日々彩々 4

 “いったんの成果としては認められても、実際のところはすべてにダメ出しをされたままである”。  というのが、どうも技研の連中に火をつけたようだとヴェクタスは苦笑する。  遠からず本体側の接合部も改良するから慌てて作らなくてもいい、半年程度はかけていいと、送ったレポートには書いたのだが、僅か2ヶ月で彼等は義肢だけでなく本体側の試作インターフェイスまで作って寄越した。主任のにんまりとしたドヤ顔が透けて見えるようだ。

 今のリデアンに適合するように作られた試作3号は、末端の細密な動きは捨ててあった。その代わり、手をついて体を起こす、倒れそうなときにとっさに手をつく、足を出す、ゆっくりと歩くといった基本的な行動にのみフォーカスしてあった。そして、数時間 接続していてもほとんど違和感がないところに辿り着いていた。  ヴェクタスが求めているのは何か、彼等はそこに注目したのだろう。  そして、“多くのことはできなくてもいいから、日常の生活を快適に、安全に過ごせること"だと判断した。そして、こまかな駆動を捨てた分、過大な情報の濾過、軽量化、負荷の軽減に特化し、作り上げた。  そんな自分たちの全力を受け止められる"対"でないなら、そっちも作ってしまえと手を広げてきた。

 医療機関側で開発していた本体ジョイント部とのすり合わせをさせると、最初は専門性が高すぎかつ独自すぎて言語が通じないという珍奇な状態になったようだが、軌道に乗れば早かった。結局のところ、相手も研究者、技術者なのである。  その結果できあがったものは、何度かの技術テストや測定を経て、リデアンが構わないと言うので、彼を被験体にして実際に組み込まれた。  ヴェクタスが勘弁してくれと心底思ったのは、その手術が局所麻酔で行われたことである。

 意識がない状態では、リデアンの持つリーパー組織が働きすぎる。宿主を守るため、防衛反応が強くなるせいだ。 「しかし、以前に人工臓器を組み込んだときには、受け入れたんだろう?」  完全にリデアンの意識がなく、半ば死んだような状態のタイミングだ。生命維持の主導はリーパー組織にあった。 「必要だと判断したのでしょう。外敵として除外するのではなく、補助として受け入れるべきだと。ですが今は、いったんはこれで稼働可能、健常となって調整された体を作り変えるのです。しかも、回復に伴って組織が活性化しているため、抵抗も強くなります」 「なるほ……、待て。ということは、同じことを毎回やるのか? 脚もそうだが、まさか臓器のときも?」 「そうなりますね」  腕や脚の、いわば切断面ならばともかく、胸や腹の中まで。  少しばかり気分が悪くなったヴェクタスだが、リデアンは承知で引き受けているのだ。後はもう、彼の桁外れの精神力と、医師の腕を信じるしかなかった。


 まずは腕だけではあるが、そんな無茶を一つ乗り越えた結果だと思うと、どこにでもあるような田舎町の景色すら感慨深い。  ヴェクタスはリデアンを連れて、膝下であるアウスティア系の惑星アレタヤを訪れていた。“初めての外出"先として選んだのは、この星の南半球にある、なんの変哲もない小さな町だった。  町の名はステイト・セブン。S7と呼ばれる味気のない名前だが、およそ1000年前になるアレタヤ入植から100年以内に開発された居住区である。建物や景観は、古い時代らしいどことない素朴さを保っている。人を呼び込めばそれなりに人気が出そうではあるものの、住民たちにその気はなく、彼等はのんびりとした日常を、この小さな町で送っていた。

 ヴェクタスはこの星全体にかなり強い力を持っている。本来ならば発着場以外に降ろすのは違法、軍事行動中の特例扱いになる星外シャトルを、郊外の空き地に受け入れさせることも通話一本で可能だ。  何故そんな我が儘が簡単に通るのか、リデアンも不思議そうではある。時間があるときに、このアウスティア星系の開発、アレタヤにある地下レールライン網"AUT"についても話してやろうかと思う。  だが今は、ささやかだが緊張のランディングだ。

