かそけき祈り 5

 ヴェクタスがリデアンの前に姿を見せたのは、カエラの立ち会いのもと、ごく短い面会だった。  その様子を観察したカエラは、リデアンとヴェクタス双方に、今後も面会の時間をもうけてはどうかと提案した。  ヴェクタスが1サイクルに一度、カエラのもとへと状況確認に来るそのときに、 「話題がなければ無理に話すことはありません。調子はどうか、といった言葉を一言二言かわすだけでもいいのです」  “安全"な距離の中で、挨拶のような言葉だけをかわして去る。まずはそれだけでいい。  そうすることでまぎれもない今を、現実を、実在のヴェクタス・アヴローンを知覚し、認識する。 「それによって、“捏造された幻影"と"過去の事実"を別物として切り分けましょう」  ヴェクタスが若いリデアンに、ある程度の強制力を持って行為を求めたことは事実である。だとしてもそれは、過度な暴力を伴うものではなかった、というのもまた事実だ。  リデアンがそれをしっかりと認識すれば、彼の強固な意志のもとで、フラッシュバック反応も制御ができるようになるだろう、というのがカエラの見解だった。

 事実それからも時折、悪夢は発生した。だが覚醒さえしてしまえば、リデアンは早い段階で自我を取り戻し、「これは実際にはなかったことであり、自身の恐怖の投影である」という事実によって落ち着くことができた。  おぞましいイメージには違いない。あたかも記憶のようでもある。だが、これはあくまでも脳内再生される幻覚だとして、事実ではないとして処理できるようになった。  根本的な解決にはまだ至っていないとしても、この頑固すぎる患者にとっては有益な前進と言えた。

 やがてリデアンは、ヴェクタスが訪れても緊張しなくなった。  初期には反射的に身構えていたのが、何事も起こらない、いつものことだと受け入れられたということだ。  それからは、距離を保っていてもできること、そして、見ることができず自力ではほとんど動くこともできないリデアンのためにできることとして、ヴェクタスが本を読み聞かせる時間をとることにした。  最初はただ聞くだけだった。5分から10分程度の短い時間だ。ただ聞く。ただ読み上げる。感想も何もない。  だがやがて、 「ヴェクタス。もう少しだけ読んでもらえますか」  とリデアンが言った。  内容として続きが気になるような箇所ではなかったが、 「ああ、もちろんだ」  とヴェクタスは先を読んだ。

 合わせて、無機的な病室には、ヴェクタスが用意したいくらかの装飾や調度が、邪魔にならないように設置されるようになった。  寝台の周りは汚れることもあるので、清掃しやすく滑りにくいビニール質のタイルだが、戸口や窓際には敷物を入れた。カーテンも少し色味のあるものに取り替えた。壁には風景画。棚の上には花。  ヴェクタスが使う椅子は、“病院にある椅子としては高品質"なものではなく、座り心地のいいものにした。そこに腰掛けてしばらく本を読む以上、リラックスしたかったのだ。  それから、読書の時間中、リデアンはベッドの背面を起こしてもたれるのだが、そのとき背に挟むための柔らかなクッションも用意した。

 距離はある。手を伸ばしても届かない。だが、それでいい。声が届けばいい。  カエラは大抵の場合同席している。時折は他の医師や看護師が朗読中に訪れることもある。彼等がヴェクタスの声に感心し、時にからかう声もまた、ほのかに病室を彩った。 「こういったものは通常、訓練が必要なのですが」  とカエラが真顔で言う。  朗読というのは、ただ読み上げればいいものではないのだ。適切に区切り、抑揚をつけ、明瞭に発声しなければならない。  そのためには、「この部分で書かれている内容と意味は何であるか」を知っている必要もある。ヴェクタスは、読む本には事前に目を通す。それはただ巧く読むためだけでもない。内容がリデアンにとって強い刺激になってはならないのだ。

 ただ、ヴェクタスが面白いと思ったもののほうが、聞き手にも興味深く伝わるらしい。  クォリアンがまだ星を追われていなかった時代に書かれた古典小説、『海の柱』。他種族では共感しにくい彼等ならではの表現と、種族にとらわれない豊かな情景描写が入り混じり、幻惑感、そして色彩を感じさせる作品だ。 「……結局、何が言いたいのか、意味はよく分かりません」  四回に分けて読み、ようやく完結したところでリデアンが呟いた。発声にも体力を使うため、声はいつも吐息めいてかすれ気味だ。だがその感想には僅かに笑いの気配があった。 「私にも分からないよ。だがリズムはいい。たまたまだろうが、トゥーリアン標準語にしたとき、音律と音韻が揃いやすいようだ。実は少し、私が勝手にアレンジしている」 「なるほど。道理で、馴染むと思いました」

