日々彩々 3.5
ヴェクタスはアヴローン家の第二子として生まれた。10歳上の兄は障害を理由に養子に出され、ヴェクタスが嫡子となった。 いわゆる帝王学を叩き込まれたが、退屈だった。覚えれば済むことよりも、考えることをしたかった。 祖父は、斜陽貴族だったアヴローン家を事業家として再興した人物で、それなりには尊敬できなくもなかった。が、辿り着いた小さなゴールで満足し、それを自慢気に語るつまらない老人に思えた。 父は受け継いだ事業を特に拡大もせず転がしているだけの、なおつまらない男だった。 少年だったヴェクタスは、彼等の"武勇伝"を聞き、そして家業の現状を知るほどに、自分ならああする、こうすると思うことばかりが募った。もちろんそのほとんどは子供の暴論でしかない。当然、それは違う、そんなことは無理だと言われる。説明されれば、自分の言うことが無茶苦茶だというのには納得できた。ただ、「じゃあどうするの?」に満足のいく答えをくれない祖父と父に、失望した。
だから学んだ。自分自身で、通じる答えを出すために。 無知や浅慮ゆえに暴論になるなら、まずは知識を増やせばいい。様々な情報をあさり、銀河級の大商人のことを調べ、株価の変動や各地の発展と衰退、金の動き、人の動き、各種族の政治経済、歴史、文化、金融、人の心理、それらを貪欲に学んでいった。 そしてある日、知人に付き合って遊んでいた戦略シミュレーションゲームを「つまらない」と思ったのが、商売の世界でゲームをしようと思い立つきっかけだった。 軍事はつまらなかった。なにせトゥーリアンの軍は、実戦的で現実的である一方、未だに旧態依然とした上下関係に縛られている。この上下関係は絶対で、ありとあらゆるものに縛られて覆せない。提案を、きゃっかされるのはいい。だが、何故なにが駄目だからかを説明されず、説明を求めることさえ、上官に楯突いたとされる。 それに、人を殺して偉ぶる、威張る。戦果を誇るというのは、どう取り繕ったところで人殺しを自慢するということだ。そこに疑問も後ろめたさもなく讃え合う姿がおぞましかった。 だから、死なないことを最優先に、不真面目でやる気のない、しかし罰されるほどのことはない落ちこぼれとして準備兵役を終えた。 そこからが自分の人生だと決めていた。
23歳で家を継いだとき、真っ先にしたのが、すべての権限を祖父と父から自分に移すことだ。創立会長だのなんだのと耳障りのいいポジションを用意し、二重三重に構えたシステムで実行権のすべてを奪いつつ、それを悟らせないようにした。 パラヴェン中を飛び回って、あちこちの会社の無駄を叩き出し非効率を排し腐敗を切除した。一方で、有益なものには惜しまず資金を注ぎ込んで拡大したし、有能かつやる気のある者には権限と責任、そして成果に応じた報酬を与えた。 結果、3年でアヴローン系企業は大幅に成長した。 ヴェクタスに言わせれば、伸びしろしかなかったからこその、当然の躍進でしかない。
だが同時に、内外に多くの敵を作った。 外敵はともかく、20歳そこそこの若造に我が物顔で指揮されることが気に食わない幹部連が、揃って改革や進歩を阻害してきた。祖父も父も、自分たちとは異なるやり方をするヴェクタスを、成果を上げているにも関わらず認めなかった。 最初はそれでも、結果を出している以上は反対できない、という様子だった。しかし、結果を出せば出すほど納得し諦めるのではなく、前例や伝統を盾に反対されるようになった。 反省はした。正しければいいというものでもないし、成果があれば黙らせられるというものでもない、と。こういう老害込みで上手くやらなければならないのだと。 だが、それが組織上層部の過半を占める状況に甘んじる必要はない。 もっと柔軟で、プライドや規律よりも実利、あるいは面白みを受け入れてくれる者や、様々な価値観を持つ他種族を加えての仕事をしようと決めた。 そのためには母星を出て銀河へ進出しなければならなかったし、実家という足場も捨てることにした。 自分のやり方に賛同してくれる有志と新たな事業を立ち上げて、それ以外はすべて置き土産とし、パラヴェンを出た。
