えるほど鋭かった。 そして、 「なんで行くなって言わなかった」 大仰にからかうようだった口調が一転、重くなると、容赦がなかった。
「なんでそいつの前で泣きわめいて当たり散らして怒鳴りつけて、なんとかしてくれ助けてくれって言わなかった。つらくてたまんねえから傍にいてくれって、なんで言わなかったよ。―――なんでそいつは、世界なんぞどうでもいいって言わなかった」 罠なのか計算なのか、それとも、この元大海賊に大勢の部下が今も付き従っている、これが理由なんだろうか。 「俺なら、明日の世界なんざどうでもいい。惚れた奴が今目の前で苦しんでるときに、傍を離れるなんてありえねえ」 世界なんて滅びるなら滅びればいいと、“気"と同じ深い藍色の目で、覗きこむようにまっすぐに見据えられると、それはもし彼にそんな恋人がいればの話で僕に向かって言っていることではないのに、せいぜい取り繕ってきた品行方正は跡形もなく崩れ落ちた。
本当は僕も分かっていた。 お互いに遠慮しながら、いちにのさんと呼吸と歩調を合わせて上手くやっていた、当り障りのない恋人ごっこだと。シャーレアンを離れたあのときの僕と、本質的にはなにも変わっていなかったのだと。 ミスティさんがラザハンにまで追いかけてきてくれて、変わったつもりでいたけれど、結局僕は、そしてミスティさんも、どうしようもないような強い思いは持っていなかった。さよならと言われれば、愁嘆場を演じることなく別れられる、お行儀のいい恋愛演習だった。
自分を拉致してきた無法者相手に、けれどそんな無法者だからなのだろう。物分りのいいふりも、自分のことくらい全部自分でできるふりも、する必要はなくて、身勝手すぎるとずっと飲み込んできた言葉をぶちまけた。 どうしてこんな目に遭わなきゃいけないのか。いったい僕のなにが悪くてこんなことになるのか。良かれと思って選んだつもりで、本当は全部間違っていたんじゃないのか。僕がそのままアラミゴで育っていたら、シャーレアンに行かなかったら、遺跡に行かなかったら、ウルダハに行かなかったら、家族と一緒に死ねたのかもしれないし、余計なことを知らなくて済んだだろうし、傍にいれば助けて逃げられたかもしれないのに、僕はいつもいつも間違った道ばかり選んでいる。だからもう、どうしていいか分からない。なにも選びたくない。なにもしたくない。でも絶望もできない。何もかも投げ出そうと思っても僕にそんな資格はないと思えて、このまま苦しんでいなきゃいけない気がしてどうしようもない。だって、僕のせいで、僕が間違った選択をしたせいで、父さんも母さんも死んだんだから。ウルダハになんか行かず、シャーレアンに行かず、ずっとラザハンにいれば僕はこんな不具のある体じゃなく、目の見えない父さんのため一緒に暮らしていたら、無事な体で助けて逃げられたはずだ。その可能性が、ちゃんとあったはずだった。なのに僕は家を離れ、遺跡でくだらない無茶をして、そしてまた家を出て、そのせいで何日も何日も遅くなるまでラザハンに帰ることもできなくて、そのせいで……。
そんな僕にブランスウェルドは、 「俺のものになれよ」 と言った。そうすれば世界を捨てて僕の傍にいると。 気のせいかもしれないがどこか悲しいようにも見える優しい藍色の目で、僕は差し出された腕を取ることにした。 ここでの僕は、泣きたいなら泣いていればいいし、塞ぎ込みたいなら好きなだけ沈んでいればいい。ブランスウェルドは僕を好き放題に抱く代わりに、何もかも受け入れてくれた。意味もなく不機嫌で八つ当たりしようと辛辣な言葉を吐こうと少しも気にせず、他愛もないことで家族のことを思い出し耐えられなくなると、商談を人任せにして一日中抱きしめていてくれた。
鬱屈していたものを吐くだけ吐いたら少しは落ち着いたのか、ここのところ気分はまったく上がらないが沈むこともない。ようやく少しだけ、何か、お茶を一杯入れるだけでも、何かしようと思えることも、たまにはあるようになった。 そして今日はようやく、少しくらいこの部屋を掃除しようかと思えた。
その前に、まずは体を洗わないと、服も着れない。ベッドに腰掛けているうちに、ブランスウェルドが中に出していったものが下ってきて、シーツを汚している。居たたまれないが、まあブランだから、と思う。これがミスティさんだったら、こんなもの見られたくないし知られたくないと、必死に隠しただろう。そもそもその前に、中で出すなんてことは一度もなかった。 ブランスウェルドは、孕むことはなくてもこうして僕を汚して自分の種を飲ませて、他の誰のものでもない俺のものだと実感するんだと言っていた。僕にその感覚はよく分からないが、支配欲とか、征服欲みたいなものらしい。それに一番いいところでなんで離れなきゃならないんだとも。一番いいところなんだから一番奥まで繋がってたいじゃないか、と。 ミスティさんにそういうものはなかったんだろうか。なかったのなら、それほど僕に執着していなかったように思えるし、あったのに我慢していたなら、やっぱり僕たちは仮面越しであり続けたんだなと思う。それにもし……僕がこんなふうに別の男と寝ていると知ったら、怒るんだろうか。不潔だと罵るんだろうか。それとも、別れたんだから仕方ないと黙って認めるんだろうか。なんにせよ、ああそうかとまったく平気なこともない代わりに、衆目も憚らず怒るようなことも、ないように思う。 ブランスウェルドは、彼は、まるきり予想がつかないが、心底どうでもいいと思って気にしないか、絶対に許さないと思うか、なんにせよ、本心を偽ることはない。 今の僕には、そんな彼の傍のほうがずっと居心地がよかった。