 少しずつ、言葉が増える。会話が生まれる。そして僅かに、対話へと発展する。  二人にとって繊細な領域には踏み込まないようにしつつも、 「こういう時間も、悪くはありません」  ヴェクタスの語った、“生き直す"ということ。それをリデアンは少しだけ受け入れたようだった。 「ゆっくりでいい。無理もしなくていい。ただ、そうだな。こんなふうに本を読んだり、音楽を聞いたり、そういう時間も無意味じゃないと、そう思ってくれたならそれでいい。ーーーさて、次はどうするかな」  リデアン本人は、教養としては幅広く古今の文学を知っているが、それを物語や小説として楽しんだことはない。”概要を記憶している”、“内容を把握している”、という有り様だ。それを察して以来、読む本はヴェクタスが選んでいる。 「詩もいいな。懇意にしている老人に教わった詩集がある。ヒューマンの古典でね。情景の浮かぶ美しいものだ。私も気に入っている」 「貴方の眼鏡に適ったのであれば、聞いてみたいですね」 「では、用意しておこう」


 それじゃあ私は帰るよ。無理はしないようにな。ヴェクタスはそんな言葉を締めに立ち上がり、手回りのものをバッグにしまう。  彼が名残惜しそうに、気掛かりそうに振り返るのはほとんどいつものことだ。「後は頼む」とカエラに伝えるためでもあるだろう。それに、初期はほぼ無反応でいたリデアンだが、やがて頷いたり、そして見送るように顔を動かすようになった。ヴェクタスが出ていった後でも、しばらくドアのほうを向いているのは今日が初めてかもしれない。  良い兆候だとカエラは思う。  断裂した関係は、少しずつ再構築されている。  慎重に距離を取り、手探りはしていても、無理をしている気配もない。  であればと、 「私も失礼します。今日は少し長めでしたから、よく休んでください」  ベッドの傾斜を戻しつつリデアンの体勢を整えてやり、カエラは枕元を離れヴェクタスを追った。

 かつて見かけた"セリオの王"は、軽やかでまっすぐだが強い歩調で颯爽と歩いていた。だが今は、病院内であることを考慮する以上にゆっくりと、考えるように歩んでいる。おかげでカエラは少し足早になるだけで追いつけた。 「アヴローンさん」  そろそろ次の段階の話をすべきだ。カエラはヴェクタスをいつもの談話室へと誘った。

「次の段階、とは?」 「今後のことです。いかなる患者であっても、生涯を病院内で送るのは望ましくありません。そうする他にないのでないかぎり、日常の生活へと戻るべきでしょう」  回復の兆しが明確になった今、カエラが考えておきたいのはその点だった。  彼女は手早くリデアンの情報をデータパッドに読み出し、記憶が正しいことを確認する。 「トライオスさんにはご実父がおられますね。ですが貴方のお話では、彼にはご子息を養護する意思がまったくない。そうですね?」  他人であるヴェクタスがリデアンの後見人となっている理由がそれなのだ。ヴェクタス・アヴローンにどんな権利があって、他人の生死を左右できるのか。その問いへの答えとして、カエラは治療初期に事情を知らされている。  ヴェクタスは、そうなった経緯を思い出したのか、明らかに剣呑な気配になる。 「ああ」  答える声はいつにも増して低い。

「であれば、権利を持つ貴方は、どうお考えですか」  カエラが問う。ヴェクタスは、それはもっと先のことだとして考えてはいなかったのだろう。軽く片手を口に当て、視線を落とした。考えたのはほんの数秒のことで、 「彼の望むようにするだけだ」  と答えた。

 なるほどこの人らしいとカエラは納得する。ヴェクタス・アヴローンの資力があれば、現実に実行可能なことであればほぼ実現する。 「具体的には、理想的な療養施設に入れる、あるいは、そういう住まいを提供する、といったことになるでしょうか」 「そうだな。今はそういったことを考えられないだろうが……、もし"先"を考えるようになったとすれば、そのあたりが現実的だろう。彼が望む場所、落ち着ける場所を、見つけるか作る。そこに優秀なスタッフを付け、サポートさせる。さすがに、一人で暮らしたいというのは無理だろうしな」  静かな場所がいいと言えば、家どころかあたり一帯の土地を買い占めることさえ簡単にやってのけるだろう。そもそもこの男は星を一つ私有化しているし、このコロニーさえ彼の私物なのだ。  どんな場所でも、どんな家でも、どんな設備とスタッフでも用意するだろう。  だがーーー。

「貴方のおっしゃることは極めて妥当ですが、実は私としては」  カエラにはもう一つ、案が浮かんでいた。 「貴方のあの"星"で過ごすことを検討していただきたいのです」

 ヴェクタス・アヴローンを絶句させた者が、この世に何人いるだろうか。  だが今彼は、カエラの言葉に目を見開き、トゥーリアンならではの強い驚きを示して、左右の頬殻を大きく開いて閉じた。  口が微かに動くが、言葉は聞こえない。やがて、 「なにを、馬鹿なことを」  と喉に絡んだような声で言われた。  カエラははっきりと首を横に振る。そして、ここのところ観察していて気付いたことを伝えた。

