第三話
「“こういう世界"には本当にダンジョンがあるんだな。楽しみだ」 ヴェクタスは浮かれていた。 ギルドから、近くにある廃城のダンジョン調査と、そこにいるモンスターの討伐を依頼されたからである。
ダンジョンは強力なボスとの戦闘と並んで、RPGの醍醐味、“らしさ"の象徴なのだそうだ。 リデアンにはよく分からないが、ヴェクタスがそう言うならば、そうなのだろう。 不思議なのは、ヴェクタスの変わりようだ。かつての世界では、彼からビデオゲームの話題が出たことはなかった。それが何故こんなにも乗り気なのか。 本当はやりたくて仕方がないのを我慢していたのだろうか。そう尋ねると、 「私が本当にやりたいことを我慢すると思うかい?」 とヴェクタスは答えた。 「ルドルフから話を聞くたびに、面白そうだとは思ったし、少しやってみようかとは思ったが、いざそのために時間を使うとなるとね」 仕事との比重で後回しになり、ついぞ手を伸ばすことがなかった。 しかし、今ここには積み上げてきた過去がない。あるのは、若い体とまっさらな背景。それなら、かつての人生で後回しにした楽しみを味わいたいし、 「彼があんなに好きだった世界……それっぽい世界ということだが、そこにこうしているのに楽しまないなんていうのは、悪い気がしてね」 その声音には、師でありライバルであり友人でもあったヒューマンの豪商、ルドルフ・カステルと、おそらくはもう会うことも話すこともできないことへの、僅かな感傷がうかがえた。
彼がこの世界に来て以来やたらとエネルギッシュな理由はなんとなく分かった。 だとしてもリデアンには、このダンジョン調査の依頼がそんなふうに楽しいものだとは到底思えないのだが、もともと二人の価値観や感性は激しく異なっている。自分にはまったく楽しそうに思えなくても、ヴェクタスが楽しいと思うならそれでいいと、なにも言わないことにした。 そんな話をしながら、乗り心地最悪の乗合馬車に揺られて、最寄りのネーナ村まで一時間半。 そこから三十分ほど歩いて辿り着いたのは、朽ちかけ荒れ果てた不気味な城だった。
城と呼ばれている以上、防衛拠点として作られたものなのだろうが、壁は低く城館も小さい。エルサリオンにあったヴェクタスの館よりは一回りほど大きいかもしれない、といった程度だ。 二百年前はこの小城に、前領主の甥だか弟だかが住んでいたらしい。だがその男は嗜虐趣味のある異常者で、使用人はもとより付近の町や村から連れ去った住民たちを監禁、拷問しては殺していたという。 よほど巧みに隠蔽したのか、それとも周囲が無能あるいは愚鈍だったのかは分からないが、その暴虐は十年近くも続いたそうだ。 やがて露見し処断され、周辺地域に平穏は戻った。しかし新しくその城の主になろうとする者はなかった。 取り壊されなかったのは、その不始末が原因で領主が交代したからだろう。新しい領主もその親族も、大量の死者を出した城には住みたくもないし、金と人手を費やして前任者の尻拭いをするのも馬鹿らしい。なんとかしろと言われるのを無視しているうちに、野盗やゴロツキのアジトになり、やがてはモンスターが発生するようになった。世代まで変わればますます取り壊すための面倒を引き受けようという者もいなくなるし、周りもそんなものだと諦める。そしてギルドが定期的な討伐を行うダンジョンが残った。
定期討伐が行なわれる場所として、ここにあるダンジョンと出現するモンスターについて、基本的な情報は既にある。 受付の(受付エルフ嬢の名前)が教えてくれたところによると、討伐対象はマリス。人の無念や怨念が魔素によって実体化したモンスターである。物理的な手段では束の間散逸させる程度にしかならないため、魔法による対処が必要になる。 つまり魔法使いが必須の依頼である。 「ただ、これは少し難易度が高いので、本来であれば"緑"の人に行ってもらうのですが……」 マルダナの冒険者ギルドに所属する二人の魔術師は、今どちらも別の依頼で遠出していた。そこで、冒険視野としてはまだ新米なものの、魔法の能力だけであれば"緑"どころか"赤"にも相当するかもしれない、ヴェクタスに頼むことにしたのだ。
(受付嬢の名前)は尋ねればより詳しい情報を教えてくれそうだったが、ヴェクタスは早々に切り上げてしまった。「詳しく分かっていたらつまらない」からだそうだ。 軍事であれ経済であれ、情報を軽んじては十全の結果は出せない。そんなことは、ヴェクタスであれば嫌と言うほどよく分かっているはずだ。だが、この世界は彼にとって、本来ならば断たれたはずの人生の延長、RPGのように楽しむ場所らしい。あえて博打を、なにが見つかり、なにが起こるか分からないことを楽しみたいらしい。 あらゆることを把握して銀河の市場を動かしていた彼だからこそ、その反動なのかもしれないとリデアンは考える。 であれば、この気軽なバカンスに水をさしたくはない。 「リディ、こっちだ」 と城館へ向かう楽しそうなヴェクタスの後を、リデアンは黙って追いかけた。
入ってみると、館の構造は至ってシンプルだった。正面のエントランスを基準に、右側には使用人などが起居し働く部屋が固まり、左側は城主とその家族のテリトリー。二階には客間、娯楽室、リネン室などなど。 ヴェクタスはこの城内をひと通り見て回ったが特に見つかるものもなく、せいぜい朽ちた床が抜けて足を痛めそうになったくらいである。 これではただの廃屋でしかないなと、前庭、そして裏庭を見て回って見つけた小屋から、ようやく地下への階段に通じる扉に辿り着いた。
