かそけき祈り 2
“ほぼ死体"だったのだ。 リデアンの回復には長い時間がかかった。
ヴェクタスはリデアンの体を、移送可能になった時点で"自分の星"の玄関口、コロニー・ユーリシアにある病院に移した。 そこには彼の財力で最高の設備、最高の医師を揃えたし、リーパーの技術に関する研究機関も置いた。かつては文化・芸術の都市といった様相だったコロニーは、今では半分が医療と技術研究の都市だ。 その限界まで整えられた白い一室で、最初の3ヶ月の間、リデアンの体は"生命を維持されてそこにある"だけだった。目覚めることはないのではないかとヴェクタスも思ったし、医師たちは正直なところ、ヴェクタスの我が儘に逆らえないだけのようでもあった。 が、望みが皆無だったわけではない。心臓が再び動き出し、脳波が検知され、活動を再開する予兆はあったのだ。
ほぼ外部からの力で生かされていた肉体が、どうにか自走を始めたのが4ヶ月目。僅かに指先や眼筋周りが、痙攣的に動くことがあるようになった。 目が開いたのは、たしか6ヶ月目だったとヴェクタスは記憶している。開いたと言っても、圧壊時にその柔らかな部分は完全に破損していたため、なにかを見ようとするように少しだけ顔を動かした、といったほうが正確だ。それからは、言葉は発せられなかったが僅かに口が動くこともあり、手や指が動くのも痙攣反応というよりは動かそうとしている結果のように見えた。
「ここ……は、どこ……だれ……」 とほとんど吐息同然ではあったが尋ねたのが、最初の言葉だ。 それまでに何度か考えたことはあったのだろうと思う。それをやっと、声に、言葉にすることができたのが、その6ヶ月目の終わり。 覚醒してもまたすぐ眠ってしまうような日々が続いたとはいえ、ヴェクタスにもやっと、リデアンが生きているのだと、回復しうるのだと思えるようになった瞬間だった。
それでもまだ正常な状態には程遠かった。 会話を記憶していない。覚醒はしていても長時間ただぼんやりしている。僅かに言葉をかわしている最中に、少しぼうっとしたかと思えば、「だれ」と聞いてくる。ヴェクタスにしても、主治医と定めたアサリの医師、カエラ・シボーンにしても、ほんの少し前に何度目かは忘れたが自己紹介し、名乗っているにも関わらず、だ。 意識は戻っても、脳機能はまだまだ回復していない。身体パーツとして見れば損傷は修復されているようでも、やはりこの部分は、現代に至っても未解明で繊細な存在だった。
脳波は低いレベルでならば安定しているが、時に測定不能になるほど乱れることもあった。 カエラ医師はPTSDによる発作的な反応を予期し、それに備えたが、 「やはりこのかたは、驚異的な精神力の持ち主なのでしょう」 と呆れたような溜め息をつくほど、リデアンの反応は小さかった。 脳波は酷く乱れている。過度の反応を見せている。無数の、そしておそらくは劇的でもある記憶が無秩序に想起されていると思われるのだが、それにまったく反応せず平常を保つ部分がある。暴れても暴れてもその平静の地平が決壊することはなく、僅かに零れたものが時折、呼吸の乱れや身体の緊張、身悶えや反射的な動きとして表れることがある程度だった。
そういった危険性は孕んでいたものの、回復自体は進んでいた。 ここが病院であることを理解した後には、極めて慎重に、今の彼の状態、何が起こってそうなったのかを、伝えることにも成功した。 クルーシブルを守るために身を挺し、その結果、大きな、非常に大きな負傷をしたこと。 見えないのは目を閉じている、あるいは閉じさせているからではなく、眼球が失われ視覚そのものを喪失しているということ。右半身が欠損しているということ。 そしてこの病院は、ヴェクタス・アヴローンの私有地と言えるコロニー・ユーリシアにある、ということも。
これまでは、名乗ったところでそれが誰であるかは分からず、翌日には忘れていることのほうが当たり前だったヴェクタス・アヴローンについて、やっと彼は過去の記憶とつなげ、“知人"として思い出した。 そして、「なぜわたしを」と尋ねた。知人ではあっても、自分を助けるいわれのない人物だ、ということも紐づけられていたのだ。 その疑問に、ヴェクタスは、 「支払いがまだ済んでいないだろう?」 と返した。
地球防衛の、クルーシブル設置の最後の決戦において、リデアンはクルーシブルの防衛とリーパーの迎撃を選んだ。そしてその際に、自分用の艦隊とクルーを買うようヴェクタスに求めたのだ。 銀河は、対価を支払うための一日の時間すら惜しいような有り様で、そのときのリデアンはいつになく焦燥していた。……出会ったあのときのようだった。ただ、あのときはまだ若い士官だった。経験も知識も実績も乏しかった。焦りや不安を覚えそれを表に出したとしても、無理からぬことだった。それから20年を経て、大抵のことでは目線一つも動かさなくなったリデアンが、それでも一刻を争う様子になっていたから、 「いいだろう。今回だけ、全額 後払いにしてあげるよ」 と、そういう"取引"をしたのだ。 その支払いが、何一つされていない。