 出迎えには町長を名乗る婦人と、彼女の夫、息子と思われる者たちが来ていた。  リーパー大戦で大きな怪我をして療養中である友人の、リハビリも兼ねた訪問だと伝えてある。よって、過剰な歓迎は不要というよりも迷惑。AUTを使わず直接乗り付けるのも、彼に長時間の移動が苦痛だからである。当然、会食だなんだに付き合わせられるわけもない。住民たちになにかを伝える必要もない。  田舎の者らしい素朴な善良さで、しかしややお節介になるのは困る。ぜひにと押し付けられてしまった菓子折りは、持って歩くには邪魔になりそうだったので、町長たちが立ち去った後でドレン・ヴァドに渡した。  先に摘まんでくれていいと思うが、この惑星で作られている以上、そしてヴェクタスに渡されるからには、100%右旋性アミノ酸基に適合したものだろう。ドレンには食べられない。

「要冷蔵ではないようですが、念のため、クーラーボックスに入れておきます。では、下ろしましょうか」  ドレンがシャトルに戻ると、まずECSC、リデアン用のメディチェアを下ろす。彼がそれをセッティングしている間にヴェクタスも中に入って、リデアンを抱え出した。  せっかく新調した義肢だが、今回は外出先で不調を起こした場合に対処しきれるかが分からなかったため取り付けておらず、体は軽い。  だが、ユーリシアもヴェクタスの”星”も、重力はパラヴェン基準で0.8G程度であるのに対して、アレタヤは1.07Gある。自分の体だけでも体感で重さの変化が感じられるほどだから、他人の体を抱えようとすると普段より確実に重い。それだけに、いっそう慎重に運び出して椅子に掛けさせ、どこもぶつけなかっただろうかと、ヴェクタスはそれを確認し、ほっとした。

 迎えの時刻を確認し、ドレンはシャトルを離陸させる。彼のことだから、シャトルの改造程度は言わずとも考えてくれるし、手配もするだろう。 「さて」  ヴェクタスは改めて辺りを見渡す。  離れた場所に、巨漢のヒューマンと、小柄なドレルの二人連れが立っている。彼等はヴェクタスの視線に気付くと一つ頷いた。  二人とも、ヴェクタスの専属SPである。通信機や携行する電子武器がリデアンのノイズにならないよう、そしてこの散歩を物々しい行動にしないよう、十分な距離を取るよう指示してある。  その分 警護はしづらいだろうが、付近に怪しいものや異常がないかは、元STGであるドレンによってもチェック済みだ。

 ”安全”を確認した後、そのまま視線を遠くへ広げれば、空は淡いグリーンで、浮かぶ雲は白い。障害物がない場所ということで河原を選んだのだが、踏みしめる砂利はこまかく、水の匂いは豊かだ。  低重力下で2年ばかりを過ごしたリデアンに不快感はないかとうかがうが、寝ている、座っているのではあまり大きな違いはないのかもしれない。彼は少しだけ顔を上げ、風と音を感じているようだ。  ふと風向きが揺らいだ。同時にふわりと、穀物の焼ける香りがした。 「パン屋かな」  それを契機に、移動することにした。

 ヴェクタスは政財界では有名人だし、リデアンは容貌そのものが人目を引く。変装というほどのことはなくても、ヴェクタスは目元を隠すため遮光グラスをかけ、リデアンにはフードをかぶせた。日差しが明るく、やや風があり、少し肌寒い今日ならば、自然な装いだろう。  そうして歩き出してみると、S7は本当にどうということもない、普通の町だ。だが仕事で訪れる先が都会になりやすいヴェクタスにとっては、素朴で穏やかな風景にはむしろ特別感があった。  なだらかな堤防を乗り越えた先には民家が立ち並び、その合間に時折、自営とおぼしき商店が挟まる。案の定パン屋があった。  ほとんどのものが高効率のエネルギーフードになった中でも、こういった食事は"楽しむためのもの"として根強く残っているし、1000年先にもあるだろう。  ヴェクタスはなんとなくそんなことを思うが、リデアンは、と見下ろして気付く。彼に分かるのは音と匂い、そして触れるものの感触だけだと。  広い薄緑色の空もないし、背の低い家並みもない。今着陸した場所も、水の匂いや周囲の音から、水辺が近い、流れているなら川だろうと分かっても、川幅、水の色、砂利の色合い、低い堤防、それらはまったく存在しないのだ。

 館周辺を散歩したときとは違う。  あの場所をリデアンは既に知っていた。だから、昼を示す薄紅の空、夜を示す薄紫の空、青みがかった森、灰青色の湖、光だけを届かせる太陽のことも大きさの違う二つの月のことも、ヴェクタスが少し言及するだけで思い出すことはできただろう。  だがここは闇だ。音や匂いはあっても、目に浮かぶものは何一つ存在しない。 「アレタヤの空は、そうだな、草色と言えばいいか」  だからヴェクタスは、見えるものを口にすることにした。