小屋の扉も、地下への階段に通じる扉も開きっぱなしだった。 リデアンがランタンに火を入れ、先に立つ。 マリスを完全に倒せるのは魔法だけだが、物理でも一時的な散逸はさせられる、というのは重要だ。戦闘経験のほとんどないヴェクタスではなくリデアンが先行し、行動不能にしてからとどめをさすほうが確実である。 リデアンが階段の半ば、五段目あたりに来たとき、 「なるほどね。魔素が濃い、というより、溜まった挙げ句に淀んでいるのか。マリスは、この魔素に強い思念が干渉して発動した魔法の結果、ということか」 背後からヴェクタスの声が聞こえた。その分析はさすがだが、声が少し詰まるようで、苦しそうだ。 魔素を感じ取れないリデアンには、見えるもの、嗅げるもの以外には何もない、なんの変哲もない場所だ。しかし魔素に敏感なヴェクタスには、有毒ガスが充満しているような状況なのかもしれない。 気がかりだったが、リデアンは振り返らず階段の下に目を凝らす。そして、ふっと伸び上がるようにして襲ってきた靄を、軽く叩き潰した。
手応えはある。圧縮された空気を殴ったような感触だ。だが手にもあたりにも何も残らない。縦長の、おそらくは人の形に近い靄として見えていたのも、今ではまったく見えなくなっている。しかしヴェクタスにはまだ、その場に残っているのが感じられるらしい。 「害はあるのですか?」 前を警戒したまま、声だけで問う。 「たぶん、ない。粉砕されると、再び集まるまでは、人に害を及ぼせるほどの力はないんだと思う。……だが、気味が悪いな。見えないのにあることは確かで、しかもそれが生き物みたいに蠢いているのも分かる。集まろうとしてね」 害がないならばそれでいい。ましてや見えないなら、気にしようもない。リデアンはそのまま先へ進もうとした。
しかし、 「すまん、リディ、待ってくれ」 ヴェクタスの声に、足が止まる。 「……これより下に行くのは、私には無理だ」 視界を半分だけ後ろへ向けると、ヴェクタスは階段の壁に片手をついていた。暗がりに加え、炎の燃えるランプに照らされてはいるが、それでも分かるほど顔色が悪い。どうやら濃く淀んだ魔素というのは、魔術師にとっては不快というだけではなく、害があるものらしい。 「外に出ましょう」 リデアンは短く言い、ヴェクタスの背を促した。
裏庭に出ると、ヴェクタスは大きく息をついた。幸い、それで気分が楽になったようだ。何度か深呼吸し、そして身震いするあたり、呼吸が苦しいというよりは全身的に"息苦しい"のだろう。 「大丈夫ですか」 リデアンが問うとヴェクタスは頷き、眉を寄せてダンジョンの入口を見た。 「今までの魔法使いは、どうやってんだ……?」 と呟く。 マリスは、魔法でなければ倒せない。だがその魔法使いは、あの中には入れない。 とはいえリデアンが魔法について理解した内容からすると、 「魔力は高く、魔素への感応力が低い者であれば平気なのではありませんか」 それなら、その中でも苦しくはないし、普通に戦えるのではないだろうか。 リデアンの返答にヴェクタスはまた一つ頷いたが、 「だとしても、常にそういう相手を探すのは難しいし、だったら私に依頼しても無駄だと思ったはずだ。にも関わらず依頼してきたからには、……あ、そうか……。冒険者としての経験は乏しくても、なんとかなるかもしれない、という発想だったんだよな、ギルドは」 “青"の冒険者には難しいかもしれないが、という前置きがあった。その意味は、単純に魔法を打っばなして仕留めればいいわけではなく、なにか特殊なポイントあるからだったのだろう。
沈黙が落ちる。 その沈黙が続く。 ……まだ続く。 ヴェクタスがちらりとリデアンを見た。 リデアンは、溜め息をついた。そして、 「つまり、あの魔素に対するなんらかの対処方法がある、ということです。貴方がなにも聞かずに出てきてしまっただけで」 仕方がないので、ぴしゃりと事実を突きつけてやった。
「すまない。さすがに少し、浮かれすぎだったし、迂闊すぎた」 謝れると何故かかえって溜め息が出て、叱責の一つもしたくなるのが不思議だ。 「そもそも貴方は何故、このダンジョン調査にそこまで興味があるのですか。RPGの醍醐味だとは聞きましたが、私には面白い要素があるとは思えません」 「えっ。だって、ダンジョンだぞ? こうやって依頼を受けたり、あるいは、魔物が村人をさらってダンジョンに逃げ込んだから助けてくれと頼まれたりするんだ。こういう序盤の場所だと、いやゲームだとしたらの話だが、比較的小さくてシンプルな構造だが、ゲーム終盤になると大規模で複雑で、罠も手が込んでいたりする。見えない落とし穴とか、ワープ装置とか。この世界そんなギミックがあるかは知らないが、もしそこまでRPGっぽかったら、楽しそうじゃないか」 ヴェクタスは、そう言った。 そしてリデアンは混乱した。
依頼を受けて調査する。あるだろう。 魔物すなわち敵が誰かを誘拐して立てこもる。手近にある隠れ場所がダンジョンであれば、ありうることだ。 小さくてシンプルな構造。小規模な施設に付随するものであればそうだろう。 大規模なものも当然ある。 だが、複雑な構造? 罠? 見えない落とし穴? ワープ装置? ダンジョンに、何故そんなものが必要なのだろうか?
