かそけき祈り 4
【リデアン】
なまあたたかい男の手が、肩を包む。 その感触に嫌悪を覚えても、逃げるわけにはいかないと我慢した。 体を寝台へと押し付けられ、大きな影がかぶさってくる。 動いた手が脚の間に入り込んで性器のあたりを撫で回し、そのまま下へと伝いーーー。
嫌だと訴えてもそれは声にも言葉にもならず、逃れようとすると殴られる。 (違う。これは、今じゃない。今、起こってることじゃない) リデアンはそう自分に言い聞かせる。だが体をまさぐる感触と痛みの再現が止まらない。 取引。契約。対価。代償。約束。払わなければならない。彼に。 入ってくる。触れていたものが中へ、奥へ。 (嫌……嫌だ……やめて……やめてくれ……) 何度も何度も。何度も何度も。 打ち付けられ、突き上げられる。 手が首へとかかり、強く締め付けてくる。息が詰まる。苦しくてもがき、大きな手に自分の手をかけると、また殴りつけられる。右から、左から。 体中が痛い。締められた首、殴られた頭、そして、押し割られえぐられる下半身。 (痛い……違う……違う、これは、今じゃない……痛……やめて……)
だがそんな自分を、冷たく見ているのも自分だ。 (自分で選んだくせに) 安い対価だと思ったから支払っておいて、なにを今更。
そこで、首筋に小さいが鋭い痛みが走って、世界が、意識が、急速に遠ざかった。 ひどい息苦しさと、喉と胸の焼けつくような痛み。口をなにかで覆われて呼吸が抑えられている。 (また……) フラッシュバックと、今回は過呼吸。リデアンはようやく現実の、冷たい空気に中に引き戻された。 薬液の匂いと、電子のノイズ。ゆっくりと寝台へと押さえ戻してくれる、カエラの柔らかくしなやかだが力強い腕を感じる。 彼女の腕は、間違いようがない。だから恐れを覚えない。
暴れなかっただろうか。また誰かを傷つけていないだろうか。 「す、ま……せ……」 患者が医者に謝ることはないとは言われているが、ひどい厄介をかけているのは事実だ。 「大丈夫です。今は、ゆっくり休みましょう」 少し多めに薬を投与したので、目覚めると倦怠感と頭痛があると思う。だがそのまま休んでいればおさまる。カエラの説明を聞いて頷くと同時に、リデアンは深い喪失の底へと落ちていった。
【カエラ】
900年。それは、アサリという種にとっても決して短い時間ではない。 その長い時間を生きたカエラ・シボーンですら、 (いったい、どんな生を辿ればこうなるのか) と思う。 リデアン・トライオスは、彼女の長い人生の中ですら、類を見ない男だった。
心を病んだ患者の治療に必要なこととして、彼の公的な"事実"の記録は手に入れた。一般的に請求できるものの他、ヴェクタスの権力で手に入るものも閲覧した。 その戦歴を見ると、カエラですら彼とは戦いたくないと思う。 若い頃はまだ常識の範疇にある。アーヴィス・リッジの戦いなどは、まさに英雄的な華々しい功績だろう。以後もいくつか、彼の指揮によって不可能が可能になった出来事が記されている。 だが彼がリーパー、当時はそうと知られてはいなかったが、それと接触して以降、本当に人のしたことかと思うようなものが顕れてくる。本来ならば20人から30人の小隊で受け持つような戦闘を、たった一人でやり遂げるのだ。 しかもその行動内容は多岐に渡り、戦闘兵として、指揮官として、エンジニアとして、パイロットとして、医師として、修理工として、爆発物のエキスパートとして……果たした役割が膨大だ。
能力だけではない。リデアン・トライオスはすさまじく強靭な精神と自責的な思考をしており、傷つき弱っていてさえなお、己の力だけで立とうとする。それができないことを責めとする。 もちろんそういったタイプの者はいる。いるが、労れば、優しくすれば、もういいのだと伝えてやれば、医者にくらい我が儘を言い、甘えを許すものだ。 ヴェクタスはカエラを「牧師にもなれそうだ」と評したが、カエラは自らの役割を、そうでもあると考えている。体を癒やすだけでは足りない。心をも癒やそうとするならば、必要な在り方だと。 そのために銀河各地の宗教を学び、許しとは、癒やしとは、救いとはなにかを考えてきた。そしてそれぞれの種族の者たちの、なにより目の前にいる患者の心理について、理解しようと努めてきた。 今ではほとんどすべての者がカエラには心を開くようになった。能力を使うまでもなく、言葉と献身に応えて、傷ついた体と心を任せてくれるようになった。 その助けにすら一線を引くリデアンは、驚異であり、手に負えない厄介な患者であり、あまりにも危うく思えた。