おそらくは、この会話が引き金だった。 後になってヴェクタスは悔やんだ。 このときリデアンはただ、「ああ、そうでしたか」と思い出したのか今聞かされてただ納得したのか、はっきりとはしないが理解はした様子だった。 だがその夜だ。 リデアンが突然、酷い恐慌状態に陥った。
いつもと変わらず眠りについたと思い、ヴェクタスは付き添い人用の隣室に移り、自身も休むことにした。 しかし30分ほどしたかどうか、ようやく寝入ったところで、大きなものが落ちる重い音で目覚めた。 いったいなんだと思ったが、考えるよりも先にともかくリデアンの様子を見ようと決めてドアを開け、彼が床にうずくまっているのを見つけた。 どうしたのかと、人の情としてはごく自然に、しかしあまりにも迂闊に近づき、「大丈夫か、どうした」と、肩に手をかけた。 リデテンは目が見えない。闇の中でなんの予兆も知れないまま、突然触れられることになる。最初に大きく震えたのは、触れられて驚いたからだろう。だがその後は……。 一度も聞いたことのない、悲鳴が迸った。ただ繰り返し叫ぶだけではあったが、明らかに怯え、恐怖していた。体を丸めるように蹲り、ヴェクタスが近づき触れようものなら体全体で振り払うようにしてますます硬くなる。 それに至って近づくべきでない、触れるべきでないと判断したヴェクタスは、駆けつけてきたカエラ・シボーンに任せることにした。
が、断続的な悲鳴を上げ、医師たちからも逃げようとするのは変わらなかった。 やがて、悲鳴に言葉が混じる。 「いや……やめて……やめて…いやだ……やめて……いや……」 怯え、震え、人から遠ざかり、空っぽの眼窩からひっきりなしの涙が落ちる。 カエラは床に膝をつき、子供を宥めるような優しく穏やかな口調で、何もしない、と伝えた。 「何もしない。大丈夫だよ。分かるかい? 私は医者だ。お医者さん。分かる? 君を傷つけたりしない。助けに来たんだ。痛いことも、怖いこともしない。ね。約束する。だから、ゆっくり息をして。じっとして。そう」 近づかず、触らず、何もしない。ただ優しく労る言葉だけ。そして子供が泣き止むのを待つのと同じようにただ根気よく待って、休むためのお薬だから、怖くないからと言ってどうにか近づいて鎮静剤を投与し、やっとリデアンを眠らせた。
看護師を一人リデアンの傍につけて、カエラはヴェクタスを隣室へ、付き添い人の部屋へ促した。 そしてそこで、聞きがたそうではあったが、それでも職務として尋ねた。 「記録にはないので、貴方にお尋ねします。ご存知かどうかは分かりませんが、彼は、他人から手酷い暴力を受けたことがありますか? 幼少期の虐待や、あるいは……」 優秀な医師は、どれだけ実務に必要だろうと、それでも言葉を濁した。 言われずともヴェクタスには思うことがあった。 「……性的暴行、か」 カエラが隠した言葉を口にすると、彼女は痛みの混じる顔で一つ頷いた。
すべてが、自分が確かだと思っていた世界そのものが、ガラスのように割れて崩れるのをヴェクタスは感じていた。 私だと。私でしかないと。
厳酷な父親から虐待されていた可能性もないわけではない。だがあの様子は、殴られることに怯えるのではなく、触られることに怯えていた。最悪の場合あのヴァレス・トライオスが実の息子を、という可能性はゼロではなくとも、ヴェクタス自身が知っている。あのときリデアンは"初めて"だった。こういうことは初めてかと尋ねたとき、彼が頷く裏には何もなかったのだ。
カエラは答えを待っている。 ヴェクタスはどう答えるべきかを考える。 「ある」という事実は告げるべきだ。それを前提に接してもらわなければ困る。 ただ、自分は? それを考えた。 医師は裁判官ではない。だから「誰によって」を追及する立場にはないし、どうでもいいことではあるだろう。 だが問題は、今ここにいるヴェクタスがその本人だということだ。 虐待した張本人が傍にいるなど、倫理の話ではなく治療に与える影響として、許されるはずがなかった。
プライドはある。人より高い。だがそれでも、 「ああ。あるよ。私だ。私が彼を、凌辱した」 自分自身が人にどう思われどう見られようと、今なによりも優先にすべきなのは、リデアンの治療だった。
罪は罪だ。 言い訳はする気もないししたくもない。 見たか? とヴェクタスは自分自身を弾劾する。 これまでには死ぬ間際のことさえきっと思い出したろうし、過酷な戦場のこともあっただろう。だがそれらにはほとんど反応せず、反応したとしても静かに受け入れていたリデアン・トライオスが、まるで小さな子供のように怯え恐れ泣いていた。 あれがあのときの、彼の本当の本心なのだ。 どんなに怖かったか。どんなに嫌だったか。どんなに悲しかったか。どんなにつらかったか。
