第二話
【一 この世界と来訪者、そしてヴェクタス・アヴローン】
ヴェクタスとリデアンがこの世界に転生―――おそらく―――してきて、一ヶ月が過ぎた。 その間に知ったこと、分かったことは様々ある。 まず、この街の名前、この地方の名前、この国、大陸、世界の名前や、存在する種族やその呼称といった、ごく単純なただ覚えればいいだけのもの。それから、今いるブーシェの街のおおまかな法律や常識、道徳観のような、事物や背景が絡み合った社会通念。それから、 「おそらくこの世界には、私たち以外にも"来訪者"がいる、あるいはいたはずだよ」 ヴェクタスはそう推察した。 根拠は、中途半端に入り混じった近代化と、それにまつわる人々の話だ。
二人が最初に辿り着き、そして滞在しているブーシェの街では、手洗いが推奨されている。食堂や酒場の入り口に専用の水桶が用意されているのがそれだ。物好きな家庭にも置いてあるという。 しかし手についた菌を落とすためという意識はなく、形ばかりの儀礼になっている。設置している家は変わり者扱いだし、飲食店でも置いてない店もある。使わない者も多く、使う者も水を少し手に振りかけるだけ。しかも桶に汲みおかれたまま数日放置され、繰り返し使われる水は逆に不衛生である。 何故こんなことをと尋ねても、誰一人まともな答えを返さなかった。知らない、あるいは、病除けのまじない。そのどちらかだ。まじないだと思っている者も、効果があると確信はしていない。中には、あれをやったほうが疫神に魅入られるから自分は絶対にやらないと言う者もいた。
それとは別に、料理人にとっては、念入りに手を清めてから仕事に取り掛かるのは"竈守り"という神の加護を得るために重要だとされていた。 厨房や台所、鍛冶場を司る女神・竈守りは、自らの支配域が清らかであることを好む。だから、土や埃、ましてや汚物のついた手で触れられることを嫌う。ゆえに、道具や場所は大切に扱い、磨き、清掃し整えておくのである。そうすれば女神は機嫌を良くして加護を与えてくれる。 加護を得た店や職人は災いから守られ、彼女の気分を害する者は苦難に見舞われるという。
手洗いのほうは今からおよそ30年前に訪れた"預言者"がブーシェに広めたもので、竈守りの加護を得る方法は150年ほど前に王都の大神殿にもたらされた神託から始まったものらしい。 「竈守りのほうは本当に神託だったのかもしれないが、誰かがそういう建前で上手くやったとも考えられる。その結果、それまでは当たり前のように発生していた集団での"呪い"や"疫病"が減った。それで、本当に神の加護が得られるとなって国全体に広まった。私たちがこの世界で、そこそこ安全なものを食べられるのは竈守りか、あるいはその名を借りた誰かさんのおかげだね」 だが手洗いのほうは、頭のおかしい預言者もどきの世迷い言扱いである。ヴェクタスの見立てでは、外から来た誰かが"近代の流儀"として無理やり教えたものだ。しかし社会に馴染むことはないまま、形式だけが今も残されている。
「分からないでもないよ。この世界の常識よりもはるかに洗練された知識や教養を持っていれば、未発達な世界を導いてやりたくもなるだろう。ましてや、そういう誰かさんも私たちみたいに"優遇"されていたとしたら尚更だ」 いわゆるチート能力である。それによってこの世界の人々よりも優れた力を持ち、思ったように振る舞い、生きることができる。その万能感から、救世主や賢者を気取りたくなる。 だが、もともとの世界で十分な専門知識があり、社会改革やインフラ整備をしてきたならばともかく、上っ面の知識で社会を変えることなどできない。
「利用者として知っているだけではもちろんだが、仕組みを理解していたところで、施行や管理運営に関わったことがなければ実行者としては続かない」 資金調達はどうするのか、どうやって認知させるのか、どれだけの人員をどういう基準で選ぶのか、賞罰はどうするのか、いつ、どこで、何から始めるのか。利害が絡めば必ず反対する者、阻害する者が現れ、彼等との駆け引きや交渉も必要になる。毀誉褒貶の中で時には大きなトラブルに見舞われながら、それを乗り越えてつつがなく運営するのは至難の業だ。 「私でさえ、なんの基盤も前提の常識もない、つまりここでやれと言われたら頭を抱える。ただ暮らすだけならともかく動かすとなったら、把握すべき情報は膨大だぞ。ネットもないのにそれを集めるだけでも相当な苦労だし、理解するとなったら何年かかるか」 頭を抱えたとしても実行はできるのだろう。そもそも、やろうとするときに、真っ先にすべきこととしてこの世界についての理解を選ぶ時点で、分かっているつもりの者とは異なるのではないかとリデアンも思う。
