ブラトロ RED DILE

 その宵、【RED TIDE】は賑わっていた。  旧リムサ・ロミンサ領の、小さな漁村。その中心近くにある酒場である。  普段から村人の溜まり場となっている店だが、その日は村のほとんどの男たちが集っていた。  飯を食い、酒を飲む。そして騒ぐ。  魚と汗と酒の匂いがむっと漂うその合間を、小柄なミコッテの娘がくるくると動き回る。看板娘のリコは、少しすきっ歯が玉に瑕だがそれを気にせずよく笑う。悪戯に彼女の臀部を無でようとする男もいるが本気ではなく、リコもまた殴る素振りだけして笑った。  カウンターの中にいるのはリコの父親、この店のマスターだ。脇の厨房と店内を行き来するのは、がっしりというよりどっしりという言葉が似合う太めのゼーヴォルフ。名前は分からない。彼は生まれつき唖で、文盲で、流れ者だった。ただ、彼が歩くとがつんがつんと音がする。おそらくはサメにでも食われたか、厄介事に巻き込まれたか。ともかくなくした右足を、木製の義足にしているからだ。

 店の中にメニューなどという気取ったものはない。あれば出す、作れれば作る、なければない。客が持ち込んたものを料理し、余った分を店で出す代わりに代金をとらないこともある。  マスターのザハは、気が向けば8弦のギターをかき鳴らす。彼は若い頃、本当は音楽家になりたかったらしい。だがこんな小さな漁村に生まれてろくな教育も受けられなくては、そんな夢には手が届かない。それでも彼は意地と努力でギター一つ。かなり聞けるものにまでした。  壁にかかっているのは、すっかり日に焼けてぼんやりとしてしまった、男の肖像画だ。太い顎の骨格からルガディン族だとは分かる。だが色褪せたせいでゼーヴォルフなのかローエンガルデなのかはよく分からない。これはザハの父、リコにとっては祖父が描いたものだという。誰かがよろけて壁にぶつかれば、雑にとめられた絵が揺れる。その下の壁は色が薄く、この絵がここで過ごした年月をうかがわせた。

 宵が深まる。夜が来る。村人たちの飲むペースは上がり声は大きくなり、リコはますます忙しくテーブルの間、腰掛けにした樽の合間を動き回った。  その赤茶色の耳が、ぴくりと後ろへ傾く。振り返ると丁度、ギィというよりギリリと音を立てて店のドアが開くところだった。  一瞬、酒場そのものが静まり返る寸前にまで落ちた。視線がすべて、入口に向いた。そしてそこにいるのが大柄な……ルガディン族が出入りすることが当たり前のこの村で、その鴨居に頭が届くほどの巨漢であるのを見ると、「なんだ」とでも言うように元へと戻った。そして、静けさがもたらす気まずさを、少し無理して追いやって、またがやがやとざわめき出した。

「もしかして、一見の客はお断りか?」  巨漢の男、いや、老人は、年寄らしく少ししわがれた、しかしよく通る声でそう言った。そこには咎める調子や不機嫌はなく、ごく他愛なく事実を尋ねるような響きがあった。  答えようと、数人が息を吸い、口を開く。だが誰もが一様に、何故か一様に、どう言おうか迷う様子になった。 「身内の祭り中だってんなら、無理は言わねえ。邪魔したな」  老人は軽く笑い、下がろうとした。そこへ、 「ごめんよ、じいちゃん。今日はさ、仕舞いが早いんだ。だから一杯くらいしか出せないけど、それでも良かったら飲んでってくれよ」  ひょっこり顔を出したリコが声をかけた。ザハも客たちもそれに否とは言わず、そうだなと答える代わり通り道を開けた。

 老人は膝が悪いようだった。年とともに足を悪くするのは、ルガディン族の男の宿命だ。巨体を支え続けた代償である。それがこれほどの巨躯となれば尚更だろう。そのためか彼は、50前後だと思われる壮年の男を付き添いに連れていた。傍を通ると、苦いような渋いような、独特の草の匂いがするハイランダーだ。落ち着いた様子、穏やかな顔つき。高い教養を思わせる都会的な身のこなしで、医者だろうなと誰もが思った。  老人は杖だけでなく彼に右半身を支えられつつ、壁際に作られたスペース、用意された樽に辿り着き、 「よ……ッ」  と腰を下ろした。ただ立つ、ただ座るだけでも大変なのだ。そんな苦労はルガディンの男であれば誰もがいずれ我が身のこととするし、身近に接している者たちも常に触れるようになる。付近の者たちはなんとなく、この一見客の老人を気に掛ける様子になった。