「ヴィ。―――念の為 確認しますが、もしかして貴方の言う"ダンジョン"は、牢獄とは別のもののことですか?」 と問いかけると、ヴェクタスは「あっ」と言いかけた形のまま固まり、やがてがっくりと項垂れた。
ダンジョン(dungeon)とは? 標準的には、地下牢、牢獄を意味する言葉である。 しかしヴェクタスにとってはまったく違う意味だった。 そしてそのことにやっとリデアンも気付いたのだった。
「そうだった……。最初は私も、ヒューマン標準語の"ダンジョン"は、“地下牢獄"に聞こえていたんだ……」 「今 貴方が言う"ダンジョン"は、なんのことですか?」 「ふ……。それを尋ねるあたりも君らしいな。ゲームなんて私以上にしたことがないし、興味もなかったんだろう?」 「それは、はい、そのとおりです」 「ゲームで"ダンジョン"と言ったら、……そうだな。遺跡や迷宮、巨大な城、いろいろあるが、ともかく、主人公たちが探検するエリアマップのことだよ。……ああでも、そうだよなぁ。これ、私も最初は変だと思った側だったのに……」
ヴェクタスがルドルフと親しくなり、ゲームの話題に付き合うようになると、「このゲームのダンジョンは」、「DLCで新しいダンジョンが追加されて」といった話を聞かされた。しかしトゥーリアンであるヴェクタスには、ルドルフが口にする”ダンジョン”はすべて地下牢、牢獄、土牢と翻訳されて聞こえた。そのため、世界のあちこちに大きな、そして様々な牢獄があってそこを探検する、不思議な世界観に思えたのだ。 ヒューマンの口にする”ダンジョン”は、多くの場合ゲームマップのことだと知って、ヴェクタスは翻訳機のローカルデータを編集し、“ダンジョン"に迷宮や探索場所という意味を追加した。 彼がもしリデアンのような軍人か、あるいは考古学者、それとも警官や裁判官など司法に関わる仕事をしていたなら、牢獄を意味してダンジョンという言葉を聞く機会もあったはずだ。しかしヴェクタスは商人だった。よって、地下牢などという言葉が出てくるような会話をすることがなく、そんな単語が日常の中で耳に入ることもほぼなく、気がつけば彼にとって"ダンジョン"は、ゲーム用語としてのダンジョンになっていたのである。
元の世界の翻訳機であれば、文脈から判断して「牢獄」と「ダンジョン」を使い分けたはずだ。しかしこの世界の、何故か自動的に機能している翻訳は、そういった使い分けをしなかった。 しかもヴェクタスにはずっと、元来の意味である「地下牢獄」ではなく「(ゲーム)ダンジョン」という固有名詞で聞こえていたようだ。 そのあたりの仕組みについて考えるのは無駄だ。そもそもなんの装置も使わないのに、勝手に翻訳されて聞こえるし、勝手に文字の意味が分かるのである。そんな中で、この翻訳システムはどういう……などと考えるのも馬鹿らしい。 肝心なのは、依頼の完遂である。
なにやら酷く疲弊したような感覚はあるが、リデアンは意思の力でそれを律し考える。 このままではマリスは倒せない。調査だけであれば、マリスを無力化している隙に自分だけでできるかもしれないが、それでは片手落ちだ。 しかし、対処する方法は確実に存在している。それを知るためには、 (ギルドに戻って情報を引き出すのが確実だが……) ヴェクタスの面目を潰すことになるのも間違いない。 たったそれだけのことで命を守り、仕事を果たせるならば安いものではある。かつてのヴェクタスであれば躊躇うまい。だがそれは、彼が手掛ける仕事が何兆という数の銀河市民に影響するものだったからでもある。引き換えにはできなかったのだ。 だが今のこの、若さに引きずられてもいる、身軽なヴェクタスはどうだろうか。さらりと「ギルドに戻ろう」と言わない時点で、気にしているのは間違いないし、リデアンとしても、彼につまらない汚点をつけるのは忍びないとも感じた。
であれば次点は、 「ネーナ村に」 「ネーナ村に」 と二人の言葉が重なった。 それがあまりにもぴったりと一致していたため、つい顔を見合わせる。 「見事にハモッたね」 とヴェクタスが小さく吹き出した。 それから彼は小さく一つ息をつく。それで、どことなく落ち込んでいた気分を切り替えたようだ。 「ネーナ村に戻って、聞いてみよう。これまでの冒険者もあの村に立ち寄っているはずだ。マリスの処理に時間がかかるなら、一泊くらいしているだろうしね。それでなんの手がかりも得られないなら、ギルドに戻って泣きついてみるよ」 力はあるが経験が伴わない"へっぽこ冒険者"を演じる―――一部事実なのだが―――のも悪くない。そう思ったのだろう。 ヴェクタスがそう決めたならば、それでいい。リデアンは 「そうしましょう」 と短く応じて、空を見上げた。 太陽の位置はまだ高い。人々が休むまでには時間がある。 まだまだ挽回はきくと信じて、二人は廃城を後にした。
ネーナ村に着いたのは、昼餉には少し遅く、夕餉にはまだ早い、中途半端な時刻だった。 宿を兼ねた食堂に入ると、テーブルを拭いていたおかみが顔を上げた。 「おや、ずいぶん早いね。もう済んだのかい?」 二人が事情をかいつまんで話すと、おかみ―――ベッツィは、からからと笑った。 「なんだい、なんの準備もしてこなかったなんて。まったく……」 荒れた指が、リデアンの胸にある青いスカーフ、冒険者ギルドのランクを示す布をちょいと揺らす。これだからひよっこは、と言われた気がした。 だが馬鹿にするというより、子供のような年の二人組の失敗が可愛く思えたのだろう。ベッツィはにっと笑い、 「だったら、ダン爺さんに話してみな」 と言った。
