ブラトロ 番外編Claude

【潮風の午後:トロイ】

窓から差し込む光が、開いた本のページを白く染めている。 リムサ・ロミンサの午後は、いつもこんなふうに穏やかだ。潮の香りを含んだ風が、石造りの書斎をゆっくりと巡る。遠くから聞こえる波音は規則正しく、まるで世界の呼吸のようだった。 トロイは本から目を上げ、窓の外を見た。海は銀色に輝き、港には無数の帆が揺れている。アラミゴの乾いた空とも、ラザハンの香辛料に満ちた市場の喧騒とも違う。ここには、海と風と、生きることの重みがある。

ページをめくる音が聞こえた。 視線を巡らせると、書斎の奥でブランが本を読んでいる。重厚な椅子に身を沈め、赤銅色の髪が窓からの光に透けている。灰色の肌、大きな手、そして――静かな横顔。 あの男が本を読む姿は、どこか不思議だった。 海賊として名を馳せ、今も絶対的な力を持つ男が、こうして午後の光の中で、黙々と古い写本に目を通している。ページをめくる指先は意外なほど丁寧で、まるで何かを大切に扱うように、紙の端を優しく押さえていた。

トロイは自分の本に目を戻した。 エーテル理論についての古文書だ。ラザハンで学んだ頃なら、こういった書物を読むことに義務感があった。知らなければならない、理解しなければならない、と。 でも今は違う。 読みたいから読む。疲れたら目を閉じてもいい。内容が頭に入らなくても、誰も責めない。 風がまた吹き込んできた。カーテンがわずかに揺れ、潮の匂いが濃くなる。 トロイは深く息を吸った。 この匂いが、今の自分の居場所だった。アラミゴでも、ラザハンでもない。ここ、リムサ・ロミンサ。あの男の傍。

「……眠いなら寝ろ」 不意に、低い声が響いた。 顔を上げると、ブランがこちらを見ていた。本から目を離し、いつの間にか視線を向けていたらしい。 「まだ、大丈夫」 トロイは小さく笑った。 ブランは何も言わず、また本に目を落とした。それだけだった。それだけで、十分だった。

トロイは再び自分のページへと戻る。 文字を追う。意味を理解する。風の音、波の音、ページをめくる音。 何も特別なことは起こらない午後。 でも、それでいい。 今は、それだけで満たされていた。


【潮風の午後:ブラン】

本を閉じた音が、静かに響いた。 ブランは顔を上げず、ただ耳を澄ませた。向こうの長椅子から聞こえる、わずかな衣擦れの音。トロイが姿勢を変えたのだろう。

あいつは時々、本を読んでいるようで読んでいない。 目は文字を追っているが、心はどこか遠くにある。過去か、失ったものか、あるいはまだ見ぬ未来か。 ブランにはわからない。 聞こうとも思わない。 ただ、そこにいればいい。

海賊をやっていた頃は、すべてを力ずくで解決してきた。従わないものは叩き潰し、奪いたいものは奪い、邪魔なものは消した。それが海の掟だった。 だが、あの男に対しては、そのやり方は通じない。 いや――通じないわけじゃない。実際、連れてきたのは半ば強引だった。 でも、そのあとは違う。 無理に引き留めることも、無理に笑わせることも、無理に癒すこともできない。 ただ、待つしかない。 潮が満ちるように、風が凪ぐように、時間が流れるのを見守るしかない。

ブランは指先で本のページを撫でた。イルサバードの古い写本だ。誰も読めないと言われた文字だが、眺めていれば法則が見えてくる。言葉は違えど、人の思考の流れは似たようなものだ。 カモメの鳴き声が遠くから聞こえた。 窓の外では、港が動いている。荷が運ばれ、船が出入りし、金が動き、人が生きている。 自分が築いた帝国。

だが、それもいつか手放すつもりだった。 船一隻と、信頼できる仲間と、それから―― 視線を上げる。 トロイが、こちらを見ていた。 目が合う。 一瞬だけ、お互いに動きを止めた。 それから、トロイが小さく笑った。疲れたような、でもどこか安心したような笑みだった。

ブランは何も言わず、本に目を戻した。 言葉はいらない。 こいつが笑えるなら、それでいい。 風がまた吹き込んできた。 ページが一枚、勝手にめくれる。 午後の光が少しずつ傾いていく。 でも時間はまだある。 今日も、明日も、しばらくは。 ブランは静かに息を吐いた。 そして、次のページへと指を滑らせた。