「で、なんにする? あるもんならなんでも出すよ」  ついてきたリコが言う。老人は、 「なら、一番強え酒だ。ストレートでくれ。つまみは適当でいい。早くて、軽いモンだな。こいつは酒は飲まねえんでな。水でもミルクでも、なんか適当に頼む」 「そんならさ、今朝拾った椰子のジュースは? めっちゃ甘くて美味しかったよ」 「では、それをお願いします」  何かを丁寧に頼まれたことなどないのだろう。リコは面食らったように大きな目を瞬かせ、 「お、おう。任せろよ。つまみ、ナッツでいいよな? すぐ持ってくっから!」  ぱたぱたとカウンターの裏側、横手、厨房へと駆けていった。

 老人は壁際の席で、ゆっくりと店内を見回す。そして、自分のすぐ脇にかかっている肖像画に気付いた。  だいぶ目も悪いのだろう。少し眇めて見やる。 「そいつぁ、じっさん……マスターのおやっさんが描いたヤツだぜ」  椅子にかけた足をぷらぷらさせながら、ララフェルの男が言う。 「こいつは……」 「もう分かんねえよなぁ、それじゃ」  彼は笑って、日に焼け、臭気や熱気に燻された絵を見上げる。そして言った。 「“赤鰐"だよ」  と。

「赤鰐……」  老人が呟く。 「あんた、よその人か? そんじゃあ知らねえか」 「いや。俺は、リムサの生まれだ。こいつのことなら、よく知ってる」 「そうか。……ん? あっ、そうか。あんた、70かそこらだよな? だったら赤鰐がいたとき、あんたもいたわけだ」 「ああ。ここにいる連中の大半は、こいつが"赤鰐"だとか呼ばれてた時代にゃ、生まれてもいねえな」 「まあな。俺は42だけど、見たこともねえ。けど、マスターとじっさんは、会ったこともあるんだぜ?」 「へえ。“赤鰐"にか」 「だからこいつはよ、それ思い出して描いたモンだってよ。じっさんは自慢してたが、似てんのかどうかは知らねえなあ」 「ふうぅん」

 よく見れば、肖像画の男の髪は赤い。  よく見れば、肌の色は元は灰青色だったものが劣化したようだ。  よく見れば、似ているのかもしれない。

 そして赤鰐というキーワードは、この酒場にとっては忌まわしいもの……ではなく、歓迎されるものだった。 「なあザハよ。おめえも会ったんだよな、赤鰐によ」  50がらみのミッドランダーがカウンターへと声を張り上げる。カウンターの中のマスターは、 「ああ。何度も言っただろが」  と答えた。  彼はそのまま、カウンター内での仕事を名無しの雇い人に任せ、壁際に来る。ニヤニヤと笑う連中がなんとなく集まって、輪ができた。 「ザハさんさぁ、じいさんにも聞かせてやんなよ、赤鰐の話」  数人混じっている女、ゼーヴォルフの、光の加減で青くも見える黒髪の女が言う。  ザハはわざとらしく咳払いを一つした。この話は何度も何度も語られ、村人たちにとっては聞き飽きた「またあれか」なのだろう。だが皆、それをからかいつつも楽しんでいた。

 ザハは語る。淀みなく迷いがないのは、何度も語ってきたからだ。  それは今から40年、いや、50年近くも昔。彼がまだ5つかそこらのときだ。彼は父親とともに船に乗っていた。理由は、幼かったせいで覚えていない。金があるわけではないから、旅行などではないと思う、というだけだ。  ともあれその船が、帝国の軍船に拿捕された。そして、抵抗を試みた船員たちが殺された。  幼いザハの目の前で、木の板が赤く染まる。どろりとした血の色、大人たちが息を飲む音。父親がザハを痛いほど強く抱え込む。  なにが、どうだったのかはよく分からない。だが、抵抗しない客までが何人か殺された。

