かそけき祈り 3

 ヴェクタス・アヴローンがこれまでの人生で受信し送信してきたメールや音声ログは、軽く万を越える。  57年の人生。本格的に商売、事業に取り組んでからでも30年。一年に300通で1万に迫る。そして、情報や人との関わりこそが要となるこの仕事で、一日に1通のやりとりしかしないなどということはありえない。波はあるとしても、平均で一日15~20通、30年なら20万になる。  だがそのどの時代でも、受信を知らせる音や光にこれほど恐れを感じたことはない。  億単位のクレジットが消し飛ぶ瀬戸際だったとしても、だ。そんなものはしょせんゲーム、勝負である。負けることもあるのは最初から織り込み済みで、覚悟の上でやっている。緊張はあるし、恐れもないわけではなくとも、今このときほどではない。

 届いたものが仕事関連のものならばどうでもいい。卒なく返事をするだけだ。  ただもしそれが、カエラ・シボーンからのものであったなら。  会って話をしてからまだ5日しか経ってない、何事もないはずだと思っても、もしもがよぎってしまう。  覚悟はしてあるので即座には開くが、毎回少し、手が冷える心地がする。

 以前のレポートでは、夜間に起こす発作について触れられていることもあった。事情が事情なので、医師たちも極力接触しないように配慮しており、だから、日中はいいのだ。だが夜になると夢の中で彼は何度も"あのとき"に引き戻される、と。  それが戦場の記憶と混じり合い、半狂乱になったこともあった。そのときには医師が一人、酷い怪我を負っている。いくら弱っていようと、リデアンの拳は凶器なのだ。それからしばらくは、かつて優れたコマンドーであったカエラ以外は近寄らないようにしたほどだ。

 だがそのカエラの根気強い対話と治療のおかげで、リデアンは自分の反応、過去、感情に少しずつ向き合い始めた。  それが簡単でなかったことも、レポートとして残っている。  もともと自制心が強く、軍人としていついかなる状況下であろうと冷静と沈着を貫き、苦難に耐え抜いてきた男だ。個人的な感情は、徹底して封じることは得意でも、表に出すということができない。  向き合おうとはする。実際に向き合っている。だがそこに生じる痛みや苦しみを、他人に開けない。ひたすら抑え込んでしまう。

 その手強いことに、カエラが治療方針を変えたのは2ヶ月ほど前のことだ。  開示ではなく、抑制の中での納得による受容。それでは抑制しきれなくなったときまた溢れ出してしまうのだが、 『心の蓋というものは、決して他人の手では開けられないのです』  と、臨床レポートとは思えない言葉で綴られていた、その言葉のとおりだろう。  ただしそのとき彼女は続けてこう書いていた。 『ですが私たちアサリであれば、不可能ではありません』  そして、そのことについて相談するため、一度来院してくれと言われた。  ヴェクタスはそのときのことを、2ヶ月が経った今でもよく覚えている。

 カエラは、200歳までの若い時代をコマンドーとして過ごした。そしてそこからの500年をジャスティカーとして生きた。アサリの指導者メイトリアークになるべく推されたが、それを蹴って医の道に進んだ。  徹底的に鍛えられたのは、戦う力だけではない。精神の力もだ。だから彼女は、リデアンに触れてもきっぱりと感応を断つことができる。そして、極めて繊細に相手の精神につながることもできた。 「本来の彼であれば決して開示へは進まないでしょう。ですが一時的に私と重なることで、私の精神のありようでもって、開示へと進ませることはできます」 「つまり……一時的に話す気になる、という解釈でいいのかな。貴方が話そうとするように」 「はい」

 そうすることでリデアンは救われるのだろうかと考えた。  ヴェクタスはヴェクタスであり、リデアンではない。彼と同じ意識は持てないし、思考も感性も違う。だが、900歳のアサリには及ばないまでも、何百という世界の大物たちと関わり、その欲望と姑息、敵意と追従、様々な感情の中を渡ってきたのだ。  リデアンが、どういう思考と心の持ち主なのか。  それを考えると、 「いや。やめておこう」  という答えになった。

