かそけき祈り 7

 あの日をきっかけに、リデアンはたびたび幼少時へとフラッシュバックを起こすようになった。  その際に零れる言葉や様子と少しだけ語られる言葉から、ヴァレス・トライオスの苛烈な仕打ちが次第に明らかになっていった。  そしてそれは、リデアンがどうやって他者を求めない、一人ですべて抱えて耐える大人になったのかの礎でもあった。

 やめてと言えば殴られる。  泣けば殴られる。  歯向かっても歯向かわなくても殴られる。  自分の何が悪かったのか分からなくても、父が怒るなら自分が悪いからだった。  そして母は、そこにいたとしても壁際で怯えているだけだった。義母は尚更で、折檻が始まると出て行ってしまった。  使用人も同じだ。巻き込まれたくない、主の不興を買いたくないと、避けられる。  そしてもし、人にすがろうとしていると知られれば、やはり殴られる。  ヴァレスの怒りに触れたくない者たちは、母だけでなく使用人も皆、何も言わず何も見ず、何も聞こえないことにした。背けられる目と立ち去る背中だけが与えられた。  リデアンにとって他者の助けとは、求めたとしても得られないものであり、求めてはならないものになった。

 もしリデアンがもっと無能であれば、父親も彼自身も、諦めたのかもしれない。だがなまじ優秀であっただけに、結果を要求した。応えようとした。  それには応えて当たり前で、不備があれば許されなかった。  応えられればきっとと思ったこともあったが、どれだけ応えても叶えてもほしいものは返ってこず、やがて知った。無駄、無意味だと。  そうして残ったのは、並外れて優秀で何もかもを一人でできる、誰の助けも求めない、孤独な英雄だった。

 それらをヴェクタスは根気強く聞いていった。  自分の力で背景を調べれば、明らかになることもあっただろう。だがリデアン自身が無意識に隠してきた過去なら、それを覗き見ることはしたくなかった。だからどれだけ時間がかかろうと、直接話をしようとカエラと決めた。

 父につけられた傷が表面化するとき、リデアンは子供に戻る。  実際に子供のままなのだとヴェクタスは思う。  殺された子供だ。苛烈で容赦のない暴力のせいで、育つことなく死んでしまった子供。その魂、幽霊が、心の奥底、冷たく鎖された場所に封じられていた。  不可抗力で墓がーーー弔われたことがないならそれは墓ですらない、厳重に押し固められた重石が壊れてしまって、彷徨い出てきた。  殺された当時の、幼い姿で。

 怯え傷つく記憶の混濁は痛ましい出来事ではあったが、同時にリデアンの心の枷が緩むときでもあり、ヴェクタスはその都度少しずつ、少しずつ、幼い彼の心に耳を傾けた。  誕生日の出来事についても聞いた。  たった一度、母が祝おうとしてくれたその日、おそらく5歳かそこらのこと。  小さなケーキと形ばかりのブーケ。だがそこへ帰ってきたヴァレスは激怒した。  なにに怒っていたのかをリデアンは理解していない。確かなのは父が怒ったことと、「くだらない」と言われ何度も殴られたことだけだ。おまえにこんなくだらないことをしている暇があるのかと。  これはくだらないことで、してはならないことだった。  それ以来リデアンにとっては、誕生日というのは自分の年が一つ増えるだけの日になった。  部下や同僚がそんな話で笑っていても、上官の式典に出席していても、それはそれ。他人にとってどうであろうと、自分は違う。 「“僕"には違うから」  誰かが楽しげに話題にしていたり、祝い祝われるのを見るたびに、本当は悲しかったはずなのだ。それをなんとも思わないようになるまで、自分のはただ年齢が増える日だとしか思わなくなるまで心を削って削って、削り尽くして……本当に何も感じなくなっていったのだろう。