「俺ァもう怖くて怖くてよ、必死に親父にしがみついてた」  何度も聞いた話のはずなのに、いつしか喧騒は凪いで、誰もがザハの昔話にじっと耳を傾けていた。  そしてとうとう、黒い軍服の奴らの目が、ザハたちのところに来た。 「親父は必死に、持ってないとか、違うとか言ってた。でよ、『そうか』って言われたら、見逃してもらえるんだって思うだろ? けどそいつはこう剣を振り上げて、親父を切りつけたんだ。親父はそんとき、俺に当たらねえよう必死に庇ってくれた。おかげで、知ってのとおりだ。親父の背中にゃ、でっけえ傷跡があった」  ザハは泣き出した。五歳の子供なのだ。無理もない。だがそれをうるさいと言って、父親の腕の隙間から突き刺そうとした。父親はそれからもまた、必死に息子を守った。ザハも理解した。泣いてはいけない、と。だがもう、そんなことでは許してもらえそうにないことも、幼心にひしひしと感じていた。

「そのときだ」  ザハの短い言葉に、場がぐっと寄り集まる。 「ドカンと船が揺れた。みんな派手に揺すられて、何事かと思った。なんだって思ってるうちに、ーーーあっという間だ。乗り込んできた連中が、すげえ勢いで帝国の奴等をぶっ殺していった。そんで最後によ、見たんだ。俺も親父も。赤鰐を」  彼がザハの乗った船を助けた理由は分からない。大人になったザハからすると、 「助けたってつもりはねえんだろうなと思う」  帝国船を襲おうとした。たまたまそれが別の船を襲っていた。ただそれだけだったのかもしれない。だが、一つだけ彼が、決定的に他の海賊たちと違うところがあった。あったと、父親が言っていた。

 普通そういうときは、ザハたちも奪われる。あるいは、歯牙にも掛けられず放置される。船員を殺された船が動けなかろうが、海賊たちにはどうでもいいことだ。  だが、赤鰐が引き上げた後で、ザハたちの船も動いた。 「赤鰐の手下たちだ。そいつらが船を、ちゃんと港につけてくれた。それどころかよ、親父の手当までしてくれた。そんで、どっか行っちまった」  何も奪わず、何か一言 言うこともなく。  わけが分からなかった、と父親は言った。だが事実は事実だった。赤鰐は、不運な客たちを見捨てず、助けてくれたのだ。

 それ以来ザハの父は、赤鰐を救い主として拝んだ。毎日感謝した。彼にとっては、自分の命もだが、息子の命を救ってくれたことが何にも代えがたい恩義だったのだ。  そして肖像を描いた。束の間見ただけのあの日の記憶をもとに、無事に家に帰ってから数日は部屋から出てもこず描き上げた。  それがこの肖像画だった。  そしてザハもまた、赤鰐に憧れた。  荒い息をする父親。崩れそうなその体の影から見上げたときそこにいた、空にかすむほどの高さにある赤い髪。それが陽光を受けて燃えるように輝いていた。まっすぐ前を見る目。雑魚などどうでもいいと言わんばかりに、ザハを見ることもなかった。口元には小さく、残忍な笑みが浮かんでいた。  だがそれでもその男は、 「俺と親父の、恩人なんだ。そんなつもりなんかこれっぽっちもなくてもよ」  ザハが熱く語り終えると、どこからともなくいくつかの溜め息が漏れた。

 なんとなく残った静けさの、崩し難い落ち着きのなさを破ったのは老人だった。  彼は年の割によく響く声で、 「もしかして【RED TIDE】ってのも、赤鰐がらみか?」  ザハにそう問う。ザハは頷いて答えた。ザハが酒場を作ろうと決めたとき、RED DILEとつけるほど身の程知らずではなかった。だがなにかあやかりたいと思って選んだのだ。  “Red Tide"という歌がある。それは「赤い潮に飲まれて眠れ」と歌う、レクイエムとも脅迫ともとれるような内容で、これもまた赤鰐にちなんでいるという。だが普通に赤潮のことを示しもする。 「ま、勝手に使うにゃ、それくらいが丁度いいと思ったわけさ」 「なるほどな」  老人が何度か頷く。

 なんとなくしんみりと静かになった空気が苦手だったのだろう、突然リコが、 「ねえパパ!」  と父親の肩に体を乗せた。 「このじっちゃんにさ、あれ聞かせててやろうよ! “The one”!!」  大きな甲高い声で言う。途端に、 「おう! いいな、歌うか!」 「いいねえ、リコち、ナイス!」  あちこちから声が上がる。ザハは、構わないかという視線を老人に向けた。老人は大きな口でニッと笑った。

 ザハがカウンターの中に常備している愛用のギターを持ち出してくる。  客たちが、誰からともなく拳やジョッキでテーブルを叩き出す。それがドンッドンッとベースとドラムになり、そこにザハの弾く弦が乗った。

 Cops set traps, we don’t care.  Merchants double guards ? still no scare.  Mercs lie waiting with guns in hand,  Rival crews howl across the sand. ー So what?