そんなヴェクタスには、竈守りが別の世界から来た誰かの方便であったなら、その人物がいかにしてそれを成したか、その刻苦がありありと想像できるという。 彼あるいは彼女は、実務経験のある者だっただろう。そしてまずこの世界を知り、どうすれば人々を動かせるかを考えたはずだ。竈守りという神に紐付けるのがいいと見極めても、ただ声高に呼びかけたわけではあるまい。 「大神殿での神託だというから、そこの神官にでもなったのかな。だとしても、お告げがあったと言ったとして、信じてもらえるだけの実績は必要だ」 粛々と務めて信頼を得、試してほしいと言えば実行してもらえるだけの権威を手に入れ、何年もかけて結果を出したに違いないのである。 「十人百人単位で"病"や"呪い"にかかることが減ったなら、一人二人の例外は無視できる。何かあったとしても、竈守りは加護をくれている、火の神を怒らせたのが原因だとか言えばいいし、おろそかにしなかったかと問われれば、断固否定できる者はいないだろう」 そういうロジックには、この世界の政治家であっても気付いているはずだ。だが彼等は、己の、もとい、国と民の利益になるならばそれでいい。 「ただ、竈守りのせいで人口が減りにくくなったとすると、別の問題が生まれつつあるのかもしれないが、だとしてもだ。私たちのように一人や二人で突然投げ出されたところからやったなら、すさまじい偉業だよ。その誰かが200年ほどの寿命を持って今も生きているなら、ぜひ会いたいね」 銀河の一隅の支配者であったヴェクタス・アヴローンをしてそう言わしめる、リデアンにも、それはたしかに途轍もない偉業のようだと思えた。
なお、一方でブーシェの街の預言者は、手が汚れているのが駄目だ、それが原因で病気になると"預言"して回っただけのようだ。手を洗わなくても何事もない者もいれば、洗ったのに病に罹った者もいて、なんの証明にもならなかった。それどころか、不衛生な水で洗ったせいで集団で腹を下しもしただろう。 やがて、人々が軽んじることに腹を立て、預言者は街を去ったという。どうやらその際、不穏な捨て台詞を吐いたようで、 「偽物だとは思うが、万が一にも本物で、呪いをかけられちゃたまらねえからな。俺が生きてる間だけでも続けろと、うちにゃ水桶置いてるよ」 そう言う老人がいた。今もまだ残っているのは、その程度の理由からに過ぎない。
ともあれ、この世界には時折、異なる世界の者が現れる。少なくともヴェクタスにはそう見受けられる。 そして彼等は、その特異な力によってか、あるいは奇矯な言動によってか、おとなしくしていることができず、なんらかの爪痕を残していく。 「気持ちは分かるがね。ベッドは固いし、調理は大雑把。道端に獣の糞があるのは当たり前で、雨が降れば道はぬかるみどころか泥沼。馬車にはサスペンションもダンパーもないから揺れるし跳ねるし……。勘弁してくれと思うのは分かる。うん、分かる。よく分かる」 実際ヴェクタスは、初めての馬車ではその厳しさに耐えられず、途中で降りて徒歩を選んだ。酔い止めになる薬は存在していて効果があったのと、クッションを持参することで緩和できるのが幸いである。 ゆえにヴェクタスには、変えたくなる気持ちは分かるのだが、彼はそうしないことを選んだ。