一人であらゆることができてしまうから、他者が必要ではなかったのかもしれないと、カエラは思う。 だから一人で立ち続け、戦い続け、それは傷ついた今ですら変わらない。 他者を助けるが、他者から助けられることは求めない。 すべきことを成すための協力は得たとしても、リデアン・トライオス個人を助けるような行いは不要である、と。
だから彼は、カエラに感謝はしても、心は開かない。 溢れ出す痛みを見せてしまうからこそ、それ以上の何かをカエラたち医師にもたらそうとはしない。 自分のことはすべて自分で。 分かる。その気持は分かるが、今は、一人で耐えられる状態ではないのだ。 壊れてしまう。 抱えて耐えて抑え込んで、心も壊れるが、体も壊れる。発作を起こすたびに極度の緊張状態になり、時には衰弱や損傷を忘れたような反射行動をし、壊れていく。
厄介な患者だが、カエラが覚えるのは無力感と悔しさだ。どれだけ面倒でも厄介でも迷惑でも、助けられるならそれでいい。回復してくれるならそれでいい。 カエラはどうにかしてリデアン・トライオスを救いたいと思う。 そのためにヴェクタス・アヴローンは、制限を持たない支援者として完璧だった。 彼の財力・権力は、世の中にある一般的な不可能を無効化する。それを惜しみもなく注ぎ込んでくる。カエラの招聘からしてその一つだ。もともとこのコロニー・ユーリシアは彼の私物だが、中継点であり芸術・学術都市であったものを、最先端の医療と技術の集約点に作り変えた。 だが彼は、今のリデアン・トライオスにとっては悪夢そのものだった。
そして、だからこそカエラは、ヴェクタスの存在が鍵になるようにも考えている。 彼だけが現状、リデアンのその鋼の意志を破壊しているのだ。たとえ記憶の中のことであったとしても、ヴェクタス・アヴローンに対してリデアンは、怯えるしかできない。 その弱さを、 (どうにか、解放してやれればいいのだが) 弱くてもいいのだと、誰かに助けを求めてもいいのだと。 だがそのためにヴェクタスに直接関わらせるというのは、決してできない相談である。壊したいのは患者当人ではなく、あくまでも彼が持つ鋼の自制、他者の助けを拒む頑なさだけなのだ。
カエラはようやく深く寝入ったらしいリデアン・トライオスの傍らで、これからの治療計画を再考する。 ヴェクタス・アヴローンが鍵であるとしても、どう使えばいいのか。 リデアン・トライオスがこうなる前までの態度も、多少尊大ではあったとしても誠実で、真剣だった。 そして今の彼は深く悔やんでいる。償うためにできることならばなんでもするだろう。現に支援は天井知らずだ。 莫大な資産を持つ銀河の大商人が、何もかもを後回しにただリデアンの回復を願っている。 差し伸べられる手は"過去"という汚れに覆われていても、それそのものは最早、どこまでも純粋な善意なのだ。
(善意……ではないな) そんな生易しいものではない。 献身。我が身を後にするほどの。 (それが過去では、あれほどの暴君とは……) と、思ったところでカエラの脳裏に鋭い光が走った。
リデアン・トライオスが見せるのは、かつての彼の心はそうであった、という恐怖だ。 仕草や反応、そしてその最中の脳波、神経反応からすると、性的暴行というだけでなく、もっと直接的な暴力もあったように見える。 だがヴェクタス・アヴローンが語った内容、その記憶によると、彼は性的搾取については率直に認めたが、それ以上の暴行を加えたとは告白していない。 たしかそのはずだと、カエラは治療ログを呼び出し遡った。
20年ほど前、ヴェクタスは自分のもとへ助力を求めてきた青年に、その対価として性交渉を求めた。 だが選択の権利は相手に与えた。断りがたい背景はあったとしても、リデアンは自分の意思で承諾している。 そしてその後、ヴェクタスのほうから誘ったり命じたりしたことは一度もなく、交渉が発生するのはあくまでもリデアン側からの要求に応じてだった。 ヴェクタスの話から生まれる引っ掛かりは二つだ。 一つめは、彼は語らなかっただけで、嗜虐的な性嗜好を持ち、行為には暴力も含まれるのだろうか? という疑問。 そして二つめは、もしそうであり、都度の性交渉に殴打といった暴行までが含まれていたなら、それをもリデアンは分かっていて訪れたことになる、という点だ。
