日々彩々 1
リデアンがヴェクタスの星、彼の私邸で過ごすようになって二ヶ月が過ぎた。 最初は落ち着かなかった。これまでは医師や看護師がしていた介助を、すべてヴェクタスがするからだ。 肩書や立場とは便利なもので、軍人であれば戦うことは当たり前だし、絵描きは絵を描き、詩人は詩を詠む。そして商人は儲け、医師は患者の世話をする。だからリデアンは、医師たちが自分をどう扱い何をしようと特に何も思わなかった。いくらかの申し訳なさや羞恥は伴ったとしても、彼等はそれが仕事なのだからと、気にしないことにした。 だがヴェクタスは違う。 彼は商人だ。儲ける者である。しかも、その気になれば何十人という使用人を雇って大きな屋敷に住まい、何もかもを他人にやらせることもできる豪商だ。自分でできることを他人にやらせることはあったとしても、その逆はない。 ……ないはずの存在が、今はリデアンの介護のため、あらゆることを手掛けている。
目が覚めたとき、息苦しいと思えば呼吸用のマスクをくれる。呼吸に難がなくとも、なかなか血圧が上がらないため一時間近くはただ横になっているのだが、その間に栄養剤を用意するのも彼だ。人工胃につながっている腹部のポートを開けて除菌すると、注入器をつないで起動させる。30分程度して完了すれば取り外し、接合部を丁寧に清拭し保護帯を戻すのもヴェクタスになる。 リデアンの生活補助にかかる手間は他にも多数あり、透析、神経系の調節、電位調整、そして入浴や、排泄も含まれる。 排泄と言っても、腹部の空洞を利用して体内に設置されているパックを取り替えるだけではある。食材ではなく最適化された栄養剤の残滓なのだから、一般的な排泄物とは異なる。が、アヴローン家の御曹司として生まれ、今や銀河に知れた実業家となった男が触れる必要のあるものではないだろう。
一方で、こうして共に過ごすようになって分かったこと、知ったこともあった。 その一つは、彼が驚くほどまめだということだ。こういう手間を一切厭わない。いつ、何を、どこへ、どう用意しておくべきか。最適解を構築して手早くこなす。リデアン本人の介助だけでなく、そのために必要な機器類の調整や点検も手際がいいし決して怠らない。 必要だが煩雑なことは、徹底的に効率化はしても省かない。こまごまと動き回るが、無駄はない。 こういうまめなところがあればこそ、油断なく抜かりなく動けるのかと、リデアンは妙に納得した。
さて、そんなヴェクタスは朝の作業をすべて終えると、ようやく仕事に取り掛かる。 彼ほどの立場になれば現場に出て陣頭指揮を取ることはめったになく、大半は通信や文書のやり取りだけで片付いてしまう。そのためほぼ邸内にいるのだが、今日は出かけていった。行き先はユーリシア総合医療センター、目的はカエラとの面談だ。 リデアンの状態についてはヴェクタスが逐次報告している。計器類の数値は、日々の記録と定期的な提出が義務でもある。それに加えて、半月に一度は直接面談するのも約束の内だ。 カエラを呼ぶほうが、リデアンを一人にするよりは安心だし安全なのだが、出掛けていくのはあえてのことだ。いつもいつもヴェクタスが傍にいるのでは息が詰まるだろうと、意図的に一人の時間を設けることにしたのである。もちろんタイミングは選ぶ。不調があったり、リデアン自身が落ちつかないときにはカエラが来ることになっている。 そして、なにかとよく気がつく男であるヴェクタスは、自分が外出するときには必ず、リデアンの枕元にデータパッドを置いていく。音声認識をオンにしてスリープモードにしたもので、リデアンのコマンドに反応するようになっている。
「退屈は猫をも殺す」という奇妙な言い回しを教えてくれたのは、デイヴィッド・アンダーソンだった。 何故猫なのかは彼も知らなかった。彼の生まれ育った文化圏内で発生した表現ではなかったし、慣用句とはそういうものだとして、逆に、意味がよく分からないから面白いとして広まったものだったのだ。 だからリデアンも、未だに何故猫なのかは知らない。 ただ、退屈なのは確かに苦痛だと、今はつくづく分かる。目が見えず動けもしないリデアンには、できることが限られすぎていた。