治療には、事実が必要だ。 だがそれでも、そういう"取引"だった、耐え難いことではあったろうが耐えていたし、その後は自分からその"取引"を持ちかけても来たとは、まるで言い訳でしかないようで、口にできなかった。 だから、ヴェクタスが「自分である」と告白してからは、長い沈黙が続いた。 やがて、時が来た。 「貴方の」 とカエラがゆっくりと、静かに、しかし力強く、言葉を発した。 「これまでの半年余り、8ヶ月に渡る献身を見てきた私は、貴方を容易に責める気にはなれません。罪悪感ゆえの罪滅ぼし……でもないのでしょう。アヴローンさん。貴方ご自身が驚いていらした。ショックを受けておられるようにもお見受けました。であれば、今 誰よりも貴方が、ご自身を責めておられるはず。その中では困難かとも思います。が、あったことを、事実を、お話しください。彼のためです」
「……貴方は、牧師にもなれそうだな」 と軽口を一つだけ挟んで息をつき、ヴェクタスは話した。 感情は極力排除し、出来事を。 自分のもとへ助力を乞いに現れた青年。今から20年ほども前のこと。その外見に魅力を感じ、“対価"を決め伝えた。嫌だと言えば、手は貸さない。それで終わり。少なくともそこで、無理強いはしなかった。性の相手なら、ヴェクタスにはいくらでも買える。どんなに美しい青年だろうと、金の力で無理無体に押し破ることは、ヴェクタスの美学にも合わなかった。 だから、いろいろな心情が混じり誤解や思い込みなどはあったとしても、比較的フェアな状態で、リデアン・トライオスがその"取引"を承諾した。 そして以後、彼のほうから同じ"対価"を提案しつつ、“取引"に来ることが7、 「いや。8、9回か。あのリーパーとの戦いの前に、自分のために便宜をはかってくれと言ったのが8回目。そして、最後に彼のための艦隊とクルーを用意した。それが9回目だが、状況が状況だったのでね。“後払い"ということにした」 黙って耳を傾けるカエラにヴェクタスは、今日の夕刻、何故自分にここまでしてくれるのかと問われたとき、その"支払い"がまだだと答えたことを告げて、述懐を終えた。
そのせいで思い出してしまったのだ。 これまでは意識に上らなかったこと、性による"取引"のことを。 後払いなら、支払いがまだなら、これから支払わなければならない。 今までと同じ、性行為で。 だがそのことに今の彼は、本当の、本来の、本性の彼は、耐えられかったのだろう。 そうとしか考えられない。
記録を取ることもなく最後まで聞き終えたカエラは、 「アヴローンさん。今後のことにはまだ触れませんが、少なくとも今は、貴方は患者の傍にいるべきではありません」 「私もそう思う」 カエラの言うとおりだ。ヴェクタスの声や姿はその記憶に直結している。他人に軽く触れられるだけでも発症しかねないのに、虐待の本人ともなれば最高効率の引き金だ。 「当分は近寄らないようにしよう。それから」 「アヴローンさん。結論を急がないでください」 言い募りかけたのを、カエラにやんわりと、しかし強く阻まれた。
「たとえば、家庭内における虐待の場合、何よりも恐ろしい虐待者であった父が、それでも当人にとっては良き父であり、唯一の拠り所であるということもあります。こういうケースにおいては、父親を加害者として責め、断罪することで、被害者が更に傷付くことがあるのです」 加害者をただ敵として処理すればいいような、簡単な問題ではないのだと、カエラは言った。 「貴方がたのような場合も同じです。貴方を悪として遠ざけたところで、過去はいつまでたっても忌むべきものとして残り、どれだけ目を背け忘れようとも消えることはありません。ですがもし、“今"の相手を、心から悔やんで償おうとする相手を受け入れることができればーーー、非常に困難なことです。簡単ではありませんし、いつかはできるなどとは、決して言えない。それでももしそうできたなら、痛みは軽くなる。これは、私がこれまでに関わってきた、事実から申し上げています」
“これまで”。アサリのそれは、百年単位だ。 カエラの場合は医の道に入ってさえ200年。それ以前の人生まで含めれば、900年にもなる。 その、ヴェクタスが銀河中でもっとも有用だと判断した医師の言葉は、彼を静かに、しかし力強く納得させた。 「その可能性が、私たちにもある、と?」 ヴェクタスが尋ねる。 「ないと申し上げる理由がありません」 カエラが静かに答える。 「回りくどいが、正確なのだろうな、その表現が。では、私は今はいったん、“星"に戻る。離れるときも連絡はつくようにしておく。それでいいかね」 「結構です。必要であれば、経過のレポートをお送りしますが、どうなさいますか」 「……そうだな。見ておこう。もし仮に、二度と直接は関われないとしてもだ。彼の治療に必要な諸経費はすべて私が出す。ただ、私は商人だからな。事実確認なしには無理なんだ。……なりふり構わずなんでも、とはいかないのが、私の業か」 「いいえ。正しく治療が進んでいるかを確認したい、そのうえで、期待できる希望のために投資をしたい。そういうことでしょう。吝嗇ではありません。ーーーどうか貴方ご自身も、お気を強く持ち、困難に立ち向かってください。戦わねばならないのは、貴方もです、アヴローンさん」 そうだなと答えて、ヴェクタスは部屋を出た。