「そんな面倒なこと、こっちでまでやりたくないよ」 と、酔い止めの薬とクッションを持参する。馬車を改良させようとはしない。 手洗いもそうだ。 砂や砂利を重ねて(リデアンが)作った手製の道具を使い、小川の水を濾過したうえで煮沸したものを、水筒に入れて持ち歩く。 何故そんなことをすると問われれば、“故郷の風習"とだけ答え、興味を持って更に尋ねてきた者にだけ、もう少し詳しく語る。 食事の前に軽く神に祈るのだが、祈りの手は清らかでなければならない。清めに使う水は流水が理想で、それが難しい場合も、できるだけきれいな水を使う。 「ゴミが浮いてたり、濁った水はちょっと」 だから水筒を持っている。入れてある水は、街よりも上流の小川から汲んだもの。汲みに行くのは面倒だが、異国にいるのはどうしても少し心細くて、馴染んだ神の加護を願わずにいられない。 こう言えば皆、なるほどそうなのかと納得してくれる。 よく加熱された料理を注文し生食を避けるのも、毎日体を拭くのも、雨の日は外に出ないのも、すべてただの好みや、故郷での習慣、勝手にしていること。 だから人には勧めない。 変わり者として見られるが、それだけで済む。
そのくせ、どこまでが意図したものかリデアンには分からないし、尋ねても 「さてね?」 とはぐらかされてしまったが、彼は改革を一切押し付けず、やろうとすらしないまま、改革の芽を植え付けているように見える。 「竈守り様はきれい好きなんでしょう? それなら、きれいにしていたら私も加護がもらえるかもしれませんし」 これは、ヴェクタスが丹念に手を洗うところを見て、料理人でも鍛冶屋でもないのにと笑う相手に時折、故郷の習慣であることと合わせて返す言葉だ。 そうしてますます笑われる。竈守りは、あくまでも竈を守る神、厨房や鍛冶場の女神である。だから、竈を持たない者や竈のない場所には意味がない、と。
だが、そんな馬鹿なと笑いつつも、もしかしたらと思う者は出る。やっても損はないし、もしいいことがあったり災いから守られるなら儲けものである。 それに、汚れた手で神にまつわる場所や物に触れる、捧げる行為をするのは不敬だというのは、なるほどと思える。 できるだけきれいな水として、上流の水を使うのも分かりやすい。汚物を捨てる場所よりも手前の水のほうがきれいなことなど誰にでも分かる。それに、店先に置かれた見た目からして汚れている水では清めにならないことも。 なるほどなと思った人が、その中でも敬虔、あるいは現金な者が、勝手に真似するようになった。また、店先の水を毎日取り替える店も、リデアンが気付いたかぎりで二軒ある。たった1ヶ月でだ。 利己的で単純明快な考えは、なるほどそうかもしれないと思われたのだ。
確かにヴェクタスは、誘わない。勧めない。 だが彼は、人をついその気にさせる話術に長けている。 誘わなくても勧めなくても、なんだか面白そうだと感じさせるように話している。仕向けているとは決して気付かれないようにして、仕向けている。 種は、間違いなく蒔いているのだ。芽吹かないかもしれないが、勝手に蒔いて後は任せる、衛生の種を。
リデアンにそれは、かつての事業家としてのヴェクタスのスタンスと同じに見えた。 ”場は用意した。あとは個々人の努力や工夫次第”。それが彼だ。 自分好みの活発な都市を作り、熱意や努力にチャンスが与えられる仕組みを整え、怠惰や億劫を軽減する方策を考える。そうして用意した場を、人が活かすかどうかは気にしない。使いたくないなら使わなくていい。使わない自由を奪わない。 今も同じだ。かつてのように結果を出すまで目を配り手を回し、育てることはしないが、それでも種を蒔き、僅かな促進剤を与え、小さな芽を生み出した。 ここでまで大変な仕事をしたくない、と、ずいぶん早く突き放してしまったが、それでも、人の暮らしを少しでも便利で快適に、豊かにしようとする我が儘な善性は、たしかにヴェクタス・アヴローンである。 リデアンは顔にも態度にも出ないもののそんなヴェクタスに感心していたし、この世界にいて姿は変わっても、 (ヴィは、ヴィですね) 彼はどこまでも彼らしいと、それを嬉しく思った。
しかし、そんなある日、それは起こったのである。
【二 小太陽、顕現】
「……これを、どうするつもりですか」 ずいぶん長い沈黙の後で、リデアンが僅かに、ほんの僅かに、責めるような調子で言った。 ということは、普通の相手なら盛大に呆れているかうんざりしているところだろう。 リデアンが見上げているのは、昼下がりの森の上空に浮かぶ白く朧な光球、今できたばかりの小太陽だった。