「オープン、ブックシェルフ」 言えば起動する。 『はい、ヴェクタス様』 ヴェクタスの名を呼ぶのは、権限者の変更や追加はしていないからだ。リデアンの声にも反応するようにしただけなのである。 だがそこで、特に読みたい本というのはないという現実に直面する。 興味、というものを向けられない。昨日読ませたのはトゥーリアンの登山家による手記だが、彼女の名前や山の名前など、記憶したものが増えただけでしかない。 そのうち、どうしようかと考えることにも疲れて、頭が重くなってくる。
そしていつの間にか少し眠っていた。 ふと気がついたときには、データパッドは再びスリープモードになり、電子ノイズも感じなくなっていた。 結局のところこうして、一日の過半を寝て過ごしてしまう。 だがその日は何故かふと考えた。 (そう言えば、ヴェクタスのことを、よく知らない) と。
彼が何者であるかは知っている。何度かに分けて調べたことはある。最初のときや、その後でも。 トゥーリアン本星パラヴェンの、名門貴族として知られるアヴローン家の男だ。アヴローン家は先々代、すなわちヴェクタスの祖父の代に事業主として名を上げ、パラヴェンでは有数の複合企業となった。 それをヴェクタスは銀河有数の存在にまで押し上げた。 (……家は、関係ないか) どうやら独立時に悶着があったようで、今やアヴローン本家のほうがヴェクタスの傘下、下請けのような扱いになっている。 よって訂正。受け継いだアヴローン家を足場にし、ヴェクタス自身がのし上がった、というのが正しい。 そんな彼が具体的にどう成り上がったのか、リデアンはほとんど覚えていない。かつて読んだデータから分かることのはずなのだが、そのとき必要な情報ではなかったから、そのまま忘れてしまったのだ。 だからふと、 「ヴェクタス・アヴローンに関する公的な記録を媒体ごとに抜き出してくれ」 と、言っていた。
一般流通する経済誌から、企業連盟による議事録、役者も政治家も軍人も並列に取り上げる娯楽媒体。 『類似した内容と確度の低い情報を除き、8914件、当該項目を抽出いたしました』 似た中身を省いてこの数なら、全件表示では何万件あるのかとリデアンはさっそく呆れる。そして、権威ある経済フォーラムなどよりもゴシップ系が圧倒的に多いのには彼らしいと思った。 さて、ではどこから、何から見てみるか。 直近の業績や評価か。それとも時系列順に彼の躍進の軌跡でも辿るか。 情報分析は、視点で過半が決まる。“どこからどう見るか"は時に、“何を"見るか以上に重要だ。 だからこそあえてリデアンは、習性になってしまっている分析的な見方をやめることにした。
「その中で、一番古い記録は?」 尋ねると、実に30年も昔の年月日を唱えられた。 掲載元は経済誌だが、広く浅く淡く、専門知識の必要ない軽いものだ。役には立たなくても時間つぶしにはなるし、知った気にくらいはなれる。 VAが読み上げる記事の内容はパラヴェンで執り行われた商工会議のものであり、”ヴェクタス・アヴローン”は参加者の一人として並べられる名前の一つ、たったそれだけだった。
だがVAが補足説明を加える。 『この記事によってヴェクタス・アヴローンは世情の注目を集めました』 論理破綻している。 肩書も、功績も、特別な紹介枠もない。名前一つで世間で取り沙汰されるような、知名度などまったくない。それでは注目のされようがない。 「記事内に名前が提示されただけでは、注目は集めない。注目された理由はなんだ」 『掲載された写真が拡散したためです』 ーーーなるほどとリデアンは納得した。
その写真を、リデアンは直接自分に送らせた。情報の外部送信はできないと拒まれたが、こじ開けるのは簡単だった。リデアンの慰めとして置いただけのデータパッドに、ヴェクタスは大したセキュリティなどかけていなかったのだ。 そうして脳内で直接受信した記事には、グラスを持って佇む若いヴェクタス・アヴローンの姿があった。 特記事項は何もない。だが記事内で併記されている年齢を見れば、28歳の若者というのは一人しか参加しておらず、であれば、どう見てもこの写真の中央やや左にいる役者のような美男がヴェクタス・アヴローンということになる。