そこからの数年間は学ぶ時期になった。 トゥーリアンとヴォルスは支配域が隣り合っており、パラヴェンから銀河へと出ていくということは、経済種族である彼等と競うことだ。 軍事においては遭遇当時から有利だったトゥーリアンだが、経済活動については気が遠くなるほどの後塵を拝している。トゥーリアン世界を牛耳れる程度では、ヴォルスの牙城は出丸一つ崩せないとヴェクタスは覚悟していた。 だから、挑んで負けて学んだ。失敗しなければ見えないものがあるなら、失敗そのものは必須だ。ただし取り返しがつかないような、手痛いしくじりだけは避けなければならない。 その中で勝ち筋を見つける目を養い、自分の勝ち方、やり方というものを模索した。
持っているすべてを利用し活用した。 外見もその一つだ。同族とアサリくらいにしか通じないが、それでも、美男であるという評判が人の耳目を集めるなら、それを使わない理由はなかった。 その結果、“銀面の貴公子"などとも呼ばれた。敬称ではなく蔑称だ。大した成果も上げられない、見かけだけのおぼっちゃん、というわけだ。 侮られるのは悪くない。相手の油断や隙を誘える。 反面、商才ではなく見目で世渡りするのが気に食わないと、ただそれだけで上手くいかないことも増えた。
また、共にパラヴェンを出てきた仲間たちも、この頃にはほとんど残っていなかった。 トゥーリアンだけの社会で生まれ育った者たちの多くは、多様な価値観に柔軟に対応することができず、やりづらさを感じて離れていった。 単純にヴェクタスと反りが合わずに離脱した者もいるし、ライバル会社に引き抜かれた者もいる。 残っている者たちも、決して忠誠ややる気のためではなく、他の生き方を決められないだけの惰性でしかないように見えた。 後になって客観的に振り返れば、自分は人を、「使えるカード」として、その能力だけを見て”使い”すぎたのだ。 そう自覚し、認めたときには後悔し反省もしたが、当時のヴェクタスは若かったこともあり、離れていった者たちをどうでもいいと見下し、軽んじる態度の一方で、精一杯の去勢を張っていた。 今でもこの時期はヴェクタスにとって、精神的苦難の時として刻まれている。
この頃 助けとなったのが、ルドルフ・カステルというヒューマンの商人だった。 彼はヴェクタスより15ほど年上で、事業の拡大を求めて他種族の商圏にも進出を試みていた。 約30年前といえば、トゥーリアンとヒューマンの初接触による戦争が終結して間もないタイミングだ。にも関わらずヴォルスの商圏、トゥーリアンが間近にいる場所で商売を試み、認知され、成果も上げていたのだから、ルドルフ・カステルは並みの傑物ではない。 彼は「ヴェクタスが後に自分のライバルになること」を条件に、いくらか商売の手ほどきをし、思い上がりや傲慢に気付くよう促し、そして時には、大きな失敗からヴェクタスを救うこともあった。
迷ったり、立ち止まったり、自信をなくしそうになったりもしながら、それでもなんとか前へと進み、銀河の商人として着実に力をつけていたところで起こったのが、ヴォルスの大商人、タフス・ラエモとの衝突だった。 相手は、今セリオ圏と呼ばれている4つの星系、セリオ、アウスティア、オルス=ヴァ、ヴェル=クンと、もう一つ近隣の星系を含む範囲を裏から支配する"王"だった。 ヴェクタスにとっては強大すぎる相手で、戦う気は微塵もなかった。迂闊に手を出して睨まれないようにするほうが賢明だった。 ところが何故か突然 妨害を受けた。関税の引き上げや取引の突然停止、開発中の惑星での暴動など、いきなりあらゆることが上手く行かなくなった。一つ一つは偶発的なものであったり、商圏全体にかけられたものだったりもしたが、そのすべてが自分に不利となると、意図を感じる。調べると、裏にタフスがいると知れた。 何もしていないはずが、何かしてしまったのかと思った。だがその打撃はすぐに終わり、つまり小突かれたのだとヴェクタスは解釈した。“生意気な小僧をちょっと懲らしめてやろう”。そういうことなのだと。だからタフスは、自分のしたことだということを隠そうともしなかったのだ。
選択肢は二つだった。我慢して、その身分に甘んじるか。それとも、反撃するか。 勝ち目はないと承知で、それでもヴェクタスは反撃を選んだ。 舐められたまま過ごすのは嫌だったし、なにより、タフスの妨害のために損を被ったのが自分だけではないことに腹が立った。投資家や商人ならば、己の選んだ道の荒波だと受け入れるべきだとしても、ただの市民にそんな責はない。仕組まれた暴動を鎮めるために出動し、大怪我をした警備員の苦痛は? 飛ばなかった船のせいで就職のチャンスを逃した若者のショックは? それらを少しも考慮せず顧みず、気に食わない若造を一発殴って笑っているのが不愉快だった。