「第一に、トライオスさんは回復に伴って、電子機器の干渉を受けやすくなってきています」  リデアンの意思の内にありつつも時に独自に機能する"リーパー部分"が、周囲のそれらを受信するのか、それとも探ろうとするのか。その点は不明だが、ノイズのようなものに悩まされているらしい。僅かに言葉として伝えられたこともあるし、リデアンは時折、なにかを払おうとするように首を振ることがある。 「貴方が持ち込んだいくらかの品ですが、それが電位を吸収するためでしょう。一時期は少し落ち着いたように見受けられました。ですが、ここのところまた兆候が出ています。回復に伴って感応範囲や強度が鋭くなっていると思われます。脳波や心電、電位測定の結果もそれを裏付けています」  ヴェクタスは微かに開いたままだった口を閉じるとともに、手を組みそこに額を付ける。回復すればしたでまた別の問題か、とでも言っているようだった。

「この問題だけであれば、遮蔽を用意するにせよ、広い範囲を私有地とするにせよ、貴方には簡単に解決できるでしょう。より重要なのは、二つ目の理由です」  それは、リデアンが未だに他者に対して警戒的である、ということだった。  カエラのことは医師として信頼している。アサリに厳密な性別はないが、女性性を印象付けるのも一助となっているだろう。だがそれ以外の医師、看護師に対しては、 「医師であるから、信頼しようとはする。けれど内心では反射的に警戒し、緊張する。そういった状態です」 「ああ。それはなんとなく感じていた。貴方に対するほどには安心していないというか、よそよそしいというか……」 「では、貴方に対しては、いかがですか?」  主観は客観を狂わせる。それはヴェクタス・アヴローンであっても逃れがたい罠らしい。彼は答えられなかった。

 加害者であると分かった私が、彼に本当に許されることはない。適切な距離までであれば近付いても構わなくなったとしても、それ以上は二度と踏み込んではいけない。  ヴェクタスはそう己を縛ったのだろう。それが彼の絶対の主観になった。  だがカエラは第三者だった。看護師たちに対する距離と同じように、ヴェクタスへの距離も見ていた。  それは、不思議な距離感だった。

 今は、たしかに警戒もしているし緊張もする。  だがそれは、看護師たちを反射的に遠ざけようとするのとは、少し違うのだ。  戸惑いがある。  どうすればいいものかと、迷うような気配が伴う。  カエラにも不思議だった。

「私が見るかぎり、そして率直に申し上げるなら、トライオスさんは"何故か"貴方を強く拒絶しません」  現実と幻影の区別を明瞭にするため、繰り返し会っている。それは成功したとカエラは考えている。だが、切り分けたところで現実のヴェクタスも加害者なのだ。幻影ほど残酷でないというだけである。  また、ヴェクタスの語った"生き直す"ということを受け入れつつあるのも、良い兆候だ。だが、必要なのはその言葉、考え方だけでいい。発言者のことは受け入れなくてもいい。 「救われたことを"借り"と考えることはあるでしょう。だとしても、です。そのために面と向かって拒絶できないのだとしても、内心では貴方を拒んでもいいはずです。私以外の医師に対するような、警戒を見せてもいい……むしろ、見せないことが不思議なのです。“何故か”、彼は貴方を遠ざけない。ーーー私にもよく分かりません。ただ私には、彼は貴方を受け入れたいように見えます」

 話の途中から、ヴェクタスは組み合わせた手に口元を押し付け、目を閉じていた。  カエラの言葉を聞き終えた後も、そうしていた。  やがてそのままの姿勢でヴェクタスが細く長く、息を吐き、言った。 「私にも、分からないな。そんなことがあるものかと言わないのは、そうであったらいいと思うからだ。許されることはなくても、もう一度傍に行き、手を貸したい。自分のしたことを棚に上げて、勝手なものだが。……本心ではそう望んでいる」  ゆっくりと一つ瞬く灰色の目は、まっすぐにデスクの一点を見つめていた。。

 この会話を経て、カエラはまた一つの決断をした。  慎重は要するが、それはタイミングをはかる、という面でのことだ。  リデアンが彼自身の自然な思いに従えそうなタイミングで、カエラは提案することにした。 「アヴローンさんに、貴方への付き添いをお願いしようかと思っています」  常駐ではない。彼には仕事があるし、リデアンにとってもストレスになりうる。だが宿泊が可能なときには、以前のように隣室に待機する。  また、点滴や機器の確認、数値記録など、接触度合いの低い介助であれば、看護師の代わりに実施してもらう。  理由は、今は語らない。カエラですら確信のない話だ。ただ、 「彼も深く傷ついているからです。貴方を傷つけてしまったという事実に。それを埋めるには、何万というクレジットよりも、貴方のためにあの窓を開ける、ただそれだけのことのほうが大事なのです」  告げた理由、これも決して嘘ではなかった。

 ヴェクタスの傷のことなど知ったことかと、拒まれる可能性はあった。  だがリデアンは静かに頷いた。