「雲は水蒸気だし、普通に白い。赤い雲しか出ない星というのもあるが、ここでは白く見える。いい天気だ。風は少しあるが、雲はほとんど動いてないな。上空は穏やかなんだろう。ここは、川辺でね。川幅は、100メートルくらい……いや、もう少し狭いな。あまり深くはなさそうだ」 「ヴェクタス」 「君には見えないだろう。音声ガイドを務めてみようかと思ったんだが、邪魔かな」 「そこまでしていただかなくても、音や匂いは分かります」 「ああ。だが、見える世界に生きていると、それだけでは足りない気がするんだよ。たとえば、絶景と呼ばれるものを見ると、つい言葉をなくして見惚れる。だが、どんなにいい香りを嗅いだとしても、同じようにはならない。それに、銀河有数のオーケストラ演奏にならともかく、日常の生活音に思わず聞き惚れるなんてことはない。だが景色は違う。他愛もないものでも、時折はっと立ち止まることがある。……それを君が失ったことを考えると、語るだけで想像させようとするほうが残酷なのかもしれないが、それならそうと言ってくれ。余計な真似はやめるよ」  リデアンは、 「貴方が疲れない範囲で、そのまま続けてください」  と答えた。

 低い家並みは、パラヴェンで言えばノースタッズの保護区に似ている。おかげでとにかく空が広い。  外壁はおおむね白っぽく、金属よりは石を思わせる見た目をしている。建材は時代に合わせてアップグレードしても、町並みそのものは古い時代の雰囲気を維持しようとしているのだろう。  パン屋はどうやら、朝昼の分をあらかた売ってしまった後で、午後の分を焼き上げたところらしい。大きな窓の向こうにいるのは、トゥーリアンにしては珍しい、かなりふくよかな体型の主人のようだ。 「少し食べてみるか。補助薬も持ってきている」 「いえ。今食べてもし具合が悪くなると、帰ることになりますから」 「そうだな。帰りもここを通るだろうし、そのときにまだ開いていたら検討しよう。とはいえ、焼き立てではなくなるかな」

 田舎の町らしい古くて小さな洋品店もある。アパレルショップという言葉からは光年単位でかけ離れていそうな店で、 「正直なところ、なんというか、下品な派手さで、……悪趣味だな。売れるのか?」  とヴェクタスは思うし、見かけた誰もあんな柄の服など着ていないのだが、店構えを見るかぎり相当年季が入っている。おそらく先祖代々の土地で、地代が、維持費が、人件費が、仕入れと原価率が、とつい考えそうになる。  ああいう店を、あのままの形で存続させる方法というのは、ヴェクタスにはよく分からない。彼は、もっと簡単に効率よく大きく稼げるよう、動かせない要件以外はすべて変えてしまうからだ。 「ある意味彼等も、凄腕の商人ということですか」 「かもしれん。……今度聞いてみるか」 「これ以上まだ学ぶのですか」  リデアンの声にはいくらか呆れと驚き、そして微かな非難がある。これ以上手に負えなくなってどうする、とでも言いたいのを、彼らしく装飾のない言葉にするとああなるのだろう。

 本屋もある。学生らしき姿が見える。棚はかなり高い。だが通路が狭すぎてメディチェアで入ることはできそうにないし、ヴェクタスのような大柄な男が立っていたら後ろを通り抜けられないのではないかと思う。データだけでなく、少し古い型のマトリクスも販売しているようだ。つまり古書も扱っている。  住宅地が途切れると、大きな、といってもせいぜいで4車線の道路の向こうは畑地になっていた。 「さっきのパン屋は、農家も兼業しているのかもしれないな」  ここで穀類を育てていれば、手間はかかるが仕入れにマージンを取られない。家族で事足りていれば人を雇う必要もない。  あるいは、購入していたとしても地産なら安く済む。 「刈り入れ時ではないと思うが、穂の色だけ見れば見事に金色だ。2ヘクタールくらいはあるかな。風になびいて、なかなか壮観だよ。その先の建物は少し背が高い。あれが一棟なら、ショッピングモールか。どうする? まだ昼過ぎだ。それほどの人出はないだろうし、行ってみるのもいいが……」