(……違う。真剣に治療を望む以上、自分にそういった性嗜好があれば告白したはずだ。彼ほどの理性と知性がありながら、これは無関係だろうと考えることはない) 少なくとも彼等の関係に、過度の暴力はなかったはずだとカエラは思う。 であれば、リデアンのあの反応は、 (過去ではない。記憶でもない。ーーー幻覚だ) 恐怖が暴走し、肥大し、拡大して生まれた、偽りの記憶である。 一度狂乱状態になり、攻撃に等しい拒絶を示したときには、殺意があった。同時にそれは、カエラが見るかぎり、殺される寸前の反撃のようで、戦場の記憶が混じっているのだと判断した。それと同じだ。あの有り様は、他で与えられた暴力がヴェクタスの行為に混入して生まれた、”本当はなかったこと”なのだ。
トゥーリアンの軍において上官の体罰は日常的だ。無意味なそれらは罪であっても、違反や失敗への罰としては当然のものとして受け入れられている。若いというより幼い頃から軍の中で生きてきたリデアン・トライオスであれば、その洗礼は受けてきただろう。 (過去でも記憶でもなく、幻覚であるということ。まずはどうにかしてそれを自覚させるしかない。そのためには、やはりどうしてもアヴローンさんについて触れるしかないが……) 本来の記憶、本来の過去のヴェクタス・アヴローンと、幻覚の中の暴君が切り離されれば、そして、そんな暴君は実際には存在しなかったのだと思い出せれば、リデアン・トライオスの状態は確実に前に進む。その期待と希望が持てる。 もう深夜を過ぎていたが、カエラ・シボーンは開いたままのデータパッドに、今後の方針についての草案を打ち込み始めた。
【リデアン】
時々囚われるものは、過去でもなく記憶でもなく幻覚である。 その事実に気付いてからリデアンは、それまでよりも少しだけ明瞭な現実の中にいた。 過去を思い出すことにもブロックがかかっていた脳が、やっと記憶を読み出すようになった。 ヴェクタスが求めたのは性交渉だけで、その内容は、……ノーマルなのかアブノーマルなのかまではリデアンには判断ができない。だが少なくとも、相手を殴って快感を覚えるようなものではなかった。 思い出すと嫌な悪寒が背中から首筋に蘇るのだが、それはどうにか無視し、追い払う。
カエラは、 「今の貴方が認められるかどうかは分かりませんが」 と前置きしたうえで、過去のヴェクタス・アヴローンがどうであれ、今の彼はリデアンにもたらした苦痛と傷を後悔し、償おうとしている、と伝えた。 「許されたいからではないでしょう。貴方が許さないとしても、彼は貴方のためにできることをやめたりはしない。私はそう思います」 そうなのだろうか、とリデアンは思う。 よく分からない。
ヴェクタス・アヴローンは、ほしいものはなんでも買える男だ。 すべてをとは言わないが多くのものを支配し、頂点に君臨していた。 そんな男に自分は、たしかに気に入られていた。必要である以外には誰も立ち入ることができない彼の"星"、このすぐ近くにあるあの星に、入ることを許されるほどにだ。 だが惜しむ理由はない。あの館にある多くのものを、彼は飽きて捨て、取り替えてきた。壊れれば、愛惜を楽しんだ後は忘れた。そういった片鱗は、ほしいものがあったときだけ会っていた当時にも見たし、ふた月ばかり共に過ごしたあのときに、もっと如実に見て取れた。 長期的な打算を得意としながらも、刹那的な享楽主義者。 分からなかったのは、そんな男が長い間自分に歓心を持っている理由でーーーしかしそれも、壊れたならそこまでと諦めればよかったのではないか。
カエラの言葉を聞いて以来、覚醒している間はそれがいつも漠然と気になった。 “あのこと"が露呈した今なら、償うために奉仕するというのも分かる。 だがヴェクタスはそれより前から自分を助けようとしてきた。医学的には死亡しているとしか言えない、ただリーパーによりもたらされた補助機能が勝手に修復し維持しようとしていただけの肉塊を、何故彼は戻そうとしたのだろうか。 広い病室、一流の医師、機材、未だ謎の多いリーパーの研究とその技術の解明……技術の一端であれ理解すること。治療というより蘇生のために費やした金は莫大だろう。 取り戻そうするのが"元の自分"であれば、分からないでもないとリデアンは思う。五体満足で、ヴェクタスが"美しい"と評した自分であれば、また愛玩したいのだろうと。 だが現実は、壊れかけの肉塊だ。しかも元の形には戻らない。
(こんなもの……もう抱く気にもならないだろうに) 右の腕がない。脚もない。体の右側は人工骨や補助フレームで作られており、おそらくだが、保護衣をはずせば骨や内臓が見える部分もあるはずだ。どう補ったところで接続部は肉と人造パーツの継ぎ合わせで、醜く歪み引き攣れている。リデアンにはいくらでも思い出せる。戦傷者の姿は山ほど見てきた。 いびつで醜い肉塊が、ヴェクタス・アヴローンの審美眼に適うわけがない。