「昔、あすこのマリス退治を引き受けてた魔法使いだよ。今はもうそういう仕事はしてないけどね。村はずれの、……そうだね、ここを出て右へ、道なりにずーっと行くと分かれ道があるから。林に続くほうへ行くとダン爺の小屋だ」 そして、棚から瓶を一本取ってカウンターに置いた。 「これ、持っていきな。話を聞きたいならね」 そして手を出す。 「くれるわけではないのですね」 「当たり前だろ。ダン爺の好物だよ」 リデアンが値段を尋ねると、ベッツィはさらりと答えた。相場より少しだけ高い。ここまで運搬する手間賃が含まれるのかもしれないと考え、なんにせよ必要経費と判断した。
言われたとおり、村はずれ、木々に囲まれた中にダンクの家はあった。 小さく、古く、しかし丁寧に手入れされた小屋だ。庭には薬草らしきものが几帳面に並んで植えられている。扉を叩くと、しばらくして開いたのは、白髪まじりの、背の低い老人だった。 ドワーフである。元の髪の色は赤みがかっていたらしく、白の中にわずかにその名残がある。村人と変わらない質素な身なりで、魔法使いらしさは何もない。ただ、栗色の目だけが年齢に似合わず好奇心の色をしている。 「なんでえ、おめえら?」 「ダンクさんですか。廃城のマリスのことで、お話をお聞きしたいと思って参りました」 ヴェクタスがそう切り出すと、老人の目が少し動いた。それからリデアンの持つ瓶に気付いて、 「ま、入んな」 と言った。
家の中は、几帳面に植えられた庭とは対照的だった。詰め込まれた棚、積み上げられた本、あちこちに置かれた香炉や小道具の類。ただ、足の踏み場がないほどではない。雑然としていても、本人には秩序があるのかもしれない。 ダンクは話を聞くと、腕を組んだ。 「普通の魔術師にゃ、準備なしじゃあ無理だわな」 「宿のおかみさんにも、準備してこなかったのかと笑われました」 ヴェクタスが言うと、ダンクは頷く。それから、 「俺ァ引退して長ェが、幸い、“魔術師殺し"はまだちゃあんと残ってる。おめえらにも売ってやんよ」 と言った。 物騒な名である。ヴェクタスがぎょっとすると、ダンクは分厚い髭の中で悪戯っぽく笑った。
魔術師殺しとは、とある木の樹皮を剥いで加工した木片のことで、魔素に働きかけ消散させる効能を持つ。 「ということは、地下の魔素が薄まるだけではなく、マリスも弱体化するのではありませんか?」 「ああ。マリス特効よ。だがな、魔術師にとっちゃ文字通り致命的だ」 魔素が薄れるということは、魔術師にとっては力の源が断たれることと同義だ。それによって身体や意識に害が生じることもあるし、なにより、あたりの魔素が薄れれば魔法が使えなくなる可能性もある。魔法の使えない魔術師は、ただの木偶の坊。そのため魔術師殺しと呼ばれている。 「しかし、そんなものが普通に流通するわけは……」 ダンクは大きく深く頷いた。 「ああ。魔術師ギルドががっちり握ってる。原木も、採取も、加工も、流通も、なにもかもな」 「やっぱりそうですよね。だとしたら、それを売ってもらえるダンクさんは、ギルドでもかなりの地位にいたんじゃあれませんか?」 ヴェクタスが言うと、 「がはっ」 ダンクは太い声で吹き出した。
「ンなわきゃああるかい。俺ァドワーフだぜ。ドンケツよ、ドンケツ。いっちばん下っ端の"修練者"止まりよ」 ドワーフであることが、高い地位にあるわけはないことと同義なら、彼等は魔法の素質が乏しい種族なのだろう。ヴェクタスが持っているRPGの知識、ヒューマンのファンタジーに関する知識は僅かだが、 (たしかに、ドワーフと言えば鍛冶や工芸、採掘が得意だったか。そう、それで酒飲みで……) どうやらそれはこの世界にも通用するらしい。
魔素に鈍感。魔力もそこそこ。どんどん後から来た者に抜かれていく。 だがそう言うダンクには、少しばかりの自嘲はあっても、ひがみがない。 「腕前がどうであるかとは別に、ギルドから信頼されているのですね」 ヴェクタスが言うと、ダンクは満更でもなさそうに髭の中で口を動かした。 「ん、まあな。これでも百年ほどはいたし、やれって言われたことができねえこたァあっても、やるなって言われたことやるような真似だきゃァしなかったからよ」 八十年ほど前にここへ居着いて、マリス退治を請け負うようになると、ギルドは魔術師殺しを処方してくれたのだという。 「俺ァ馬鹿にされるこたァあっても、褒められたことなんざなかったからよ、嬉しかったなァ」 ダンクは、はにかむように笑った。
魔術師殺しの使い方は簡単だ。香炉に木片を入れて焚くだけである。ただし、魔術師がそれを吸い込むと魔法を阻害されるのはもちろん、意識をなくすこともある。それで死ぬほどのことはめったにないが、 「めったに、ってだけだ。おっ死ぬ奴もいる。吸い込まねえに越したこたねえな。ただまあ、そっちのだんまりの兄ちゃんは戦士だっつったな? 魔法は?」 「まったく使えません」 「がはっ! いさぎいいなァ。そこまできっぱり使えなきゃァ、俺も魔術師になりてえだなんて思わなかったろうによ」 ダンクの話は前後し、飛び、時に繰り返される。今もまた魔術師になろうとした理由についての話に逸れてしまったが、その途中でやっと本題を思い出したようで、 「魔法が使えなきゃ、ただの木、ただの煙だ。物好きな野郎やババアがよ、抜け道使って手に入れて、部屋でお香代わりに焚くっていうぜ。そこにたまたま入ってきた魔術師が仰天して、一騒動起こったなんて話もあったっけなぁ」」 そうして話はまた逸れて行く。