ここへは、フォレストウーズ退治にやってきた。 フォレストウーズは大型のスライムと言っていい魔物で、そのためブーシェの街では数少ない魔法使いであるヴェクタスに指名の依頼が来たのである。 青ランク、つまり新米冒険者には荷が重いかもしれないと懸念はされたが、他の魔法使いたち(と言っても二人のみ)は出払っていたため選択肢がなかった。 幸い、フォレストウーズは極端に炎に弱い。群れてはいるが連携して襲ってくるような知能もない。スライムよりも大きいため目視しやすいこともあり、うっかり囲まれたり、近付いて取り込まれたりしなければ対処は容易だと言われた。
そうしてやってきて、ウーズを見つけた。スライムが人を襲うときには顔に取り付いて窒息させるのに対して、ウーズは半身を丸ごと飲み込めそうなサイズだった。 リデアンが十分に警戒して索敵したため、囲まれることはなく不意打ちされることもなく、余裕を持って先制攻撃できる状態だった。 そこからはヴェクタスの出番である。 が、そこでヴェクタスがやったのは、火の玉などで攻撃することではなく、何故か、本当に何故か、小さな、と言っても火球だとしたらかなり巨大な、白い太陽を上空に生みだすことだった。 しかもそれは彼自身意図しなかったようで、リデアンと共にぎょっとしていた。
「そもそも、何故こんなものを」 「あー……、これはとりあえず、放っておくしかない、と思う。同じ質量の氷をぶつけたとして、大量の水蒸気を生み出すか、下手をすれば爆発するだろうし。ちなみに現象として生じてしまった以上、さっとなかったことにはできない。少なくとも私に、そんな魔法の具体的なイメージはない。ただ、放っておけばやがて消える。たぶん。まあ燃料切れのようなもので。たぶんだが。で、何故こうなったと言われると、ちょっと、今ここでさっと説明はしづらい。だからとりあえず―――熱も感じないし、落ちてくる気配もない。つまりあれは、眩しいだけで害はない。うん、たぶんない。だから、何日も残るようならまた考えるとして、とりあえず今は、知らない顔をして引き上げよう」 害はなさそうだとしてもこんな大問題を放置してとんずら。これにはさすがのリデアンも大きな溜め息をついた。
引き返した村は当然大騒ぎだったが、それにヴェクタスはしれっと、 「突然あんなものが出てきたんだ。びっくりして逃げてきたよ。ウーズの群れ? 私たちより先に逃げた。当分戻ってこないと思う」 いかにも動転している、わけが分からないといった様子でそう答えた。そして、ともかくギルドに報告しなければと言って、そそくさ……という様子には決して見えないように、村を立ち去った。
もちろんこの大事変はブーシェの街にも知れ渡り、いったいどんな異変だ、なんの凶兆だ、どんな悪意あるいは暴威だと大騒動になっていた。 ヴェクタスにとって幸いだったのは、小太陽の発生などという変事だけに、それを一人の人間がやったとは誰も思わなかったことである。 それをいいことに、ギルドにも「突然現れた、わけが分からない」などと報告して空とぼけている。 リデアンにとって幸いだったのは、よくもまあこんな空々しい大嘘をと思っていても、まったく顔に出ないという自分自身の特性だった。 【三 小太陽と魔法の話】
宿の一室に戻ると、閉めてあった木窓のせいで薄暗かった。 リデアンは窓を開けた。街全体が赤く染まっている。石畳の通り、瓦屋根の家並み。暮れの空気が入ってくる。煙の匂い。それから、慣れた悪臭。 ヴェクタスがランプに向けて指先を向けると、小さな炎が灯った。リデアンはそれを確かめて、窓を閉めた。 ヴェクタスは椅子に座った。リデアンはベッドの端に腰を下ろした。 リデアンは何も言わず、ただヴェクタスを見ていた。見られているヴェクタスも、何も言わなかった。
耐えかねたのはヴェクタスのほうが先だった。 「説明s」 「聞きます」 リデアンの返事は短かった。 「もしかして、怒ってる?」 「説明を」 自分が怒っているのかどうか、実はリデアンにはよく分からない。感情というものについては、こうなった今でさえ把握しきれないのである。 ただ、もし部下がこんなしくじりをしでかしたなら、間違いなく厳罰だ。であればこれは普通、怒るところなのだろう。 しかし今は自分の感情よりも、事態の把握が最優先だった。