そのうえ、今のリデアンにとって生きるというのは、人としてではなく物としてのように思えてならなかった。 何も食べていない。食べる代わりに腹の中へ、あるいは血管の中へ、摂るべきものが直接流し込まれる。まともに機能しなくなっている自律神経の調整のためだとか、過剰に発生し蓄積する体内電位の低減のためだとか、何かしらを接続されたり繋げられて機械の一部となる。食べていなくても消化しきれない老廃物は出るようで、それを出すのも人の手だ。腹の中に手を入れられ、鈍い銀色のパックを交換される。そして、ベッド脇にある機器の一つは透析装置で、毎日数時間はそれに繋がって過ごす。 この体は、もうまともに機能していない。形だけでなく、壊れている。
(何故……) そう思うと、胸の奥からじんわりと、悲しいようななにかが湧いてくる。 こんな体で生きて、何をすればいいのだろうか。 何もできないのに、何をすればいいのだろうか。 ただ生かされるだけか。 ただこうして横たわり、息をしているだけなのか。 そんな自分に、価値はない。
(私は、死にたいのか) 自問するが、それもよく分からない。 何かを"したい"と望むような熱意がない。 たとえそれが死であってもだ。 ただ、今から死ぬのだと言われれば、ああそうかとほっとしそうには思えた。
だがそれは、生かすことを選んだヴェクタスと、それを生業とする医師たちが許すはずもないことだ。 ならばせめて、知りたかった。 ヴェクタス・アヴローンが何を考えて自分を生かしたのか。 理由が分かったなら、それを自分の理由にもすればいい。それがなんであれーーーたとえこの肉塊と交わりたいのであれ、逆らうほどの気もないし、力もない。役にも立たない塊の、最後の使い道としてはまだしも上等なほうではないだろうか。
リデアンはカエラに、ヴェクタスと話がしたいと伝えた。
椅子を立つ音がし、足音が遠ざかる。ドアが開いて、閉まる音。 ヴェクタス・アヴローンは、出ていった。 「疲れていませんか」 カエラが落ち着いた声音で問いかけるのに、リデアンは少し迷ってから頷いた。 なんともない。何もない。なんでもない。だが腕のあたりにぞわぞわと、嫌なものの気配がある。 ヴェクタスが"負債"と言った瞬間に生まれたものだ。“取引"のことを言われてもこうはならなかったのに何故、と考えるが、分からない。 だがそれは、すぐに薄れて消えた。
(あんな人だったか) とリデアンは思い出す。 傲慢で、尊大で、いつでも支配的で、何もかもをコントロールし自分の意に従わせようとする。だがそれを紳士的な態度やユーモア、魅力的な笑みに包み和らげて、相手に見せるための手札に変える。 リデアンに接するときも、支援の手段を持つ者、乞われて応える側として、いつも鷹揚だった。 だが今は、一歩近づくのでさえ慎重で、そして、 (切実……だった) と思う。価値はあると、君は報われてもいいと言い募った声音は、真剣というより切実だった。
それでいて、何故そこまで切実になるのかを、彼は自分でも分からないと言う。 リデアンにはまったく理解できない。だが、生きているのは無駄だという思いは、消えていた。 生きていたいとか、生きてみようという理由を見つけたわけではない。 ただ、「彼が自分を生かした理由を、そのまま自分が生きる理由にもしようと思っていた」。だから、価値はある、生き直せという言葉が、少しだけ沁みたのかもしれない。
(私の、価値) 助けてきた命の対価としてならば、生きてもいいのだろうか?
「休みましょう。体を起こしているだけでも、本当はつらいはずです」 カエラの手がそっと左肩に触れ、問いかけるような間をとってから、首に触れる。 「少し熱が上がっていますね。このまま様子を見て、引かないようなら解熱剤を投与します」 横になると、途端に体が重く沈んでいくのが分かる。 頭の痛みと重みがそのまま眠り、あるいは喪失へと落ちていきそうになるのを、リデアンは少しだけ抑えてカエラに尋ねた。 「先生は彼を、ヴェクタスを、どう思いますか」 と。
カエラはほとんど迷わず答えた。 「“今"の彼は誠実で、真剣です。心から貴方を救いたいと願っている。私にはそう聞こえました」 「そう……ですか……」 カエラが言うのであれば、そうなのだろう。 であれば、少しくらいは救われてもいいのだろうか。 安心や希望ではなく、何故か悲しい。その悲しみに沈められるように、リデアンは静かな眠りについた。