 もう少し自分が軽率だったら「殺してやりたい」と口走ったかもしれない。父親だろうがなんだろうが、いったいなんのつもりか、悪意がすぎる。  リデアンは父にそこまで疎まれた理由を、自分が出来損ないだったからだと言っていた。 「貴方も覚えているでしょう。私は昔、体が小さかった」  トライオス家は軍閥のトップを競うような名門。男子は代々将軍位まで上り詰めるものだし、体格は大柄で頑健、そして容姿は無骨。  そこに生まれてきたのが、やや虚弱ですらある、愛らしい小さな子供だった。  男としてヴェクタスには分からないでもない。そうなると、自分の種であるかを疑わずにいられないのが男親だ。DNA鑑定などで実子だと証明されても、疑念は残すことができるし、嫌っていい理由にもなる。

 しかし、気に入らないなら妻子ともどもよそへやり、愛人でも妾でも、離縁して後妻でも娶ればいい。それも冷淡で不愉快な父親像だろうが、だとしても、癇癪のままに殴り続けるよりははるかにマシだ。  そうせず残して暴力を振るい続けたヴァレスはやはり、どこか頭がおかしいと思えてならない。  カエラも、長い人生の中では複数の伴侶を持ち、息子や娘を、孫やその孫の孫まで持ってはいる。その中にはどうしても愛せない子や孫もいたと、彼女は率直に言う。だが、だからといって暴力を振るっても許されると思ったことは一度としてない、と。

 リデアンの"子供"の魂が浮かぶたび、ヴェクタスは抱きしめて慰め、撫でてやる。  大丈夫だと言い聞かせ、怖くないと教える。  こんな私が彼に触れていいのかと思うことを、ヴェクタスはやめた。  自分の過去がどうあれ、リデアンを深く傷つけたのが事実であれ、その罪を問うのは、贖いは、後でもいい。  今は、この手が拒まれないなら、唯一の握れるものであるなら、迷わず差し出したかった。

 その役割を務めるのがカエラでなかったのは、かつて彼女が言ったとおり、“何故か"だ。  やはりリデアンは"何故か"ヴェクタスを拒絶せず、それどころか彼であることを望むようなところがある。  カエラのほうがよほど信用しやすく安心できるだろうに、何故なのか。父に虐待されたからこそ、そうでない父性を求めるのだろうか。だとしても、何故混乱の中で混同しないのか。  しかし今大事なのは、その疑問に答えを出すことではないと、ただ受け入れることにした。

 ヴェクタスはほとんど"星"に帰らず、リデアンの傍にいるようになった。  メールの返信やいくらかの通信ならどこでもできる。それこそ、リデアンにとって少しのノイズになることさえ譲れば、すぐ隣の椅子にかけていてもできることだ。  時折は自分の仕事について話した。過去の嫌な記憶を触発しないよう、今まさに返事をしようとしている内容についてだ。

「これで50万なら妥当だ。押してみるかい?」  とヴェクタスはデータパッドをリデアンに向ける。Enterに触れれば、その額の金が動くというわけだ。  50万クレジットあれば高級なカスタムカーが買える。平凡な庶民なら、夫婦で10~15年分ほどの生活費になるだろう。 「しかし、どうなるか、確定したわけではないのでしょう」 「ああ。“ほぼ確"といったところだな」 「……やめておきます」 「意外に臆病だな」  笑ってヴェクタスは気軽に画面に触れ、送信した。

 ヴェクタスはリデアンの左側にいる。時にはそこに置かれた手を握っている。  「左側は危険だから右側にいること」というカエラの忠告を退けた。左側にいなければ手を取れないからだ。  反射的に動けば、ともすると命の危険さえあるのかもしれない。だが、リデアンの意思が少しでもあれば本気で振り抜くことはないと信じることにした。そして、多少強く殴られたとしてもだからなんだと思った。ここは病院だ。なにかあれば最善の処置をしてくれる。  恐れていないと伝えたい。事故くらいあっても構わない。そんなことより君の手を取り、少しの安心を与えられるならそれを選ぶと。

 何故と言うならこれもまた"何故"だ。  何故ここまでしようと思うのか。  罪の意識はあるが、そんな重苦しさは感じない。  そしてこれもまた、今答えを出さねばならない疑問ではない。

 だからやりたいことをやる。  これまでと変わらない。 「トライオスさん」  とカエラが改まって呼びかける。そろそろ院外の生活に切り替えることもできますと、彼女は語る。  そして選択肢として、ここにとどまってもいいことを伝える。もし病院の外、日常の中に戻っていきたいのであれば、どこでどう暮らすにしてもヴェクタス・アヴローンが変わらず支援するつもりでいるし、それから、 「アヴローンさんの"星"で過ごすこともできます」