ヴェクタスはまず、この世界に満ちているものの話からはじめた。 空気と同じように、あらゆる場所に当たり前に存在しているものがある。ヴェクタスが魔法を使うために使っているものだ。物にも、人体にも含まれている。この世界固有の名称ではフラウで、既知の単語には置き換わらない。 「“魔法の素"だよ。魔素、という翻訳を当てておくと分かりやすい」 その魔素が、魔法には欠かせない。この魔素を感じ取り干渉できる者は、魔法使いになりうる。しかし感じ取ることのできない者は干渉もできず、魔法使いには決してなりえない。 そして、魔素をどれくらい敏感に感じ取り、動かし吸収できるかは、天性や素質、訓練によって得た能力に依る。これが、魔法の才能の一つ目だ。
「魔力というのは、どんな力を意味するのですか」 リデアンが問う。ヴェクタスは少し嬉しそうに頷いた。 魔法使いは取り込んだ魔素をなんらかの現象として発現させるのだが、その魔素を増幅・純化する能力が、個人に備わった魔力である。 魔力が高ければ、僅かな魔素からでも大きな効果を生み出せる。一方で、魔素に対して鋭敏であっても、魔力が低くては、 「上手く加工できない、と言ってもいいか。収穫した果物をそのまま出す。あるいは、下手に加工して果実そのままよりも質量ともに落ちてしまう。そんな感じだ」 つまり才能は、魔素への感応と、魔力の高低、その両方によって決まる。
魔素がある。感じ、取り込む。魔力によって増幅し純化する。その後に来るのが、炎や氷といった具象化だ。 「基本的には、実行者の想像力、これがそのまま創造力になる」 この世界に来て間もない頃、魔法とはどういうものかとヴェクタスに聞いたとき、実際にやって見せながら説明してくれたことだ。世界に満ちているものを感じ取って、手の中に流して集めて、燃えるイメージをすれば炎になる、と。 そして今回の件は、この想像力が裏目に出た、とのことだった。
「つまり……、まずあの森は魔素が多かった、あるいは濃かったということになりますか?」 「んー……まあ、普通かな。ややちょっと、少しだけ濃い部分はあったけど」 「にも関わらずあんな魔法が発動したということは、それだけ貴方の魔力が高いということですね?」 「効率的に魔素を集めたうえで、ね」 魔力が高い自覚があるなら、わざわざ魔素を集めなければいいと思うのだが、言っても無駄だろう。たぶんヴェクタスは、能力が高すぎるためほぼ素で、つまり息をするように、そうしてしまうのだ。かつての彼が、無造作に見えるほど手際よく、億単位の金を生み出していたように。
そこまでは理解した。 しかし分からない。 「で―――それで強力な火炎魔法を撃つ、というならば理解できますが、何故 太陽なのですか」 この点がまったく理解不能だった。 それにヴェクタスは、少しだけは申し訳なさそうな様子で、 「いや、だって、私はもともと、戦闘なんてろくにしたことがないし……」 魔法は、よりリアルに、活き活きと想像できるほど、明確に具象化される。よって、強力な炎の攻撃としてある人は炎の矢を使う。だが別の魔法使いは炎の礫を思い描く。それが自分にとって想像しやすく、扱いやすいためだ。 逆に言えば、明瞭に思い描けないものはその曖昧なイメージと同じく曖昧な現象にしかならないし、発揮する効果も曖昧になる。 「だからその……ほら、スライムのときは、数は多かったが、まとめて何匹もいたわけじゃなかっただろう? それに小さかったし。だから一匹ずつ、一発ずつ、これくらいの炎の塊でも飛ばしたらいいかとやったわけなんだが……。ウーズははるかに大きかったし、しかも五匹もいて……」 「なるほど。一匹ずつでは、不意打ちの意味がない。反応した他の個体に襲われる可能性もある。それを避けるならば、まとめて炎の矢なり礫なりを五体分、的確に飛ばさなければならない。そこまでは、考えたのですね?」 「ああ。だがそんなこと私には無理だ。弓や投石器なんて遺物、触ったこともないし、銃だって準備兵役で撃ったのが最後。炎の壁なら想像できるが、それはさすがに、森の中ではまずいだろう」 言うまでもない。ウーズがいたほうがマシだったと思えるような、大火災になるだけである。