 たとえ一時的に他人の力によって心を開いても、ああ楽になったと便乗することはない。ますます強く固く閉ざすようになるだろう。他人に知られたくないというよりは、自分の荷を他人に持たせたくないという理由で、だ。  それをまたカエラの力で解きほぐしても、 「それではもう"彼"ではない。貴方が開け閉めする人形のようだ」  嫌な言いようだと思ったが、カエラはまっすぐに頷いた。 「分かりました。閉ざしたいのであれば、それを患者自身として尊重する。それが貴方の意思でよろしいですね、アヴローンさん」 「ああ。時間は、かかってもいい」 「では、治療方針を変更いたします。ただそれに際して、今後はレポートだけではなく貴方と直接 情報共有する時間をいただきたいのです。お時間が取れるのであれば、少なくとも1サイクルに一度は」  コロニー・ユーリシアの1サイクルは10日。以来ヴェクタスは、お互いに時間の合うタイミングを選んでカエラのもとに通っている。

 リデアンの状態については、たとえ内容が同じであるとしても定期的にレポートを受け取り、直接カエラからも聞いている。  文書で残ればいつでも過去の記録を見返すことができるし、口頭でなければ伝えにくいこともある。  今届いたレポートには特別なことはなく、四日前に聞いた内容とほぼ変わらない。 『記憶と現実の識別は順調に進んでいる。フラッシュバック反応は未だ発生するものの、自己抑制が可能。会話回数も増加。経過は良好である』  ただ、レポートの末尾に、経過報告とは別に書かれている言葉があった。

『トライオスさんから貴方に、お話ししたいことがあるそうです。面会への懸念はありますが、そのことを彼自身も自覚しています。私が同席するという条件への了承もいただきました。貴方さえよろしければ、ご都合の良い日時をお知らせください』

 集中し考えるときの癖で手を組み、その手に口元を押し付けてじっと画面の文字を追う。  それからカレンダーを開き、スケジュールを確認した。  大きな話は入れていないし、どうでもいい話はすべて断った。ほとんどの仕事はメールや通話で済み、出掛ける用事がほとんどない。白紙のカレンダーなど、何十年ぶりかと思う。  よって、いつでもいい。 (……私に話したいこと、か。恨み言なら、分かりやすいのだが)  ヴェクタスは、カエラの予定に合わせると伝えるために、メールを返すことにした。


 先にカエラが入り、ヴェクタスの到着を告げる。それだけで何事か起こることはなかったようで、やがてカエラが顔を出し、入るようにと促した。  およそ半年ぶりだ。もとからこの病院にあったVIP用の特別室だが、こんなに広くて何もなかっただろうかと思う。そういえば、とヴェクタスは思い出す。最初はここに様々な生命維持のための機材も並んでいたのだ。それが少しずつ取り払われてからは、たしかにこうだった覚えもある。  清潔で、無音に近い室内。白い明かりに白い床や壁は、状態確認には都合がよくても、ひどく無機質で冷たくも見える。  ここのところずっと"星"の館で過ごしていたためだろう。なおのことそう感じる。

 リデアンは、ひどく痩せて窶れていた。  生死の境にあったときですら、もう少し肉体の芯のようなものがあったように思う。 「そっちに行っても、大丈夫か?」  尋ねると、頷かれた。  一歩、二歩。大きな反応はない。  こちらに漠然と向けられている顔も目も動かない。少し俯いて首をかしげるようになるのは、“聞く"ためだろう。これもしばらくの間はこの目にしていたはずなのに、まるで今初めて見たかのようにやけに胸に刺さる。

 ある意味では、初めて見るのだろうとヴェクタスは理解する。  あの夜を境にして、自分と彼との関係はいったん完全に破壊され、変化したのだ。  最悪の加害者であるという自覚もなく接していた自分と、そんな相手をなんとも思わず近くに置いていたリデアン。今思えばタチの悪い冗談のようだ。  だから、手の届く範囲に入る前に念の為、もう一度立ち止まった。  と、 「そんなに慎重な貴方は、初めてですね」  と、疲れた吐息のような声ではあったが、微かな笑いを含んでリデアンが言った。

 少しだけ距離をとって置かれた椅子に座る。  カエラは逆サイドに静かに佇んでいる。 「私に話があるそうだな」  残念ながらここで、ふざけたことしやがってと殴られる展開は、想像できない。  それどころかなんとなく分かっていたとおりに、リデアンは、 「助けてくださったことに、感謝します」  と口にした。