 そもそもコロニー・ユーリシアは、ヴェクタスの"星"への中継点として作られたものだ。移動は星間シップでなく小型の星外シャトルでも事足りるほど近い。  そういった地の利もあるし、他に人のいない静かな環境であり、ヴェクタス・アヴローンの資力を誰にどんな遠慮をすることもなく発揮できる場所でもある。  そしてヴェクタスは、カエラを素晴らしく有能で心美しい"友人"として、自分のテリトリーに招くことも許した。 「とはいえ、通常は私と二人きりということになるし、医師や専門のサポーターではなく私が君の身の回りの世話をすることになる。それに抵抗を覚えるのであれば、断っていい。他にこうしたいというのがあれば、もちろんそれでもいい。君が一番いいと思うものを選んでくれ」

 リデアンは迷った。見えない目が、その視線が彷徨うのが分かるようだった。  そしてカエラが言った。リデアンの答えを待たずに、やんわりと彼の手に手を置いて。 「選択肢AとB。もし釣り合って迷ったなら、いいですか? リスクや面倒の大きいもののほうが、本当にほしいものなのです。本当はそれがいい、でもリスクが大きいAと。実は今ひとつ、でも面倒が少ないB。だから釣り合ってしまったのですから。本当にほしいものは、もう決まっている。私はそう思います」  患者の選択を急かさず誘導せず、あくまでも本人の意思で、選ぶことができるときに選ばせる。それが医師のとるべき態度なら、今のカエラは医師ではなかった。 「……つまり、遠いうえに少し高いが美味い店と、手近にあって安いが味はそこそこの店とで迷ったら、面倒でも遠くて美味い店に行ったほうが満足度は高い、ということか」  ヴェクタスが言うと、カエラは少し吹き出した。


 普段は静寂と幻想が支配する星に、今このときだけ、重機が轟音を立て多数の業者が出入りする。  彼等は一様に強張った面持ちで、勤勉だがこのうえもなく緊張している。他愛なく置かれている置物一つ、うっかり壊しただけで自分の年収が吹っ飛びかねないのだから無理もない。  オーディオルームを潰してリデアンのための処置室にした。そこにはユーリシアの医療センターにあったものと大差ない機器を揃えた。日常使いのものは別に用意するとして、重篤な状態に対処できる高度で高機能なものもあったほうがいいと判断したのだ。  失ったいくつかの身体機能のため、様々な処置が必要なのだが、一括で行えるものは統合させた。そんな機器はないと言われたので作らせた。病院にいるときならばともかく、日常生活に戻ってまで一日に2時間を2回、ともすると3回も4回も、その間ずっとベッドと機械に拘束されるなど不自由すぎて見ていられない。

 通路は邪魔なので潰し、リビングにしている部屋からも寝室からもドア一枚で行けるよう作り変える。  段差は極力なくし、エレベーターを設置する。  壁紙や敷物、カーテンなどは電荷を吸収しやすいものにした。色や質感、材質でいいものがなかったので、すべてオーダーメイドだ。  椅子もテーブルもソファも何もかも、本当に気に入っていて取り替えたくないと思うもの以外、ほとんどすべてを最適化した。

「……また法外な支出をしておられますね」  医療機器の確認に訪れたカエラが、呆れるより感心して言う。ヴェクタスは座り慣れた椅子を回し、ゆったりともたれてから大仰に腕を広げた。 「使った以上に儲ければいいだけだ」  たとえばリデアンのために作らせた複合透析機だが、それそのものはニッチすぎて商品にできないとしても、開発された素材や使われている技術には、金になる素質がある。特許や権利を確保することで製造・流通を支配できるし、 「使い道が乏しいなら増やせばいい。良く思えないなら魅力を教えればいい。いかに価値を付け、それをいかに高く、ただし適正と判断される価格で売るか。それが商人の腕というものだ。投資回収の目処はついているんだよ」 「本当に貴方という人は……」  今度は感心するより呆れた様子で、カエラは「参った」というように首を横に振った。