「……で? そこからどう太陽に繋がるのですか?」 「だから……そう言えば太陽も炎っぽいし、投げつけなくてもあれだけ大きな炎なら、苦手な魔物は逃げるんじゃないかなーって……、アウスティアを、ちょっと」 かつての世界で見慣れた白い太陽アウスティアを、ヴェクタスは思い浮かべたのだ。 「作るつもりなんてなかったぞ!? ただちょっと、そういえばカエラにドレンや、クリフたちも呼んで、バルコニーで軽食会したことあったなぁとか……、そういえばあのとき、よく晴れてて、アウスティアも少しだけくっきりしてたなーって、……思い出しちゃった」
そうして、小さな"アウスティア"が、顕現したのである。
理解してみると、なるほどとしか言いようがなかった。 あの小太陽は、色も大きさも、自分たちが住んでいたエルサリオンの、あの館から見たアウスティアだ。だからあの大きさで、どこか朧で、明るいけれど熱くはない。 一方で、宇宙空間に出、もっと近い距離で見たときのイメージ、圧倒的な質量と熱を持つ恒星としての恐ろしさも持っていた。
理解はできた。なるほどとも思った。だが溜め息は出た。 同時にリデアンは、なるほど彼は彼だとも思った。 ヴェクタスが都市にせよ星にせよ企業にせよ、何かを動かそうとするときにはそれが将来、どうなっていればいいかを思い描く。その未来から逆算して、やるべきことを考える。彼とともに"散歩"するときに、そんな話も時々語って聞かせてくれた。 優美な橋、浄水して透明になった川の水。水底の石を透かした水面は美しく輝き、土手は鮮やかな花壇。その古風な川辺の上空を、色とりどりのスカイカーが走る。 目が見えないリデアンにも想像しやすいように語る、その語彙も彼の才能だったが、未来の理想の姿をありありと思い描く想像力もまた、極めて優れていたのである。
「貴方の場合は、増幅のためではなく抑制のために、早急になんらかの装備品を身につけるべきです。この世界に余計な”爪痕”をつけたくないなら、なおのこと」 リデアンはそう結論した。 魔素を奔放に自在に取り込み扱い、それを効率的に純化し増幅し、想像できるものであればあっさりと形にしてしまう。 それは、優れた大魔道士と言えるのかもしれない。だがリデアンの実感としては、歩く爆弾だ。いつまたどこで、何を生み出すか知れたものではない。
「分かってる。私も愚か者の仲間入りはしたくない。だから想定外の暴発を防ぐ必要があることには同意するが、つまりは魔力か想像力の枷みたいなものを、ということだろう? それはそれで、いざというとき とっさに外せなかったらと思うと怖いんだが?」 「外すための時間は私が作ります。それが嫌なら、適切な魔法を使えるように訓練してください」 「訓練も、前向きに考えるよ。だが、そもそも魔法使いが珍しい世界だし、この街にいる他の二人というのも、当分戻って来ないという話だったよな?」 だから、待っていられずにヴェクタスに頼んできたのだ。 「魔法を教えてくれるとしたら、そういう指南をしている誰かを見つけるか、それとも、冒険者ギルドがあるなら、魔術師ギルドというのもある気はするな。ただ、その場合は説明がかなり難しい気がするんだが」 「説明? ……ああ、なるほど」 火を生み出す、それによって点火するといった初歩の魔法は使いこなせる。かたや太陽を作り出すような真似もやってのける。にも関わらず、その間にあるはずの、炎の矢を放つ、礫を飛ばすといった実戦での基本が身についていないというのは、明らかにおかしい。 ずば抜けた素質を持つ子供ならばそんなこともあるだろう。だが、今のヴェクタスは青年である。今までどうしてきたんだ、よくそれで今までやって来られたなと訝しがられるに決まっている。それに辻褄の合う答えを用意するのは、さすがに無理があった。