 声は掠れていたが、明瞭だった。そしてどこか僅かに非難のような、小さなトゲがあった。  ヴェクタスは「ああ」とも言わずに黙る。たしかに命は救った。だが感謝されるようなことではないのだと、謝辞を聞かされてはっきりと分かった。 「私が勝手にしたことだ。礼を言われる理由はないよ」  これはヴェクタスの勝手な行動なのだ。そして、 「……何故、助けたのですか」  リデアンが言う言葉は、疑問というより、弾劾に聞こえた。 「何故こんなことを。発見されたとき私は、“ほぼ死んでいた"と聞いています。それを何故。私に、なんの価値があるのですか」  言葉が早くなり、語気が強くなる。それでも囁き声のようでしかなかったが、 「助ける意味は、なかったたずです。こんな、……役に立たないものを」

 戦いの? (それとも、”私の”)

 リデアンは最初に礼を言ったが、本心は逆だ。  “死んでいたほうが良かった”。  それを無理やり生かされて、知りたくもないものを突きつけられて。  勝手というより、我が儘だ。  しかも「何故」と問われて、言える言葉がない。  実際、ないからだ。  なにかを考えて助けたわけではなかった。ましてや、彼が言うのが"対価としての体"のことなら、そんなことのために助けたわけでは絶対にない。そんなことは考えもしなかった。ただ助けたかった。 (なんのために)  ヴェクタス自身にも分からない。

 だが、問われて考えて今、伝えたい言葉は見つかった。 「……役に立つ、あるいは立たない。そんなことを考えて決めたことじゃない。理由は、私にもよく分からない。ただ、もし価値と言うなら、価値は、意味はある。生き直すためだ」 「生き直す……?」 「君はこれまでの人生をすべて、戦うために生きてきた。しかも自分ではないもののために。私との"取引"もそうだ。名声でも富でもなんでもいい。何か一つでも君は、自分のために戦ったのか? 戦って、手に入れたものがあるのか?」

 ヴェクタスも利権と金の世界で戦ってきた。自分のためだ。自分の楽しみのためだ。  だがリデアンは違う。 「私は君のことをよく知っているわけじゃない。記録や情報を調べれば分かること以外には、私のところを訪れた君の、ほしいと言ったものを知っているだけだ。だがそのどれ一つとして、君自身のためのものはなかった」  3000人の命を救うための港。危地にある味方の救援。自殺行為に等しい任務に連れ込まれる部下を救うための方策。いつもそうだった。  自分自身の強化や補助を望んだのも、結局は誰か、何かを救う力を得るためだ。 「その結果 階級が上がり栄誉と名声は得ただろう。だが、私が断った”取引”のことを覚えているか? 君は自分の名と功を消してくれと言った」  英雄にはなりたくない。思惑が絡んで動くに動けなくなっていく。一人の兵士に戻りたい。  それもまた理由は誰かを救うため、戦うため。 「いくら私でも、総統府にも世界にも、そこまでの力は持たない。誰にも知られず消えたいというならば簡単でも、そのうえでまだ戦いたいなどというのは無理だ。君に頼まれて断った、唯一の依頼だ」

 語りながら、ほとばしりそうな激情を抑え込む。  問われて今、答えながら見つけたことだ。気付いたことだ。だが確かだとヴェクタスは思う。 「君に、価値はある。人のために戦い続けてきた君に、報われる価値がないわけがない」  だが、戦いに生きた男には、穏やかで静かな暮らしなど、かえって苦痛なのだろうか。だとしたらやはり、生きながらえたのはただ苦しむためになるのだろうか。 「ーーーもちろん、君が選ぶことだ。私にその選択を阻む権利はない。そしてもし君が選ぶなら、私はその選択に手を貸すよ。望みがたとえ、“死"であっても」

 長い沈黙が落ちた。  カエラも黙っている。  その沈黙が続くほどリデアンには重荷になりそうで、彼のいくらか苦しげな顔を見て、ヴェクタスは空気を断ち切り話を終えることにした。 「迷うなら、迷っている間だけでも、生きてみてくれ。その間も私にできることであれば手を貸す。対価はいらない。もちろん後払いの約束も反故だ。タダほど高いものはないとも言うが、心配しなくていい。そもそも私は君に、莫大な"負債"があるんだから」  その言葉にリデアンは一度大きく反応したが、取り乱すことはなかった。