象に挑む蟻だ。踏み潰されるのは目に見えている。だとしても、このままずっと、相手の気分次第で適当に踏みつけられるのか? 暴君の言いなりになる世界に甘んじるのか? それくらいなら、足の皮でしかなくとも食い破って、痛い目の一つくらいは見せてやろうと思った。
だが挑むならとことん挑む。この程度でいいだろうとか、これ以上は危険だとは考えない。到達可能かどうかは考えず、ヴェクタスはタフスを追い落とし、取って代わるつもりでたたかうことを決めた。 そこまで大暴れできるのも、相手が巨大であればこそだ。自分の持てる力のすべてを発揮して、思いついたすべてのことを検討し、試し、戦う。そんな大勝負ーーービッグゲームが人生で二度あるかは分からない。であればこれはチャンスだ。ヴェクタスは、あえてそう考えた。 油断すれば一息に潰される。仕掛ける手を一つ間違えばおしまいになる。読み間違えたらそこまでだ。いつ誰がどこで裏切るかも分からない。笑顔は真実か。拒絶は真意か。チャンスに見えるこの選択の先に待つのは何か。 仕掛けた当初は、一手一手が博打だった。その博打を少しでも有利に傾けるのもギャンブルのうちだ。それが可能ならそうした。だが、たまたまその輸送船が、たまたま職員の怠惰で、たまたま2日、1日でもなく3日でもなく2日遅れたがために、ヴェクタスに利するような場面もあった。つまり、100%運でしかないようなことも幾度かあった。
こんなチャンスはきっと二度とない。すべて自分でやらなければ面白くない。自分にそう言い聞かせた。 それは強がりで、本当は、今戦わなかったら、今誰かに頼ったら、自分は、”ここまで”の何かにしかなれずに終わる。その一心だった。 ルドルフ・カステルはそんなヴェクタスを見てはいたが、助けるとは言わなかったし、ヴェクタスも言葉一つだろうと助けは求めなかった。 ただ、打った博打の結果がどう出るか分からず、一方でしなければならないことも山積みで、3日眠らずろくに食べていなかったときに、倒れるぞと一度だけ食事を奢ってもらった。種族が違うにも関わらず見て分かるほど、酷い有り様だったのだろう。だが当時、ルドルフから受けた施しは、それだけだ。
小さな蟻は象の足を食らいながら進んだ。進みながら学び、成長した。奪い取って我が身に変え、食らうほどに力を身に着け、そしてやがて、足を一本、食い千切った。 その最初の足が、アウスティア星系だった。 アウスティア星系には元々トゥーリアンが多く、ヴォルスではあってもタフスの圧政に不満を募らせていた事業主や投資家、銀行家も多かった。 ヴェクタスは彼等を同盟者として取り込んだ。取引で、駆け引きで、協定で、熱意で、なにより、タフスが決してもたらさない、だが彼等が欲していたもの、もっと自由な商売と、豊かな未来のビジョンで。 そして味方につけた彼等との合議の上で、タフスが押し付けてくる高額な関税や通商条約、取引レートを拒否、独立を宣言したのである。 このときのことは鮮明に覚えている。土壇場で手のひらを返される可能性はあったからだ。だからタフスへの通牒に、同盟者たちが約束をたがえず同意を示してくれたとき、ヴェクタスは安堵のあまり膝が砕けそうになった。今でもその感覚を思い出せるくらいである。
巨象は、その巨大さゆえに虚偽や欺瞞で誤魔化していた部分も多く、バランスを欠けば脆かった。あちこちにひずみが生まれ、不正が暴かれ、膿が噴出した。 象が弱ったと見るや、恨みを持っていた者たちは牙を向き、ライバルは隙を突いて餌をかすめ取る。 その中をまだかの蟻は……もっと強大な何かになった敵は、食い破り奪ってゆく。 気がつけばその一噛みは象の腕を食いちぎるほどになり、目を食らい耳を奪い、逃げようと這いずる腕も、腹も、“それ"は食い尽くす寸前になっていた。
勝ったのだ。 かつてはヴェクタスに面と向かって「これはこれは貴公子殿、本日も実にお麗しい」などと吐けた老人は、それ以降二度と銀河の経済史に現れることはない。 タフス・ラエモが残した「わしは銀蛇に触れたのだ」という言葉が、今のヴェクタスの異名のもとになっている。ヴォルスの神話に語られる、触れたものすべてを呑むという巨大な蛇神、“ヴェル=ズゥン"のことだ。 象の足元を這う蟻の一匹に過ぎなかったヴェクタスは、象を食らって大蛇となり、弱冠34歳でセリオの覇者となった。