若い頃の冒険譚(ただし戦士としてだ)、魔術師を目指した理由を再び(先の話とは微妙に違う)、それからの苦労や屈辱、向いていないのは承知でやめられなかった理由、この村に落ち着いたわけや、亡くした妻と、自分を嫌っている一人娘のこと……。 ヴェクタスは、理路整然とは言えず、本題からはずれたダンクの話に、付き合うどころか自ら乗っていく。 気が付けば屋内は暗くなっていた。 「おお、すまねえな。なんか、無駄話ばっかりでよ」 「いえ、私から話をせがんでいるんです。ただ、さすがに少しおなかがすきましたね」 「よし、そんならベッツィんとこ行って、腹ごしらえでもすっか」 とダンクは、ずんぐりとした体を重そうに椅子から下ろした。
彼はヴェクタスのことが気に入ったようだ。 また酒を飲み、飯を食い、あれこれと昔の話をする。何処から来たとか、なんだって無一文になったんだとか、そういった問いかけには、ヴェクタスがあらかじめ用意している「二人の経歴」を語って答える。嘘が広がりすぎ破綻しないように、決めていない細部については話しにくい事情がある、と誤魔化すのも忘れない。 そんなヴェクタスもさすがではあるが、ダンクもまた、取り留めのないおしゃべりの中に、一言として魔術師殺しの話題は入れなかった。思いつくままに話しているようで、他人の耳があるところで話すべきでないことは、しっかりとわきまえているのだ。
そうして食事を終えると、ヴェクタスは、 「リディ、君はこのまま先に休んでくれ。私はダンクさんともう少し話をしてくる」 ベッツィからまた二本の酒を受け取りながら、陽気にそう言った。 ダンクとの話は、たしかに必要である。魔術師殺しの具体的な使い方、翌日どう動くかを、まだ詰めていないのだ。だがヴェクタスの言いようは、それももちろん聞かなければならないが、単純にもっと話が聞きたいだけのようでもあった。 二人はご機嫌で宿を出て行く。ヴエクタスは少しだけ足元が危ういようだが、かれこれ五本の酒を空けたダンクは、まだほろ酔いにもならないらしい。 あの調子で、本当に必要な情報をしっかりと聞き出せるのだろうかと思ったリデアンだが、懸念するのはやめにした。 失敗してもいい。成果や達成を自らに課す必要はない。自分も、ヴェクタスも。意識的に、そう言い聞かせる。 そんなことよりも、ヴェクタスが楽しそうなら、それでいい。 見えなくなるまで背を見送ったのを潮に、リデアンは部屋に戻って早めに寝ることにした。
翌朝、三人で廃城へ向かった。 裏庭の小屋へ入り、階段の入口でダンクが香炉を取り出す。 「おめえは下がってな。吸い込むんじゃあねえぞ」 とヴェクタスに短く言いつける。ヴェクタスは素直に小屋から出ていった。 ダンクはリデアンに目をやった。 「おめえは傍にいてくれ。まあ、念の為な」 そうして喉元にまいてきた布を鼻の上にまで引き上げてから、香炉の真ん中に木片を据える。彼のゆびさきが小さな円を描くと、その木片にぽっと火がついた。 白い煙がゆっくりと立ち上る。それをダンクは慎重に階段の一番上に置くと、数歩後ろへ下がった。 そして彼は、懐から一冊の本を取り出した。
それは分厚く硬そうな表紙の本で、茶色い表紙の中央には青い石がはめ込まれていた。それを飾るようにくすんだ金の模様が描かれている。 (魔導書か) 武具点に一冊だけ置かれているのを見かけた記憶がある。ただでさえ少ない魔法使い用の道具の中で、杖などに比べても更に見かけないものだった。 しかも、マルダナで見かけたそれが粗い造りの粗雑なものだったのに比べて、ダンクが持つそれは骨董品、美術品としての価値さえありそうな重厚なものだった。茶色の熱い皮表紙。その片面には青い石がはめ込まれ、くすんだ金の装飾が裏表ともに描かれている。 一ページがずいぶんと厚みがあるようで、しなやかさはない。だがちらりと見えたその中にも、複雑な紋様が描かれている。
ダンクはそれを片手に軽く集中し、やがて、あいて手を軽く前へ突き出すようにした。 その手から、風が吹き出す。 だがそれは突風ではなく、ゆるゆると流れる空気の動きだ。それに合わせて魔術師殺しの煙がゆるゆると階段を滑り降りていく。 なるほど、とリデアンは思う。強い風を吹き込めば、無理矢理に押し出された空気に混じって魔素が溢れ出してきてしまう。そのためダンクは、あくまでゆるやかに、空気を掻き乱さないように加減しているのだろう。
どのくらい経っただろうか。ダンクが「よし」と言った。 「まだ完全じゃないが、おまえさんなら入れる」 その声には僅かな疲労がうかがえる。無理もない。これはおそらく、ただ強い風を一気に送り込むよりも繊細で、集中が必要なことなのだ。 そんな技を使い、これまでのマリスを退治してきたダンクがいいと言うのであれば、間違いはない。リデアンは頷いて答え、僅かに白く煙る石段へと足を下ろした。
リデアンに、昨日との違いは分からない。煙の有無でしかない。ただ、ランプの炎が昨日よりも僅かに小さく、明かりが弱いように見える。芯の出し方のせいかもしれないが、ともすると、魔素は魔法だけでなく、こういった事象にも多少影響するのかもしれない。 階段の半ばで昨日と同じ靄が来た。昨日よりもずいぶん遅い。一撃で散った。これならばなんの問題もないと思い、足を早めた。 牢獄は石造りだった。右に四つ、左に五つの房がある。だが、かつては頑丈だっただろう鉄格子も今はほとんどが錆び朽ちて折れ、倒れてしまっている。房を隔てる壁も半ば崩れ、太い木の根が床のところどころを侵食していた。
そういったあちこちに人型の靄が佇んでいる。 歩きながら、向かってきたものを仕留める。一匹。二匹。三匹。動かないものもいる。それも蹴り散らす。四匹目。 逃げる者もいる。マリスという、悪意、敵意、怨念の塊として生まれた存在でも、やはり元は人だからだろうか。恐怖を持っているらしい。憐れではあるが、であればこそ、意味のない慈悲などかけるほうが残酷だ。五匹目。 右の牢、左の牢。通路の突き当り。あとは、右に折れる通路の先だ。引き返そうと振り返ると、入口付近に短躯の影があった。魔素に鈍感なダンクのほうは、もう降りてこれるようになったようだ。 彼に軽く会釈だけして、引き返す道では左にある、おそらくはそこが拷問室だと思われる場所へ向かう。 通路を曲がると、正面に扉の残骸が見えた。
