かそけき祈り 6

 それは、純粋な善意だった。  喜ばせたい、楽しませたい、祝福したいという、あたたかな思いだったのだ。

「誕生日、ですか」 「ああ。明後日でね」  語るのはヴェクタスだが、話題は"彼の"ではない。リデアン・トライオスのだ。 「45になる。とてもそう見えないが」 「それを言えば、貴方もでは?」  1年半もの間、密接に、そして忌憚の入る余地もなく共に過ごせば、自然な親しみも生まれる。カエラは医師としてではなく友人として振る舞うこともあった。 「あくまでも私の場合だが、大人らしい苦労をしなければ、人は若く見えるものだと思っているよ。私は、ひたすら遊んできただけだからな」  その遊びの結果、銀河を左右するほどの大商人になったとすれば、やはりヴェクタス・アヴローンは稀代の傑物に違いない。

 だがその実業家が今望むのは、ささやかなバースデーパーティを開くことだった。  リデアンは、他の病院の個室よりは快適だとしても、院内の一室に閉じ込められている。厳密に言えば彼のこの1年半と少しは、ベッドの上にしか存在していない。  しかも見ることができず、自由に動くこともできない。楽しみは限られており、数少ないものが繰り返される。  そんな退屈な日常には、少しばかり特殊なイベントも必要かもしれない。

 ただ、生まれた日を祝うというのは、生きていることを祝うということだ。  生きる意味に疑問を抱くリデアンにとっては、逆効果になりかねない。そのためヴェクタスはカエラに相談を持ちかけた。  カエラは慎重に考える。順調に進んでいる回復と、ヴェクタスとの関係修復。それを今ここで遅らせたくはない。 (壊れるほどのことは、ないと思える。だが……) 「やはり、やめておいたほうがいいかな」 「難しいところですね。私たちが祝うこと、それもまた、生きる意味の一つになります。“貴方は私たちにとって大切な友人である"という、それを伝えることもできますから」  カエラは思う。どれほどリデアン・トライオスが強靭な存在で、たった一人ですべてを成し遂げうる者だとしても、助けや支えはあっていい。  迷ったが、カエラは、慎重に行ってみることを決意した。

 ヴェクタス・アヴローンは自分の"星"に望まない誰かを入れないため、身の回りのことはすべて自分でしている。ちょっとした料理はお手の物で、気が向けば菓子を焼くこともある。プロが作ったものを購入するほうが簡単だとしても、作るということを彼は楽しむのだ。  お裾分けとして出されたものを試食したカエラは、呆れて首を振った。不味いなら、道楽者の下手の横好きと言えた。だが高級菓子店のものと変わらない美味というのは、 「貴方も貴方で、万能の人ですね」  と言う他なかった。

 センスだよと笑うヴェクタスとともに、小さな焼き菓子と新しい花束を持って、中階奥の特別室へ向かう。  この焼き菓子一つでさえ、リデアンは食べられない。口にできるのは一口か二口だ。だが、ずっと栄養剤や流動食を胃や喉、あるいは血管に直接流し込まれる生活をしていた彼には久しぶりの食事になる。消化補助薬や後処理は必須だとしても、大きな負担ではない。その程度で楽しめるのであれば、今後も取り入れたい習慣だ。

 スモークがかった銀色のドアに触れ、それが開くと、しんと冷えた空気が流れてくる。どこかひりつくような感触と焼けた香りがするのは、室外の電子機器を遮蔽するシールドのためだ。  リデアンの知覚は、視覚を除いて明らかに鋭くなっている。一歩の足音だけで、彼はそれがカエラとヴェクタスであることを聞き分ける。ヴェクタスが来るタイミングはいつであっても不思議ではないが、カエラがいるのは疑問なのだろう。定期の診察でもないし必要な処置の時間でもない。  それを、ほとんど変化のない彼の様子から判別できるようになったこと自体、自分たちの間にあるつながりの証だとカエラは思う。

 ヴェクタスはリデアンの右サイドに置かれた椅子に掛ける。カエラは左サイドに立ち、 「ちょっとしたサプライズです、トライオスさん」  ベッドの背面を起こし、リデアンを座らせもたれさせながら、ゆっくりと切り出した。  今日はなんの日ですかと聞いても、彼は日時を把握していない。日付を言えばその都度そうと認識するが、それからの経過を確認する必要のない生活だ。  だからカエラは日付を言い、 「貴方の、誕生日ですね」  と伝えた。