タフスの「弱者は弱者であるがゆえに弱者であり続ける」という理念により、搾取と抑圧、差別によって支配されていたセリオ圏は、ヴェクタスによって開放された。 決まりきった強者が管理する停滞の社会から、力がものを言う競争社会に変わった。 既得権益にしがみつく者や怠惰な者には嫌な世界になった。だが、参入する種族は問わず、望めば誰がどんな仕事に就くこともできるし、成果はフェアに評価されて報酬として返る。次々と着手される事業は様々な雇用を生み出し、失業率を大幅に下げ、投資家を多数呼び込んだ。 セリオ圏は、健全な商売と仕事を望む者が生きやすい社会へと生まれ変わった。 気が付けば多くの者が、ヴェクタスをセリオの支配者だと感じていた。覇者は、”王”となったのである。
銀河にとって幸いなのは、ヴェクタスが何より重んじるのは自由だということだ。 だから彼に歯向かうことも逆らうことも自由である。好きにすればいい。ただ、それに反撃するのはこちらの自由だ。 そして、これほど巨大な力を得てさえなお、商売は面白いゲームだというのも、ヴェクタスを特異にしている。 勝つために全力で戦うが、勝てなくても面白いゲームであればいい。だから、かつての約束どおりルドルフ・カステルと競って負けたときには、地味で堅実、退屈に見えたやり口の裏にひそんでいた大胆な一手に、やられたと知った瞬間、思わず歓声を上げたほどだ。 だから、誠実な商売には誠実に応える。ルールを守って競い合うプレイヤーには、手加減や忖度はせずとも、汚い駆け引きや悪辣な手段は取らないし、再起不能になるほど叩き潰すこともない。ただしもし、そうでないならば……言うまでもないだろう。
今やヴェクタス・アヴローンは、銀河の一隅の事実上の支配者だ。 その手はセリオ圏の外にも広がり、銀河中で様々な事業を手掛け、金を生み出している。 億単位のクレジットを容易に動かし、兆を越える数になる銀河市民の生活を左右する。 金がなければ何もできない世界であるかぎり、政治家よりも軍隊よりも強い男だと言えた。
ヴェクタスは魅力的なホストで、ケータリングはもちろん自身の手料理でもカエラをもてなした。 「貴方がいるなら」 とプロジェクターで寝室の壁に映画を映し、リデアンにも分かりやすいだろうと選んだ会話劇を鑑賞したりもした。 そして今ヴェクタスは、セリオ系ヴァーシアまで出かけている。いくつかの視察と調整を済ませるため、最低でも2日はとどまる予定だ。 お泊り会を理由にまんまと留守番させられた気もするカエラだが、長い間とっていなかった休暇でもある。決して患者本人の前では出さないが、リデアンの主治医になって以来、彼が院内にいる間は休みと言えるような日は1日としてなかったのだ。 ヴェクタスのことである。そこまで考えて、一週間ほどの有給をカエラに取らせたのだろう。 静かで幻想的なヴェクタスの"星"で過ごす休暇は、リデアンの世話を引き受けたとしても余るほど優雅な時間だった。 ヴェクタスはカエラへの贈り物としてドレスを3着用意していたし、外出するに当たっては、必要なだけの食事の手配はもちろん、手頃なドリンクや軽いアルコール、スナックもふんだんに揃え、ほしいものがあれば購入すればいいと言って、リデアンに自身の決済キーを預けていった。それを一切使わずとも、彼が持つ蔵書は読み放題で、カエラが退屈するようなことは何もなかった。
ちなみに、このお泊り会のメインは、ヴェクタス自身が語る半生記である。カエラがそれ、特にセリオ圏を掌握するに至った顛末を聞いてみたいと言ったのが、そもそもの発端だ。 彼はやはり魅力的な話者であり、語彙は豊富で比喩や引用も巧み、それでいて決して誇張とは感じさせない淡々としたところもある。 事実であれば記録に残っているため調べることもできる。ヴェクタスが出かけていった後、二人で少し探してみた結果、話の内容は多少の記憶違いを除けば、純粋に事実だった。 「どうやら私は、思った以上に大きな人物と関わっていたようですね」 カエラは自分のデータパッドを見つめて呟く。 記録と彼自身の語った昔話を総合して浮かび上がるヴェクタス・アヴローンという男は、まぎれもなく銀河の商王の一人だった。