経済情報に触れたいから読んではいるものの、そんなものよりはるかに、もっと世俗的なことに興味がある、ライトな市民が購読層なのだ。 試しに拡散経路、具体的な過程を要求すると、圧倒的にSNSが多かった。 その中には必然的に、ユーザーがたまたま持っていた別のフォトグラフィも混じる。それは更に8年前、プライベートなホームパーティーのもので、弱冠20歳のヴェクタスが、父ゼルバー・アヴローンの隣に映っていた。 カメラ目線。撮られると気付いてカメラを見、軽く小首を傾げカメラの向こうへと笑っている。まだ少年の名残がうかがえるが、既に他人を魅了するすべを知っている顔だ。 もちろんこの写真も爆発的に拡散していた。
もっとも、こういった流行はすぐに終わる。他のセンセーションに上書きされていく。 そこからしばらくヴェクタスの名は世間に出ない。それが再び表に見え始めるのは、30歳になったあたりからだ。 トゥーリアン支配域ではあるものの辺境と言える場所で、いくつかの大規模な開発事業を手掛けている。批評家の意見は辛辣だ。そんな場所を開拓してなんになる? 宇宙のゴミ捨て場として掃き溜めにしておけばいい。常識的な表現で糊塗していても、そういう意味のことが書き連ねてある。“銀面の貴公子"という渾名とともに。
(……“ザル"も、その一つだったわけか) かつてリデアンが開港を望んだ軍港だ。 星域としてはトゥーリアンがおおむね握っているとはいえ、局地的には明確な管理執行者はおらず、政情不安定、種族間抗争の激しい場所だった。 その中にある惑星ザルにヴェクタスは資金を投じ、様々な開発を進めていた。 そのザルは今、連星となるウェアとともにセリオ圏の端でささやかに、しかし着実に繁栄している。莫大な金こそ生み出さないものの、人が住み、暮らし、船が訪れて停まり、また出て行き、それなりの鉱業とそれなりの農業が安定して営まれているのだ。 そしてリデアンが見るかぎり、もしこれより外へと勢力を拡大することを望めば、ザル・ウェアは中継点として急速な発展をするに違いなかった。
そこまで情報を集めたところで、突然外部との通信が遮断された。 リデアンははっとして意識を脳内から外に向ける。情報を流しつつ、いつの間にか半分眠ってしまっていたらしい。おかげで音にも気配にもまったく気付かなかった。 香りがする。リデアンは決して使わない、香水のものだ。 「……ヴェクタス?」 「この中にあるものはなんでも見ればいいし聞けばいい。知りたいことがあれば調べさせればいい。だが、誰が直結(つな)いでいいと言った? 繋ぐなとは言ってなかったとしても、君は理解していると思ったのだが?」 怒っている。 閉じる前にデータパッドを見たなら、リデアンが調べていたのが自分のことだと知ったかもしれない。だが、それで気分を害したからではない。 彼が怒っているのはーーー。
問答無用に抱えあげられる。220を越える長身のリデアンだが、半身を失いそして痩せたこともあって体重は激減している。やや重力の低いこの星なら、大柄なヴェクタスであれば造作もないことだ。 そのまま運ばれた先は隣の処置室で、調整用のベッドと思われる硬い台に降ろされた。 丁寧な手つきではあるが次々とセンサーを取り付けられ、神経調整用のポートにはプラグを接続される。スイッチが入ると一瞬体が浮くような心地がして、すぐ傍で断続的な電子音が上がり始めた。 「……見事にすべて上振れだ。これが株価チャートなら喜ぶところだが、この場合そうはいかないことくらい分かるな? リデアン」
怒られるのは、恐ろしい。 だが今そう感じないのは、熱を感じ取るため首筋に触れる手が、頬を撫でる指の甲が、怒りの向こうにある意味を教えてくれるからだ。 「頼むから、体に障るようなことは控えてくれ。さもないと娯楽の一つも置いていけなくなる」 「すみません、ヴェクタス」 分かればいいと言いたげな溜め息を一つついて、ヴェクタスはベッドに乗せていた腰をどけたようだ。少し離れたところから音がするのは、電荷調整の準備だろう。少しの好奇心で、ヴェクタスには余計な手間をかけさせてしまったようだ。 今は彼が望むとおりおとなしくして、自律神経の鎮静に伴う睡魔に従うべきだろう。 (起きたら、直接聞いても、いいかもしれない) 「リデアン? ああ。それでいい。おやすみ」 軽く肩に触れる手を感じて、リデアンは静かな休息の中へ意識を手放した。