 Hit us? We hit you back.  Steal from us? We steal it back.  Shoot at us? We shoot right back.  Kill one of us? He’ll kill you back!

 *Red Dile!! Red Dile!!  *strongest man of men!  *Red Dile!! Red Dile!!  HEY! HEY! HEY!

 こういうときの歌い手と決まっているらしい、緑の肌をしたゼーヴォルフの男と、他の客たちとの大合唱だった。 「Hit us?」  彼が歌えば、 「We hit you back!!」  皆で答える。  そして、「レッドダイル!!」と叫ぶたびに、テーブルが打ち鳴らされ皆が「レッドダイル!!」と声を揃える。  酒場が揺れそうなほどの迫力だった。そして皆楽しそうで、そしてどこか鬼気迫るものがあった。腹の底から声を出し、叫び、吠える。  最初は面食らったように目を見開いた老人と医者だったが、今では面白そうに耳を傾けていた。

 Traps in the dark, lies in the wind.  Laughing cowards sneer and grin.  “Know your place!” some fool may bark  We hear it all, then cut the dark. ー So what?

 そしてーーー。 「Trick him?」  歌が二番の半ばにさしかかったところで、突然、老人が口を開いた。 「Not a chance!」  酒場が床からまるごと浮き上がった。  誰もがそう感じた。  老人の声はまるで大波だった。  たった一声で、人間どものすべての声を飲み込み消し飛ばした。

 歌い手もその威力に呆然とした。そして、本来の「騙し返す」よりも、このほうがはるかに赤鰐らしいと思った。  止まった合唱とギター、歌声に、老人が悪戯げに指で「歌え」と挑発する。  村人たちは、やってやろうじゃねえかと形相を変えた。皆で 「Mock him!?」  歌い問えば、「倍返しだ」でなく、 「No one stands.」  老人は怒鳴るわけではない。むしろおどけたように答えて歌う。チッチッチッ、と指を横に振る。 「Outsmart himッッ!?!?」  これに老人は 「Try your hand?」  やってみろよと返した。そしてそのまま、 「You face Red Dile ー understand?」  赤鰐様だぜ、とリードボーカルを奪った。

 酒場が踊るほどの大合唱が終わると、それを上回る歓声が上がった。 「なあなあなあ!? あんた、歌手かなんかやってたのか!? すっげえ!! すっげえよ!!」  興奮したララフェルがぱしぱしと老人の分厚く太い腿を叩く。  老人は愉快そうに答える。 「やってねえよ。まあ、ちっとばかり得意じゃあるがな」 「それでちっとかよっ。俺の立場、まるっきしねえぞ……!?」  息を切らした歌い手に、老人は可笑しそうに笑い、 「なあじいさん、あんたの歌ったやつ、その……」 「好きにしな。ただの思いつきに、権利だなんだ野暮は言わねえよ」  ザハが言いよどむのへ軽く頷いた。

「ねえねえ、じっちゃん! 他にも歌える!?」  リコの目はキラキラと輝いている。 「“Red Tide"とかさ、あと"Blue, blue moon"とか!」 「馬鹿、リコ。“Blue moon"は女の歌だろ」 「そんなもんいいじゃん。あるじゃんそういうの!!」 「俺が知ってる歌挙げてくれるのはいいが、おまえ、ガキのわりに好みが渋すぎねえか。どっちも懐メロだ」  老人に言われ、リコは大げさに頬を膨らませた。