「え? ……ああ。そうですか」  それがリデアンの反応だった。ただの確認。僅かに混じる疑問の響き。 「私は、43……45?」  負傷後の時間の大半を、死も同然の喪失や、深い眠り、混乱の中で過ごしてきた患者であれば、時間感覚が失われるのは無理もない。 「ちょっとした菓子も用意したよ。カエラの許可もある。なにか食べるのは久しぶりだろう。口に合うといいが。それから、分かるか? 君がいい匂いだと言ったスーラローズだ。合う香りの花を添えてみた」  清涼感のあるグリーン系のスーラローズに、ほんのりとした甘みと渋み。見た目の取り合わせは美しいとは言えないが、リデアンのためのものであれば、香りが良ければそれがすべてだ。

 そこで途切れた。  すべてが止まった。

 ありがとうと喜ばないとしても、それなら拒否を示すか、困惑するか。何かあると思っていたが、何もない。  リデアンが次に言ったのは、 「それで……なんでしょうか?」  だった。

 “なんでしょうか?”  何が?  カエラとヴェクタスも止まる。意味をはかりかねた。

「あ、ああ。もしかして、私に? ……でも、……でもそれは、必要ありません。……必要、ない……」  眼窩で、はめ込まれただけの義眼が痙攣するように動く。眼筋の急で激しい運動。 (混乱と、動揺?)  カエラは向かい側にいるヴェクタスへと腕を上げ、軽く制する。  様子がおかしい。動かず、距離を保つように。言葉にせずとも伝わる。 「……大丈夫ですか? トライオスさん」  僅かに"意思"を乗せ、声を届かせる。聞こえたというよりその空気の振動が触れた途端、リデアンがびくりと反応した。

「……え、ええ。なにも。大丈夫です。少し、驚いただけで……」  何に? 今のカエラの言葉に? それとも、不意打ちの誕生祝いに? 「それは、申し訳のないことをしました。少し、休みましょうか?」  尋ねると、 「……いえ、大……何……、っ……、すみません……、自分が、混乱していることは、わ……じ、自覚、して、ます。なにか……何……」 「トライオスさん。今は、考えないようにしましょう。お薬は、必要ですか?」  いつもどおりそっと、カエラの手が肩に触れた瞬間だった。

 彼女は一瞬で飛び下がった。  その跡には、振り抜いたリデアンの腕があった。  ただ前を向いた顔に強張った意志が凍りついている。

 ヴェクタスも兵役にはついたが、苛烈な前線の戦いに参加したことはない。そんな彼は、驚いただけで椅子から立つこともできないでいる。  カエラは、自分の裂けた着衣を見下ろす。  これだけ弱っていてもーーー反応があと少し遅ければ、致命傷だった。

「あ……、いや……い、今……今のは……っ」  リデアンが明らかに恐慌をきたしはじめた。 「トライオスさん。大丈夫です。私はなんともありません。貴方にも分かりますね? 当たってはいません。かすり傷一つありません。大丈夫です」 「でも……っ、あ……違……そんな……、そんなつもり……な……っ」  カエラはすべての意識を集中する。そして、気配を断ち影となって三歩を一歩にし、リデアンの背後に立つと首筋に麻酔ショットを打ち込んだ。

 一歩離れる。かなり強力な薬で、下手をすれば意識障害の危険性すらある緊急用の薬剤だ。それでも大柄なリデアンの体に回るには時間がかかり、崩れるのを待って背後から支えた。左腕の不意の動きを警戒し、肩関節から押さえて封じることは怠らない。  ようやく元のとおりに仰向かせ眠ったのを確認すると、カエラのこめかみからも一筋、冷たい汗が流れた。

「カエラ。今のは。……何故だ。なにが原因で」 「分かりません。ただ、どうやら私たちは間違ったようです」  カエラは窓際のソファセットへとヴェクタスを促す。目を離すわけにはいかないと思った。そして、迂闊に誰かに任せるわけにもいかないと。  見かけよりも強い腕力でカエラはソファの向きを変え、リデアンが見えるように角度をつける。 「彼の反応が少しおかしかったのは言うまでもないとして、どういう意味なのか、なにを考え、感じたのか……。アヴローンさん。貴方にはなにか思い当たることがおありですか?」 「いや。だがありのままに見ればーーーまず、彼は日付を意識していなかった。貴方が誕生日だと伝えて、私が、贈り物を用意したと言った。それに、……“なんですか”……?」  正確には、”なんでしょうか”。そう答える心理がカエラには分からなかったし、ヴェクタスにも分からないようだった。