引き開けようとしただけでノブが取れ、扉が傾く。 それを突き抜けるような勢いで、マリスが襲いかかっている。仕方がないので扉ごと粉砕した。壊さないほうがいいのかもしれないが、既にほぼ壊れていたのだ。「来たときにはもう壊れていた」と言っても通じるだろう。 さて、これで六匹。そして、部屋の中にはもう何もいない。天井から吊り下がった鎖や、壁につけられた枷。金属鋲のついた椅子。ろくなものはないが、少なくとももうここに、マリスは存在しない。 であれば後は、ヴェクタスとダンクの出番だ。
入口に引き返すと、ダンクが少し興奮した様子で呼びかけてきた。 「おめえ、でたらめに強ェな」 と。 「そうですか?」 比較対象がないのでなんとも言えないが、ヴェクタスからは災害レベルの力なんだから気をつけろとは言われている。だが、この程度のことであれば"普通"の範疇ではないかと思う。そもそもこれは、こうやって一時的に倒せるもののはずだ。 だがダンクはリデアンの返事に首を振り、 「おめえらの故郷ってなぁ、どんな魔境だよ」 とおぞけを振るって見せた。
ダンクはもちろん、ヴェクタスも降りてられるようになったのだから、魔術師殺しの効き目は見事だった。 「彼は簡単にやっているが、実際のところ、分量の加減が難しいんだ」 張り切ってマリスにとどめを刺しに行く本人には聞こえないように、ヴェクタスがリデアンに囁く。 足りなければ魔素が十分晴れないし、多すぎると煙が薄れるまで魔術師は立ち入れなくなる。ダンクも、最初は多めに焚いて、十分に待つという方法をとっていた。魔素は一度晴れればそう簡単には溜まらないため、急ぐ必要はないからだ。だがこの80年、何度もこなして結果、彼は階段の入口あたりで魔素を感じただけで、分量を調節できるようになったのである。 「それは、大したものですね」 「ああ。彼は確かに、魔法使い、魔術師として、魔法の能力は平凡なのかもしれないが、大したものだよ」 そこまで話したとき、 「おい、ヴェクタース! 俺に全部やらせる気かぁ!?」 奥から朗らかな怒鳴り声が聞こえて、 「すみません、すぐやります!」 ヴェクタスはウインク一つすると、左の牢のマリスへと向かった。
ダンクとヴェクタスが二人でやれば、たった五体程度のマリスの処理はあっという間だ。 ただ、ダンクは 「年々、とまでは言わねぇが、俺がこの仕事始めたときに比べりゃ、ずいぶんしぶとくなってんな」 と顔をしかめた。 「俺が若ェ頃ァ、ちょいとなぶってやりゃ消せたんだがな」 それから80年、毎年のようにやっていたときは、特にどうとも思わなかった。だが、5年ぶりにこうして始末してみると、明らかに違う。5年前と比べても、違う気がするという。 ダンクは少し考えて、 「ギルドに戻ったらよ、カラガンのじいさまに、去年と比べてどうじゃあねえで、昔の記録から見返して比べてみろって伝えてくれねえか」 昨日から通して初めて見るような真顔でそう言った。
「分かりました。必ず伝えます。ですが今は、リディ、あの奥にもいたんだよな?」 まだ一匹残っている。リデアンは頷き、房の代わりに通路がある場所へと目を向けた。 過度を間が場、もう正面に扉はない。 そのかわりそこにはマリスの残骸がある、はずである。リデアンには見えない残骸が。 だが、そこにマリスがいた。
考えるより先に、リデアンは腕を横へ出し二人を制止する。 何故だとか、新しいものなのかとか、考える必要はない。 それは――― ほぼ一歩、一足に間合いを詰め、粉砕する。 その後で、ゆっくりとやればいいことだ。
「うえぇぇ……、ほんっとおめえは……、今どうやったんだ? あ?」 ダンクが頓狂な声を漏らしている。 どうもなにも、間合いを詰めて、殴る。それだけである。他に説明のしようはない。 「と、とにかく、片付けましょう」 ヴェクタスはダンクを宥めて前に出ると、軽く飛ばした火の玉が床に落ち、軽く人型に広がってそして消えた。
もう何もない。なにもいないし、なにも起こらない。 それはじっとあたりをうかがい、目を凝らし、ダンクが確かめる。そしてリデアンを振り返り、じっと見上げた。 「おめえ、ここにいた奴も叩いたんだよな? で、間違いなく一匹だけだったんだよな?」 「はい。見落としはないと思います。見えないものがいたのであれば、私には分かりませんが」 「見えねえ、まだマリスになってねえのがもう一匹……? いや、どっちにしたっておんなじだ。復活したにしろ、新しくできたにしろよ。こんな短ェ時間で起こるこっちゃねえ」 ダンクの様子は、昨日から今まで一度も見たことがないほど真剣だった。 彼は短い腕を組んで考える。だがこれということは思いつかなかったのか、 「まあ、たまにゃああるんだ。昔ここに、ほんのちっちぇマリスってぇのが出たこともある。そいつぁ、ここに入り込んで、出られなくなって死んだガキのもんだった。そういう、たまたまのな、今までになかったことってぇのはある。だからこいつも、そういうことなのかもしれねえが。ま、報告はしとけ。どうすっかは、カラガンのじいさまが決めるだろうよ」