「まあ歌ってほしけりゃ歌ってやるが、それにしたって、赤鰐が歌になるとはな。海賊の歌ってんなら、主役は伝説の"霧髭"じゃねえのか?」  リコはすっかり老人が気に入ったようで、祖父に甘えるようなつもりなのだろうか。距離が近い。そして、蓮っ葉に顔を歪め、 「はんっ」  と吐き出した。 「なんであんな奴。真っ先に"マトモ"んなっちまったヘタレだろ!?」  と吐き捨てた。伝説の霧髭がメルウィブ提督の右腕になったことは、今ではもう公然の事実のようだ。  ザハはそれを苦笑して見やる。たぶん彼としては大人の分別で、それは国にとって必要なことだったんだと弁護したいのだろう。だが娘が聞かないのは分かっている。そういう顔だ。それで、 「まあ、作ったのが俺だからな。会ったこともねえ奴のことなんかより、赤鰐の歌んなるのは当然だ」  と最も筋の通る答えを寄越した。

「ねえ、じっちゃん。どっちからでもいいからさ」  とリコは再び甘えるモードになる。  と、そのときだった。  再びギリリと軋んでドアが開き、再び店中の視線が入口に向いた。  だが次の"再び"はなかった。  途端に店内は冷たく固く強張り、そして肌に感じるほどささくれ立った。  彼等の視線の先にいるのは、金髪を丁寧に整えたミッドランダーの紳士だった。

 人が動く。壁になる。客たちが老人たちを背後に押し隠す。 (リコ)  ザハの口が娘の名の形に動くと、娘は頷いて老人の手と、医者の手をとった。 「じっちゃん、おっちゃん、こっち」  彼女は囁いて、二人をカウンターの脇へと促す。それに従って行くと、壁の一部がすっと、これは油がさされているのか音もなく開いて黒い口を開けた。そこから漂い出したのはシチューのような煮物のような匂いで、厨房に直結しているらしいと知れる。  老人が巨体をかがめてくぐり抜けた先は思ったとおり厨房で、片足のゼーヴォルフが身を縮めていた。

 リコが静かに隠し戸を閉める。 「……どういうことだ」  老人が問うのに、リコは、 「いいから。じっちゃんたちは、裏から出て。案内すっから」  ささやき声で答える。その顔は、目は、怒りに引きつっていた。きつく唇の内を噛み、全身で警戒している。それで周囲をうかがってそっと外へと忍び出る。 「ボンも。ほら、来なよ」  片足の男にそう言って、リコが老人と医者、雇い人を招き出す。  そうして、すっかりと更けた月のない夜を、足早に移動しはじめた。

 彼女は何も語らなかった。だが向かっているのは、村の中心を避けた裏道のようだと知れた。  そして説明されずとも、老人には察せた。  酒場は最初から、なにかを待っていた。それは歓迎のできないもので、一見の客を巻き込まないために、彼等は出て行けと言うことも考えたのだ。だが一杯だけなら、それくらいの時間だけならいいかと引き止めた。だがついつい興に乗り、時を忘れてしまった。  なんらかの不穏。なんらかの、危険。

 ーーー危険。  突然、闇の中で重く大きな影が動いた。 「ギャッ!?」  とリコの少し歪んだ悲鳴が上がる。  そして老人の顔の前には、短く切り詰められた銃口が突きつけられていた。  それを握る"ボン"の顔つきは変わっていた。  目は鋭く、冷たく、ギラついている。彼はリコを片腕に抱きかかえ、その首に手をかけていた。それは、おかしな真似をするなと言うより確かに、彼の意思を示していた。 「な、なんだよ、ボン……、なにして」  リコが少し潰された声で問う。と、 「るせえ、ブス」  ボンが喋った。リコの目が大きく見開かれる。

「ったくよ……。はした金でこき使いやがって」 「ボン……?」 「黙れブス」  手に力を加えられて、リコの喉から声とも音ともつかないものが漏れた。  老人はおとなしく両手を顔の横へ上げる。医者もまたそれに倣った。

 ボンは老人のポケットを上から叩くと、ずっしりとした財布を取り出しほくそ笑む。  リコはようやく事態が飲み込めたようで、ぼろぼろと泣き出していた。だがその顔は怒りに歪み、喉を押さえられながらもきっと巨漢を睨みつけている。 「この、ヤロ……、あたいら、騙して……っ。てめ……あいつの、手下かよっ」 「だったらなんだ。ったくよ。くだらねえ。てめえがもう少しイカしてりゃな。ちったぁ楽しめたんだが……。ま、いいやな。こんなブスでも穴は穴だ」  ボン、と呼ばれていた男の目が粘りを帯びる。だがその目はまず、ゆっくりと老人と医者に向き、引き金にかけた指が動いた。