当然、銀河の長者番付でも上位にいる。 上位陣は桁が大きすぎて厳密な把握はできず、ランクがつかないのだが、彼等の資産は全員、10兆より少ないことはなく、さすがに50兆には届かないだろう、という範囲に散らばっているらしい。 ヴェクタスの推定総資産額は40兆クレジットにもなる。ただしこれは、形に、金になっているものから算出された額である。潜在価値や末端までは把握しきれず、含まれない。 C-Secや軍人、やや高級と言える公務員の資産が20万クレジット前後であることを考えれば、 「えー……金額が大きすぎて計算が……」 「2億倍です」 「におく……」 「感覚的に分かりやすく説明すると、安価なドリンクを1本買うのと同じ感覚で、彼は小型のスペースシップを買えるということです」 カエラはテーブルに置いたボトル、せいぜいで300mlしか入らない小さくスリムなボトルを見る。 (これを買う感覚で、船……) つまり、10本ほど購入して「お好きなものをどうぞ」と気軽に同僚たちへ差し入れしたり、一口飲んで不味いと捨てたりするものということだ。
とてつもない資産家、というイメージだけで捉えていたときに比べて、現実の格差が分かるとカエラは軽い目眩を覚える。 「あ、貴方はあまり驚かないのですね」 「昔ヴェクタスについて調べたときに、当時の彼の資産額は確認しています。そのときには、桁が違いすぎてよく分かりませんでした。今は、麻痺しています。億と聞かされても、万くらいに思えるようになりました」 1万クレジットでも大金だ。低所得層であれば年収に匹敵する。今でこそ医師として破格の報酬で雇われているカエラではあるが、必要最低限を心掛けていたジャスティカー時代の感覚は残っているのである。
複数の星系を支配し、星を買い、コロニーを作り、億単位の金を気軽に動かす男。 カエラは、リデアンに見てもらえないのは残念だと思う、上品な虹色のドレスを見下ろす。手触りも着心地もよく、カエラの少し紫がかった青い肌を引き立てる美しいドレスは、やはり大層な額するものなのだろう。だがヴェクタスにとっては、ドリンク一本よりも気軽に買える、ワンコインにも満たないものということだ。 「少なくとも、ドレスくらいは素直にありがたく受け取っておけばいいということですね」 「ええ」 答えたリデアンの声が笑っている。体から力が抜けて、眠そうでもある。そのせいで少し感情が出やすくなっているのだろう。 左手が動いたので、カエラはその手にドレスの裾を触れさせる。 「いい手触りですね」 「本当に。虹色をしています。といっても目障りなものではなく、優しく柔らかな色で、ああ、そうですね。この星の景色を覚えていますか? 霧のかかった日に虹が出たら、こんな色合いかもしれません。正直なところ私は、どちらかと言えば男性性に近い感性をしているのですが、それでもこのドレスには嬉しくなりますよ」
ヴェクタスはそれを承知で寄越したのだと思う。着たくないと思ったなら着なくてもいい、しかし少しでも興味があればぜひ試着してみてほしい、と。 優美で柔らかなデザインだが、露出はほとんどなく、喉を高いところまで覆うカラーや肩を強調するアクセントはカエラの男性的な好みにもフィットする。 他に贈られた2着、紺色の生地に星のような石を少しばかり散りばめたフレアパンツスタイルのものも、鮮やかに白くタイトな印象のカクテルドレスも、どれも気に入ってしまった。 カエラがそんなことも話して聞かせると、 「そう言えば私は、先生の顔を知らないんですね。これほどお世話になっているのに。それに、今のドレス姿も、見られるものなら見てみたい」 その言葉を聞いて、カエラは思わず口元に手を当てた。
なんの益も効もないことを、“したい”、と思ったこと。 他愛もないようでこれは、リデアンの心にとっては極めて大きな変化だった。 いくらヴェクタス・アヴローンでも、これを予想してドレスを贈るほどの千里眼ではない。だとすればこれは、彼にとっても素晴らしい贈り物になったということだ。 「いつか、そうですね。アヴローンさんのことですから、貴方が使える義眼も作るでしょう」 脳神経にほとんど直結するため、危険すぎて今は試すことさえ控えている義眼。だがそれも、この途方もない資産を持つ大商人であれば、いつか必ず作り出す。 「そのときに、きっとお目にかけられますよ」 そのときを楽しみに、とまで未来を語るのは、やめておいた。カエラの言葉をどこまで聞いていたのかは分からないが、入眠しそうなのであれば、無用な刺激などせず静かに休ませてやりたい。 「そろそろ休みましょう」 背もたれにしていたクッションを除き、横にならせる。 間もなくリデアンは眠った。ゆっくりと落ち着いた寝息が続くことを確認して、カエラは傍らの寝椅子に居場所を移す。 そうしてもう少しだけ、読みかけの本を読んでから眠ることにした。