「分かりました。それじゃあ」 そろそろ引き上げましょう、とでもヴェタクスは言いかけたのだろう。だがそこで言葉を切って屈み込んだ。 振り返ろうとしたとき、床の亀裂の中になにか見えたらしい。 僅かな焦げ痕の残る傍に膝をつく。なにかあるのだろうかとリデアンが少し動くと、ランプの光が共に動いたせいだろう。なにかがキラリと、その亀裂の中で輝いた。 「なにかあるね。ダンクさん、分かりますか?」 「どれ、ちっとどきな」 ヴェクタスと入れ替わりにダンクが覗き込む。リデアンは、見やすいようにとダンク自身が影にならない位置へとらんぷを動かした。 すると、 「こりゃあ、魔石か……?」 そう言いながらダンクは亀裂の上に手をかざし、おそらくそれで、危険の有無を確かめたのだろう。太い指を入れ、そこにあるものをつまみ上げた。
それは、黒紫色の不透明な、しかし明かりを受けると縁だけが僅かに赤紫に透き通る、石片のようなものだった。 魔石については、魔法に関する道具の話の中で時折出てきた。魔素が生物の体内で凝縮されたものだ。 であればマリスから見つかっても不思議ではなさそうなものなのだが、ダンクの様子からすると、どうやら今までに出てきたことはないらしい。 リデアンはヴェクタスをうかがう。今ここで、「本来マリスにはないものなのか?」と問うことが、ちょっとした無知で済むことなのかどうか、判断がつかないからだ。 ヴェクタスも黙っているあたり、彼も迂闊に尋ねるのはやめたほうがいいと考えたのだろう。 それに、ダンクはおしゃべりだ。 「おいおい、これこそどうなってんだ? こうなると、こいつが本当にマリスだったの、ちっと違うモンだったのかも分からねぇぞ」 案の定、先に喋りだした。
ダンクとともにネーナ村に戻ると、ヴェクタスは丁寧に礼をいい、村で一番いい酒をプレゼントして別れた。 村にもう一泊し、明日になってからゆっくりと戻っても良かったのだが、報告しなければならないことが三つもあったためだ。 一つは、ダンクの体感としてマリスが年々強くなっているのは事実だとしても、五年前と比べると変化が大きいように感じたということ。そのため、直近の記録との比較ではなく、昔からの記録を一度振り返って確かめてみたほうがいい、という助言だ。 二つ目は、ボスマリス、トーチャード・マリスと呼ばれている拷問室のマリスが、異様な早さで復活したこと。別の思念が急激にマリス化したのかもしれないが、どちらにしてもこんなことはダンクが知るかぎり、一度もなかった。この五年間にも起こらなかったことなら、今回が初めての現象ということになる。 そして三つ目は、魔石。
物体としては無害であるそれを、それでも念の為リデアンが懐に入れている。魔法関連のものである以上、なにかあったときにはそのほうが影響を受けないだろうからだ。 がたがたと揺れる馬車の上で、他に相乗りの客がいないのをいいことに、ヴェクタスは小声で囁く。 「いったいどういうことなんだろうな」 一つのささやかな異常ならともかく、三つ。ただし、そのすべてが一つの根から発生しているとすれば、数は問題ではない。
ダンクのおしゃべりを誘導して聞き出したところでは、魔石は生物の体内でしか作られないようだ。 生物が魔素を溜め込み蓄積させた結果、できるものらしい。 であれば魔素そのものであるマリスならば当然ありそうに思えるが、ポイントは、生物であること、なのだ。マリスは、「魔素によって生じた魔法現象」である。ヴェクタスが生み出す炎と同じだ。それが人の思念のようなものを持つていたとしても、生物ではない。あくまでも「魔法の結果」である。 そのマリスに魔石があるというのは異常なことなのだ。 「マリスとは関係なく、別の理由であそこにあった可能性も考えられますが」 「ああ。ダンクさんはマリスのものだと考えていたが、その程度のたまたまなら、ありうると思うよ」 別の生物があの場で死亡し、魔石を残した。そして今日、たまたまその真上でマリスを倒した。確率としては、ありえないほど低いということはない。 「ただ、だとしたらその死骸がまったくないのは、少し変だ。マリスのように霧消するものならともかく、生物だろう? それなら、骨くらいは残っていそうなものだがね」
分からない。 この世界についての常識、知識がまだまだ不足しているヴェクタスとリデアンには、正解を導き出せるほどの情報がないのである。 であればこそ、自分たちはこれを調査結果として持ち帰り、あとはギルドに任せるべきだ。 気にはなるが、謎の解明は自分たちの仕事ではないのである。 「まあ、首をツッコミすぎるのはよそう。今回は特に、変なボロが出そうでただでさえひやひやしたんだから」 「ダンジョン違いの、うっかりですか」 「うっ。そうだよ。あれでもし、ギルドに戻って尋ねるしかないとなっていたら……」 「地下牢の調査に何故か浮かれた挙げ句、まともな準備もなくマリスを払おうとした冒険者として、否応なく注目されたでしょうね。ダンクさんがいてくれて、助かりました」 「君、やっぱりこっちに来てからトゲが増えてるよ……」 そんな会話もがたごとと、御者の耳には届いていないだろう。 やがて、 「おい、そろそろ着くぞ!」 体格のいい御者の、野太い声がマルダナ着を告げた。
ギルドへの報告は、思ったより時間がかかった。窓口での報告で済ませるわけにはいかず、カラガンへの伝言があったからだ。 ギルドマスターへの面会などそうそうできることではないのが、ダンクの名前を出した途端に叶ったのは、彼が積み上げてきた80年の信頼だろう。 三つの異常―――マリスの強化傾向、トーチャード・マリスの異常な早期復活、そして魔石―――を順に伝えると、カラガンは口を挟まずに最後まで聞いた。それからダンクの助言について確認し、魔石を受け取ると、 「分かった。あとはこちらで引き受けよう」 と短く言った。 それだけだったがその目は真剣で、退出するときにはもう既に、今後の動きを思案している様子だった。