 ザハは、娘が無事に逃げてくれたならと願っていた。  客を引き止めるんじゃなかったとも後悔した。だからこそ、娘が二人をしっかりと逃がしてくれることも願っていた。  そして、殴られて切れた口の中の、血を味わいながら嫌味なミッドランダーの顔を見上げていた。  彼の頭は今、その男の手下に踏みつけられ土のうえに押し付けられている。ローエンガルデの足はただ乗せられているだけでも重く、その男が思いきり踏みつけてくれば、自分の頭くらいは割れるんだろうなと思った。  だが、譲るつもりはなかった。  たとえ命がかかったとしても。

「絶対ぇ、売らねえ」  彼の答えはこの一つだけだった。  この一帯の土地も、この店も、そこに住む村人も。  時代に取り残された、時代遅れのゴミなのかもしれない。  だがそれでもここで生まれ、ここで生きてきた。  せめてもしこれが、もっとまともな話だったらと思う。それなら、売ることも考えた。時代の流れなんだと。  だが、契約は一方的。移転の費用は実質ほぼゼロ。そしてこの土地の使い道は、密輸港だ。目立たない、地味な、どうでもいい土地。誰も気にしない。気に留めない。当たり前にある漁村を一つ、まるごと密輸組織の拠点に変える。そうと知ってしまった以上は、ザハには、そして村人の誰も、折れるつもりはなかった。

 損得ではない。  魂なのだと思う。  生き様だ。  信念。

 ザハは誰よりもまず父からそれを知った。平凡な漁師だった。下手の横好きと茶化される絵描きだった。普通の男だった。それが命がけで息子を守ろうとした。どんなに痛くても、怖くても。  そしてザハは、赤鰐に憧れた。  娘やほとんどの村人たちと違って、音楽を学びたいと言ってウルダハやラザハンへも渡ったザハはちゃんと知っている。赤鰐は、実のところ誰よりも先に海賊をやめている、と。日和ったと言うならば、霧髭よりも先なのだ。  だが同時に知っている。赤鰐は日和ったのではなく、ただ潜ったのだということも。彼は表舞台で暴れるのをやめ、深く深く潜った。海の底に沈むように、社会の底に。そしてやがて、その背だけをゆっくりともたげてきた。リムサ・ロミンサの真っ只中で。そして気がつけば街は、国はその背の上で、振り落とされないために逆らえなくなっていた。  赤鰐は選んだのだ。彼にとっては、海賊でいることなど、どうでもよかった。誰にも支配されないために。自由でいるために。それはつまりーーー彼こそが真の海賊だということだった。

 そんな評価をウルダハの商人から聞いたとき、ザハは震えた。  ますます憧れた。  あの赤い髪の大男。鮫を食らう鰐。それどころか、国さえ食らった大鰐に。  ささやかでもいい、自分もそう生きたいと思った。  同じことがしたいわけではなかった。  ただ、同じような生き方をしたかった。  ほしいものへと一途に向かう。  戦う。  負けない。  愚痴らない。  誰がなんと言おうと知ったことじゃない。  赤鰐様だ。てめえの信念に従って、思うまま、勝手にやるんだよ。  そうして、“The one"が生まれた。

 今は娘を守りたい。  店を守りたい。  この土地を守りたい。  犬死にするとしても、媚びておっぽを振る駄犬には絶対なりたくない。  そんな気持ちは皆同じだった。  だから皆、今夜酒場に集まったのだ。

 無駄だった。  クイルマンの手下は強く、武器は最新式で、ベスパティとクロロは撃たれて、コルネとリヒャルトは斬られて死んだ。  ザハもさんざん殴られて、右の耳が聞こえない。  そのうえ足に力を加えられると、目が眩んだ。  頭骨が軋む音が聞こえたような気さえする。  左耳の奥でジーンと鈍い音が鳴っている。

(クソが……)  たとえ無駄でも、と思う。  奪われるしかないのだとしても、それに最後まで抗ったかどうか、それだけは自分で選べる。  ザハはそれを選んだ。  それが意地だった。

「もう一度だけ。本当に一度だけ聞きますよ。ーーー"売ってください”?」 「っ……ざけんな……っ」 「はあ……。そうですか。私がここまで丁寧にお願いしているというのに。私がこれだけ、頭を下げているというのに。でしたら、下げた頭の損は取り戻させていただかなければなりませんね」  クイルマンがパチンと指を鳴らす音がして、メシリと頭が軋んだ。