 リデアンは今でも変わらず、他人には反射的に緊張する。ヴェクタスとカエラが例外であり、馴染んだ医師や看護師たちであれば少しはマシだが、それ以外の相手には過剰反応気味だ。  検査入院中、通路で走ってきた子供の腕がぶつかっただけでも、ただ驚いたとは言えないような反応を見せた。やはり意識の奥、しかし簡単に表面化する位置に、父の拳がこびりついているのだろう。  人が大勢いる場所は、リデアンには間違いなくストレスになる。 「やめておくか」 「はい」 「それなら、こっちに行ってみよう。右折するよ」  畑の別辺を辿ると、見えるのは低い山になる。道を行き交うビークルは僅かだし、通行人もほとんどいない。なにがあるのかは分からないが、だからこそ見に行ってみるのもいいと思えた。

 道路の向かい側は住宅地というよりちょっとしたビジネス区画のようだ。単調な建物には案内板も出ている。合間にあるのは、総合内科医院、靴屋、それからエネルギースタンドに、歯科。  口内左右に鋭い複数の牙を持つトゥーリアンにとって、歯科はおそらく最も身近な病院だろう。長いだけに折れやすい。また生えてくるとはいえ、適切に治療しなければ斜めに傾いて口内を傷つけたり、隣の牙に接触して痛みをもたらすこともある。  そう言えば君は右中の牙だけ少し長かったな、と思い出したが言うのは封じた。酷い痛みとして思い出されなくなったというだけで、許されたわけでもないし、傷つけた事実がなかったわけでもないのだ。その最中に気付いた内容を口にするのは、不適切すぎる。

 山の麓にあったのは、公民館とおぼしき建物だった。  住民の集会所として気軽に使える場所のようで、地階には食堂も入っているらしく、まったりとした汁物の香りが漂っている。他には会議室や資料室、多目的ホールがあり、 「ほう。絵画展か」  三階のフリースペースに今は、周辺地域の住民から選考された絵が飾られているらしい。 「気になりますか?」 「まあね。期待はしないが、万一にでも原石が転がっていないとも限らないし、単純に私が気に入る絵がないとは言えない。少し見てもいいかな?」 「ええ。どうぞ」  見る娯楽は、リデアンにはまったく意味がない。だが、それを理由に立ち寄らないとしたら、そのほうが彼には心苦しいだろう。

 幸いエレベーターもあり、運ばれた三階は静かでがらんとした雰囲気だった。  普通に考えて、こんな素人の絵をわざわざ見に来る物好きはほとんどいない。実際、大したこともない手慰みばかりだ。  幼年部は落書き、少年部も大差なく、成年部に特筆すべきものもない。  だが、一枚だけ少し目を引くものがあった。 「これはなかなか……悪くないね」 「貴方がそう言うなら、世間的には”良い”もののように聞こえますが」 「いや、私個人にとっても世間にとっても、”悪くない”だと思うよ。ただ、そう、悪くない。川辺の絵だね。明け方か、日暮れか。抽象画というわけではないが、写実でもない。琥珀の空が一面に広がっている。下に描かれた緑青の水面に、白いのは細い船かな。一艘だけ浮いている。黄金の空には点々と黒く、鳥の影、か。はっきりとはしない。空と川面の溶け合うところが白く輝いて、銀色に光って見える。うん。悪くない。特に空がいいね。筆使いが独特だ。光が零れ落ちているように見える」  一歩離れて見てみても、素人の絵としてはなかなかのものに思えた。もちろん館に持ち込もうとは思わない。この誰かさんを絵描きとするべく支援してみようとも思わない。その程度ではあるが、今見てきた麦畑を思わせるような鮮やかな空の色は印象的で、 「……ん?」 「どうかしましたか?」  もしかして、とヴェクタスは、今度は一歩近付いて絵を見る。そして、 「なんだ、そういうことか」  と言って笑ってしまった。

 自分が気付いたことについて職員に告げるのはやめて、ヴェクタスはリデアンの椅子を押して外に出た。  そして、あの絵が”逆さま”だったことを暴露した。 「逆さ……」 「ああ。降るような金色の空は、風になびく麦畑だ。青い水面は暗めの空。鳥のように見えたのは、畑仕事をしている人の姿だよ」  誰もいないのをいいことに、そっと上下逆にして見た途端、絵は極めて凡庸でつまらなくなった。だからヴェクタスは元のとおりに戻して、そのままにしたのだ。 「本人は確認しに来ていないか、それとも、逆さになっているほうが良く見えて黙っていることにしたのか。いや、もしあれを狙って描いたのなら、なかなかの才能かもしれないな」