 もし自分であればとカエラは考える。心から、あるいは形ばかりかもしれないが「ありがとう」と言うか、気に食わなければ剣呑に、「だからなんです?」とでも言うだろう。それが、ただ「なんでしょうか」。苛立つでもない、淡々とした疑問。 「……“だからなんでしょうか”? それとも、“それがなんでしょうか”……?」 「彼は必要ないとも言った。つまり、意味がない、やらなくていいということだろう」  トゥーリアンにとっての誕生日とは、そもそもは宣誓と契約の日である。今では他種族に倣って祝福するほうが主流になったが、三世代ほど遡れば厳粛な儀式であることが当たり前だった。  リデアンが華美や無駄を嫌う徹底した軍人気質で、無用なことと捉えているとしても不思議ではない。だが、 「くだらないと思うなら」  そこまでヴェクタスが言ったのと、同時だった。  声にならない悲鳴を上げて、リデアンが体を起こし大きく身を捩った。

「そんな……!」  薬は許容量ぎりぎりなのだ。何故それがたった数分で切れるのか。  暴れた拍子に寝台から落ちる。重い音となにかが潰れたような不快な音が重なる。だがとっさに動こうとしたヴェクタスをカエラは慌てて止め、首を振った。リデアンが加減を忘れれば、腕の動きは目に見えず、速度は相応の威力になる。まともに食らったら怪我では済まない。  いけない、と思う。リデアンは床の上で横になり、固く体を丸めている。人工臓器に柔軟性はない。押し殺した声の隙間に苦しげな咳と、なにかを吐き出したような音が混じる。 (これ以上薬は使えない。だが、なんとかしなければ)  近付いて、拘束するか。不意打ちさえなければ不可能ではない。しかし暴れられれば、自分はともかく患者の体に大きな負担がかかる。

「リデアン」  そのとき、横からヴェクタスが声をかけた。 「どうした。怖いのか? それは、また私なのか?」  声に反応し、ますます丸くなる。 「ご……」  と微かに聞こえた。  それから、 「ごめんなさい……」  と。

 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。  繰り返される合間に零れるのは、泣き声だった。  ごめんなさい、ごめんなさい……っ。  悲鳴になる。  ごめんなさいーーー。  あとはもう、かすれた悲鳴と泣き声が重なり合ったような音が、長く尾を引いた。

 カエラの目に、モニターのラインと点滅が映る。  脳波の反応はフラッシュバック時と同じで何かに過剰反応している。  だがその一部がひどく跳ねる。  データパッドの情報ベースとリンクさせると、それは現実には存在しない、しかし神経が脳に送っているという意味では当人にとっては現実でしかない"出来事"を露わにする。  小さく丸くなったリデアンの全身には、激しい打撃の信号が飛び交っていた。

 幻視する。  そこに誰かが見える。  怯えてただ丸くなるしかない者を容赦なく打ち据える誰かーーー。

「ああっ、私としたことが……」  何故思い違いしたのか。  何故思い至らなかったのか。  ヴェクタスの影に重なり、彼は使わなかった暴力を振るった者。  それは軍の上官などではない。  それは、息子が生死の境にあろうと無感動に、検体として勝手に使えと譲り渡した男。  ーーー父親だったのだ。

 だから、おそらく、誕生日の祝いという家庭的な出来事が、それを許さなかった父親に重なったに違いない。  誕生日など無意味だと、教えた存在に。

 助けねばと思う。  だがカエラが動こうとした途端に怯えた悲鳴が上がった。身を守ろうとして、逃れようとして、だがただ丸くなる。逃げ場もないし、抵抗もできないからだ。  この反応は、無視するしかない。とにかく左腕の反射に注意し近付いて……。 「カエラ。どうなっている。どうすればいい」  ヴェクタスの声にもリデアンは反応して身を縮める。“大人の男の声"だからだろう。  カエラは声を出さないようにとヴェクタスの口の前に手をかざす。 「アヴローンさん。貴方の幻影に重なっていたのは、彼の父です。暴力はそこからもたらされていました。大人の男性の声というのは、聞かせないほうがいいでしょう」  ヴェクタスは目を見開き、そしてその目がすぐに、鈍い銀色に耀って見えた。