不用意な事故を起こさないため、なんらかの対策は必要である。 だが、訓練による習熟、そのために必要な魔術師への弟子入りや入門は現状難しいと思えるし、なにより、効果が出るまでには時間もかかる。 であるかぎりはやはり、暴発を防ぐための道具を使うべきだろう。これは、それこそ魔法の素質に恵まれた子供が誤って惨事を起こさないためや、危険な魔術師を捕縛した際にその力を封じるため、必ず存在しているはずである。
「とりあえず明日、使えそうな物がないか探してみよう」 仕方なさそうではあったが、ヴェクタスも抑制具探しに同意した。 「そうしてください」 「しかし、今までに見かけたことはないよな」 武具店、宝飾店、ギルドに併設された道具屋。これらは物珍しさもあってヴェクタスが立ち寄りたがり、軒並み見て回ってきたが、そもそも魔法使い用のものが少ない。増幅や強化のためのものならばともかく抑制用となると、リデアンにもそれらしいものを見た記憶はなかった。 つまり、特殊なものを扱うのは、特殊な者、場所だけだということだ。だとすると、リデアンに思いつくのは、 「できれば避けるべきだとは思いますが、カラガンに事情を打ち明けて、彼の知見を頼ることも考えるべきですね」 という手段だった。
彼は800年も生きているという。しかも冒険者ギルドのマスターである。彼ならば、一般用途でない物についても詳しいだろう。 「だが、分かっているだろうが、それは諸刃の剣、吉と出るか凶と出るか、今のところ不明だぞ。理解して協力してくれるならいいが」 「ええ。あんなものを簡単に生み出す存在は、危険視するのも当然でしょう」 「……リディ。君、こっちに来て以来、ちょっと辛辣になってないか?」 「それを言うなら、貴方もです。若さに、ともするとヒューマンの肉体にも引きずられているのかもしれませんが、浮かれすぎです。釘をさすことになるのは当然です」
ここにいるのがかつてのヴェクタスであれば、皮肉や嫌味を言う余地はなかったのだ。おどけた振る舞いや言葉もすべては計算済みで、求める結果を得るためのものだった。 そしてリデアンにとっては、桁外れの財力と献身的で深い愛情で、自分を救い、そして守ってくれると感じられる大切なパートナーだった。 だが今は、 「それを言われると……。まあ、感情なんてありません、みたいなのよりはいいんだけど」 根の善性は変わらず、銀河級の事業家が持つ手腕はそのまま。本気になればリデアンよりも各段に深く考えられるはずなのに、どうにも浮かれた子供っぽさがあった。 「ヴィ。真面目に考えてください。太陽の件を伝えずに抑制の道具を求めることはできますが、800年も生き、人を率いる立場にある老人を騙し通せるとは思いません。そして伝えるとすれば、そんな力を持つ者として異世界人の存在を、彼ならば認識している可能性が高い。便利に使おうとするか、あるいはかつての”預言者”のように街を混乱させる存在として追放や捕縛を試みられるか。前者ならばマシですが、それでも貴方の望む普通の暮らしはできなくなる。後者は、当然嫌でしょう」 真正面から正論で叱られて、ヴェクタスはややしょんぼりと、 「分かったよ。まずは道具探し。真剣にやる。約束する。店主に聞けば、なにか分かるかもしれないし」 見かけは、若いとはいえ大人の青年。中身に至っては壮年も終盤の男のはずなのに、消沈した子供が答えるような風情だった。
そこでグゥと、ヴェクタスの腹の虫が鳴いた。彼はごまかすように咳払いをしたが、間に合っていない。 リデアンは窓を開けた。月の位置を確かめる。思ったよりずいぶん時間が経っていた。気温が下がり湿度が上がったため、夕方よりも強くなった悪臭が入ってくる。東の方角、メインストリートの方だけがぼんやりと明るい。この宿のあたりはほぼ真っ暗で、窓から漏れる明かりだけが落ちている。 リデアンは窓を閉め、ドアへ向かう。 「何か買ってきます」 「いや、今日はもういい。乾パンでも食べて……」 「ご心配なく。これくらいの暗さであれば、私には問題ありません」 夜目が利く。足元も確かだ。こちらの世界に来てからも、そのあたりは変わらない。 ヴェクタスは何か言いかけて、やめた。代わりに、 「……ああ。でも、気をつけて」 と言った。 リデアンは返事をしなかった。しかし扉を閉める前に、ほんの一瞬だけ、口の端に小さな笑みを乗せた。