ギルドを出ると、夕暮れ時の通りはいつもより人が多かった。 「リディ、今日の夕飯だが……」 ヴェクタスが言いかけて、路傍に出ている屋台を一瞥する。 「買って、宿で食べようか」 リデアンは頷いた。 何か話したいことがあるのだろうと、それだけで分かった。
宿の部屋は狭いが、二人には慣れた場所だ。買ってきたものを広げて、特に改まった様子もなく、ヴェクタスは話し始めた。 「魔導書を探そうと思う」 リデアンは食事の手を止めずに聞く。 「ダンクさんが持っていたのを見ただろう? あれが、私にとって一番いい制御装置になりそうなんだ」 昨夜、ネーナ村でヴェクタスは、夜半過ぎまでダンクと語り合った。 その中にはもちろん、明日のマリス退治に必要な話もあったが、大半は無駄話、雑談だ。だがその中には、自分たちが知るべきこの世界の常識や当たり前、未知の場所や出来事が散りばめられている。 ダンクの故郷であるドワーフの国の話も出たし、魔法の使い方についての話もあった。 その中でヴェクタスは、ダンクから 「おめえ、どれくらい使えんだ?」 と問われた。正直に、魔法の力そのものには自信があるが、制御にしくじることがあると打ち明けた。そして、暴発を防ぐための道具を探しているのだとも。
「それで言われたのが、魔導書だよ」 魔導書は、魔法の増幅、あるいは制御とともに、発動を助ける複合魔導具である。 ダンクのものは増幅と補強を主にしているが、制御に特化したものも作れると彼は言っていた。 「それに、魔導書の仕組みは、そうだな、それこそデータパッドみたいなものだ。自分で選んだいくつかのアプリを入れておく。それで私は、スリープ解除して、使いたいアプリを選択する。それだけで、決められた威力と効果、挙動の魔法が発動する。これなら、戦闘中に慌てて変な魔法を暴発させることもない」 「なるほど。たしかに、貴方に向いていますね」 「ああ。ただ、問題は、そう簡単に手に入るものじゃないってことだ」
ダンクは魔術師ギルドへの入門を勧めた。そうすればダンクのように、自分に合わせたものを作ってもらえる。 「でもその代わり、ギルドメンバーとしての活動にかなり縛られる。冒険者ギルドみたいな何でも屋、仕事の斡旋場ってわけじゃない」 「それは、選べませんね」 「人生の目標にしたいわけじゃないし、なにより、組織に属して同じ場所、同じ連中と過ごすのはね。いろいろと具合が悪いだろう」 この世界に慣れてくれば、上手く合わせることはできるかもしれない。だが、嘘で塗り固められた籠の中同然だ。そんな不自由を、せっかく自由を手にしたヴェクタスが選ぶわけがない。
「買うという方法は? この街には数冊程度、しかも粗悪なものしかないようですが、この国の首都などであれば、商品も充実しているのではありませんか?」 「それはダンクにも聞いたよ。首都、王都はアル・ダナというらしいね。そこなら本格的な魔道具屋もある。ただ、とんでもなく高額だそうだ。それから、魔術師ギルドから買うという選択肢は、諦めたほうがいいってね」 魔術師ギルドは魔術師の育成も目的としているが、魔法が世の中に害をもたらさないか、監視し対処するという役目も担っている。そのため、善悪の見極めがつかない魔術師に強力な魔道具を渡すことを良しとしない。 「それにまあ、特権として、自分たちの力だけを高めておきたいのも当然だろう」 例外的に魔道具を賜った誰かについて、ダンクも噂くらいは聞いたことがある。だがその真偽は分からないとのことだった。
「それでは―――つまり、魔導書があれば貴方の問題は解決するとしても、入手方法がない、ということになりませんか」 リデアンが言うと、 「まあね」 それだけ答えて、ヴェクタスはしばらく、皿をつついた。 だがやがて、食べかけの燻製肉からリデアンの顔へと、目を上げる。 「だから、『魔導書がある場所に行く』のではなく、『魔導書を手に入れる方法を探す』ために、たびに出るのはどうかと思って」
ヴェクタスは、旅に出ることにした、とは言わなかった。 今まではずっと、こうしよう、これにしよう、と決めて動いてきたが、今は、リデアンの意見を待っている。 「それは……」 リデアンは少し考えた。この街にいる理由、いなければならない理由は、あるだろうか。 ―――ない。 むしろ、離れたほうがいいかもしれない。何も知らずに最初に辿り着いた街で、親切にもしてもらったが、なにかおかしいと思われてもいる。特に、800年も生きているというカラガンには怪しまれているだろう。その長い命の中では異世界人に会ったこともあるかもしれず、“手洗いの預言者"のように、面倒な存在だと、確信はなくてとも警戒されている可能性も、なくはない。
幸い、冒険者ギルドは大きめ街には必ず存在するし、簡単な受注窓口程度であれば、小さな町や村にあることもあるという。そして、その活動はどこでやろうと自由だ。必要なのは、登録金として一旬ごとに決まった金額を納めること。 であれば、依頼をこなしながらこの世界のことを学ぶ。それはここでなくてもできる。 「いいですね。そういう旅も、“RPGらしい"のでしょう?」 リデアンが言うと、ヴェクタスが笑った。少しほっとしたようだ。 「ああ。最初の街を出て、違う場所に行って、そこで起こっているトラブルを解決したりして進んでいくんだ。そう都合よくトラブルはないかもしれないが、目的のために旅をして情報を集め、先へ進む。これもRPGだよ」 声が少しばかり弾んでいる。目標を見つけて明日が楽しみになったようだ。 浮かれすぎないようにと釘を差すのは、今はやめておこう。そう決めてリデアンは、旅の支度について思案しつつ語るヴェクタスの声に耳を傾けるのだった。