「私が近付いて拘束します。乱暴ですが、薬はもう使えません。物理的に押さえます」  ヴェクタスの顎殻が震えるのは、怒りと口惜しさのためだろう。いつもは理知を湛える冷静な目が、彼の異名どおり、銀蛇のようなぬめりを帯びている。  カエラが再び行こうとすると、しかし、強く肩をとられた。 「アヴローンさん」 「私が声を立てないほうがいいというのは」  と彼は小さな声で言う。だがそれすらリデアンの耳には聞こえている。やめるべきだと言おうとしたが、逆に、口元に手を翳された。 「父親を連想するからだな? だが今のリデアンには、近づく者があればそれもすべて父の幻影だ。貴方の動きにも怯えている。ただ、ならばまったく違えばいいという理屈にはならないか」

 父であると、間違えずに済むもの。  しかし歪んだ認知の中では、 「私でさえ、真逆のような男性と錯覚されるというのに、ですか」  小柄でしなやかな女性形、アサリであるカエラと、大柄で堂々としたトゥーリアンの男の区別がつかない。 「カエラ。リデアンは見えない。こちらを向いてもいない。近づこうとする何者かの気配と、音しか分からないんだ。普段ならばともかく、今は些細な差など分からない」  言われてはっとした。そして、 「だから、声だ。ヴァレス・トライオスの声と私の声はまったく違う。“大人の男の声"だけですべてが一括りになるかどうか、試させてくれ。力任せの拘束は、私の思いつきが無駄だと分かってからでもいいはずだ。頼む」

 ーーー後にヴェクタス・アヴローンが吐き捨てて言うには、 「挽き潰したようなダミ声、怒鳴ればがなり声だよ、かの准将殿のお声はね」  そう言うヴェクタスの声は、低いが甘いヴェルヴェットだった。

「リデアン。私だ。分かるか?」  一瞬は怯えたようだが、それでもリデアンは、聞き分けた。  最初は 「だれ……」  と。だがすぐに、 「私だよ。分かるだろう? この間の詩集の、続きを読もうか?」 「……ヴェクタス?」  声の主を言い当てた。  他愛もない読書の、朗読の習慣が、まさかこんなところで生きるとはと、カエラは思った。

 近付いても、大丈夫か。  ヴェクタスが言う。  私も酷い男だが、それでも殴ったりはしない。  と。  助けたいんだ。君が怖いなら、つらいなら、怖くなくなるまで、つらくなくなるまで。だから、落ち着いて。怖くない。私は二度と君に酷いことはしない。嫌なことはしない。約束する。助けたいだけなんだ。  囁くように。そして少し笑う。  ただ、殴られると、私の場合はたぶん、怪我じゃすまない。だから頼む。少しだけ落ち着いてくれ。それで、少しだけでいい。信じてくれ。  私は二度と君を傷つけたりしない。傷つけたくない。  だから、頼むよ。そこに行かせてくれ。  願いはまるで、祈りのようだった。

 人ごとき、容易に殺せる手がなにかを探すように床を彷徨う。  そこに辿り着いた手が触れると、指が絡んだ。 「……酷い目に遭ったんだな」  取った手を伝うように最後の距離を詰め、座り込んだヴェクタスがリデアンの肩を抱き頭を抱え、頬を寄せる。  リデアンの左手がヴェクタスの高価な上着の背を掴み、大きな皺を作った。  吐息のような嗚咽が流れ落ちる。微かだが、やまずに続く。  大丈夫だとヴェクタスが言う。 「もう大丈夫だ。二度とそんなことはさせない。君は私が買い取った。いや、金は払ってないが、サイン付きでもらったんだ。このうえもなく正式で、公的な。だからもう、父だった男は君になんの権利もない。君に何かすれば、私有財産の侵害になる。正面から堂々と叩き潰せる。もう二度と君を殴らせたりしない」  まるで物のように。  だが、ヴェクタス・アヴローンだ。  “世界を敵に回しても、金と価値を裏切らない男”。  彼だからこそその言葉は金言だった。

 カエラは気配を消し、壁際へと寄って消える。  自分がいなくても大丈夫だと、そう信じられた。