 錯覚を招くあの絵を、リデアンが見れないのは残念だと思う。  彼が使える、肉眼と変わりないほど出来のいい義眼というのは、当分先の話だ。やっと腕と脚が実用レベルになったところで、それでも何時間も使うのは勧められない。  だが、前進はしている。  来た道を、堤防の上を選んで引き返しながら、行きとは少し違う景色を語る。見えないまでも、そんな景色の中に出られるようになったのだ。一年前には不可能なことだった。 「毎日こうだとは限らないが、日暮れは濃いブルーだ。あの絵も暮れの情景なのだろうが、それにしても、川に見えるほど重い色合いはいただけないな。雲は下の方が銀色に反射する。都会にいると、空は上にしかないからな。たまには田舎もいいね。開放感がある。だが暗くなるのが早いな。街灯はあるようだが、間隔が広い。眺めている分には風情がありそうだが、これでは少し不自由じゃないのか……?」  と、ヴェクタスが軽く顎に触れたときだった。

「ああ、あんたたち。丁度良かった!」  と堤防下から呼ばれた。パン屋の前だった。  太めの店主が白い紙袋を持って駆けてくる。そして、 「これ、良かったら食べてくれ」  と差し出してきた。 「いただく理由がないのだが……」 「あんたたち、行きに通ったとき、買うかどうか相談してたんじゃないか? でもそっちの兄さんが食えないから諦めた。違うかな」 「ああ。そうだが、何故分かった」 「うちの嫁さん、この間の戦争で腹ァやられてよ。普通のモンは食えなくなったんだ。少しだけなら食えるけど、薬はいるし、それに出先だったら、もしって心配になる。せめて帰りにしようって。だからあんたたちもそうなのかもなって」  だから、こまめに少しのパンを焼いて待っていたと彼は言う。  座っていてもやたら姿勢がいいのも細君と同じで、生粋の軍人だろうと思った。 「兄さんの怪我が、この間の戦争のものかどうかは知らないよ。けど、あんたたちみたいな人が戦ってくれたから、俺たちは今も普通に暮らせてるんだ。だからこれは、せめてものお礼なんだ。と言っても、あんまり食えないだろうけど、でも、体 大事にして、少しでも良くなってくれよな」  受け取った袋は、ほのかにあたたかかった。

 迎えを待つ間に食べることにした。ティラシヤに戻ってからのほうが、具合が悪くなったときには都合がいいのだが、それではすっかり冷めてしまう。 (まあ、普通だな)  特別美味いわけでもなんでもない。だが焼いて間もないあたたかさと、さくりとした食感に弾力のある噛み心地は悪くない。  リデアンもほんの一口、それを長い時間をかけて咀嚼し、ほとんど溶かしてから飲み込んだ。  彼はあれきり黙ったままだ。もともと余計なことなど喋らないタイプだが、なにか物思うように沈黙しているので、ヴェクタスもガイドをやめてここまで来た。  ドレンの迎えが到着するまではあと10分ほどある。 「そういえば」  と、不意にリデアンが呟いた。

「貴方は、いろんな職種の人と関わってきたと言っていましたね」 「ああ」 「私は、軍人以外とはほとんど付き合いがありません。市民ともです。遠征に出るときや帰還したとき、遠くから声援を聞くことはあったとしても。……直接 労われたのは、初めてかもしれません」 「……そうか」 「悪くないですね。自分のしたことが、無駄ではなかったと思える」  銀河を救っておいてか、と言いそうになったのをヴェクタスは堪えた。  自分の行動を義務や責務以上にできない。やって当たり前、できてプラスマイナスゼロ。褒められることでも讃えられることでもないし、感謝さえ、されることではないと思っている。それもリデアンの歪さの一つだ。  だがパン屋のささやかな感謝と気遣いは、思いとして伝わったようだ。

 リデアンには、こうして少しずつ他者と関わり、その歪みを正すことも必要だろうと思う。  だが不用意に出かけて話題になることは避けたい。リデアンは、世間的には死亡したことになっている。知られれば無用な騒ぎになる。  星外散歩はこれからも続けたほうがいいが、場所を選び、慎重に。  今回は何事もなかったと思うが、油断はしないに越したことはない。いざとなればクレジットをねじ込んで塞げる口でも、そもそも開かせないのが一番だ。

「迎えが来ましたね」  見えなくても音が聞こえたのだろう。リデアンが言って間もなく、黒いシャトルがゆるい弧を描いて降りてきた。 「いかがでした、アヴローンさん」  ドレンに問われてヴェクタスは、 「ああ。楽しかったよ。今度は、君にお土産を買える星にしようかな」  笑って答え、訪れたときと同じようにリデアンを抱え上げた。