 真っ暗になった。  なにも見えず聞こえなかった。  死んだのかなと思った。  だが気付いた。  生きている。  下の頬に湿った土の感触。  上の頬に夜風。  そして、何重ものフィルターを通したようにぼんやりしているが、ひっとかぎゃっとか聞こえるいくつかの声。

 目を開けた。  そこに、巨大な影を見た。

 頭の程近くで燃える松明。  それが、空にかすむほど高い場所にある彼の髪を赤く染めていた。  まるであの日の、あのときのように。  太い顎。  まっすぐに前を見るその口元が、小さく、そして残忍に笑っていた。


 助け起こされたザハは、手当を終えてやっと、なにがあったのかを知った。  突然飛び込んできた影が、テンデル・クライとかいうあの手下を軽々と蹴り飛ばした。太った肉だるまのようなローエンガルデを、いとも簡単に。  その影は、動くたびに消え、止まるたびに見えるようだったとキスクは言った。 「あ、あの医者だよ、医者」  それがまるで現れては消える影のように、いとも簡単にすべての手下を沈めた。どうやったのかも分からない。ただ全員が、地面に崩れ落ちていった。銃も、ナイフも、魔法も、何一つ意味はなかった。  そしてあの老人が現れた。  彼はクイルマンに言った。 「悪ィな。気に入ったんだ。ここは俺のモンにする。てめえは失せろ」  と。  そして、 「俺とやり合うってんなら覚悟しろ。てめえの手下が何百いようがーーー

        You face Red Dile ー understand?          」

 そして、警告に従わなかったクイルマンの頭を、片手で握りつぶし、立ち去ったという。

「な、なあ。ま、まさかあれ……まさか……っ!?」 「まさかじゃ……ねえ……」  年老いて皺が寄り、髪も真白く変わっても、 「Red Dile……赤鰐だったんだ、本物の……!」


 旧リムサ・ロミンサ領に、小さな漁村と、古い酒場がある。  村人の溜まり場となっている店で、毎日のように村のほとんどの者たちが集っていた。  飯を食い、酒を飲む。そして騒ぐ。  魚と汗と酒の匂いがむっと漂うその合間を、小柄なミコッテの女がくるくると動き回る。  カウンターの中にいるのはこの店のマスターだ。  店にメニューなどという気取ったものはない。あれば出す、作れれば作る、なければない。  マスターは、気が向けば8弦のギターをかき鳴らす。  壁にかかっているのは、すっかり日に焼けてぼんやりとしてしまった、男の肖像画だ。太い顎の骨格からルガディン族だとは分かる。だが色褪せたせいでゼーヴォルフなのかローエンガルデなのかはよく分からない。これはマスターの父親が描いたものだという。  誰かがよろけて壁にぶつかれば、他の誰かが慌ててその絵に飛びつき、落ちないように押さえる常だ。そして丁寧に壁にかけなおす。そして、眩しいものでも見るようにその絵を見つめるのもまた、常だった。

 飯も酒も大して美味いわけじゃない。村人以外にはめったに客が来ることもない。ごくたまに訪れる一見の客は何も知らないか、あるいは、知っていればこの名前はヤバいだろうと言う。  だがそんなとき給仕の女は言うのだ。 「ふん。この店は【RED DILE】。ちゃんと本人のお墨付きさ」  と。  嘘をつけと笑われても彼女は気にせず、またくるくると働く。だが一度として言ったことはない。冗談だよ、とは……ーーー。

“Red Dile, The one”

Cops set traps, we don’t care. Merchants double guards ? still no scare. Mercs lie waiting with guns in hand, Rival crews howl across the sand. ー So what?

Hit us? We hit you back. Steal from us? We steal it back. Shoot at us? We shoot right back. Kill one of us? He’ll kill you back!

Red Dile!! Red Dile!! strongest man of men! Red Dile!! Red Dile!! HEY! HEY! HEY!

Traps in the dark, lies in the wind. Laughing cowards sneer and grin. “Know your place!” some fool may bark We hear it all, then cut the dark. ー So what?

Trick him? Not a chance. Mock him? No one stands. Outsmart him? Try your hand? You face Red Dile - understand?

Red Dile!! Red Dile!! strongest man of men! Red Dile!! Red Dile!! HEY! HEY! HEY!

(おしまい)