02
昔付き合っていた相手に、僕の目に世界はどう見えているのかと聞かれたことがあった。気の迷いでうっかりと、このエーテルの視える目について話すこともあった、もう10年も前のことだ。 答えるのは簡単で、すべてのものにエーテルが重なった状態で見えている、だ。強いものは光って見えるし、そうでないものはぼんやり覆われたように見える。 そう尋ねてきたコは、水色のエーテルを持っていた。 人のエーテルは、見た目としてはおおよそみんな同じだ。だがたまに色付きのエーテルを持つ人間がいる。大きめの街を歩くと一日で2人ほど見かけるくらいか。割合としてはかなり小さく珍しいが、色の有無や違いが個性や特性の違いかというとそうではないようで、色の意味するものは30年近くこの目と付き合ってきた僕にも未だ分からない。 たぶんその人の特殊性には何も関係しない。ただ僕個人にとっては、顔立ちが整っているとか腰つきがセクシーだとかいうのと同じで、色つきエーテルには魅力を感じることが多い、というだけだ。
僕がその日、下層西区の港で見かけたのは、立ちのぼって見えるほどの、そして複数の色が絡まり蠢くような異様なエーテルだった。 何かとんでもない遺物でも運び込まれたのかと、好奇心に駆られて見に行った先で知ったのは、それが人の形をしていることだ。つまりはそれは、人間が発するエーテルだった。 今まで一度も見たことがない。ラザハンにいたとき、王宮の奥に何か巨大なエーテルを持つものがある、あるいはいるらしく、それがごくたまに空へと揺らめき立っているのを見たのと同じくらい、かつてない出来事だった。
色に特別な意味や理由がないとしても、だ。そのエーテルの絡まり蠢く有り様は明らかに異常で、どう解釈していいか分からなかった。 普通の人が人の表情を、目が細くなって口角が上がっていたら笑顔だとか、それが自然だとか不自然だとか見るように、僕はエーテルでも同じことをしている。緊張や焦り、動揺、興奮といったものがエーテルの状態で分かる。普通の人に分かりやすく言えば、そいつは今まで僕が一度も見たことのない、人間とは思えないような異様な表情をしていた、ということだ。 王太子テオドリックも大概ねじ曲がったエーテルを持っていた。明らかに精神異常者だが、それでも人の範疇だった。笑うべき場面でないところで歪んだ笑みを浮かべる、気味が悪いが人間の顔ではある。そんな感じだ。 だがこれは化け物だ。人の形だけした化け物。そう確信した僕は、そいつのエーテル、つまり意識が僕に気づかないうちにその場を離れ、ボスのところへ向かった。
リムサ・ロミンサの海賊社会では、力こそが正義だ。力ある者が上に立ち、世の中と人を好きなようにする。強い海賊に取り入れば僕の身は安泰で、そうでないといつ搾取される側になるか分からない。幸い今の僕の宿主は、海賊を食らう海賊、赤鰐と呼ばれ恐れられるゼーヴォルフだった。 善人は気持ちが悪いし疲れるから嫌いだし、悪党も行き過ぎると気分が悪い。赤鰐はその点、敵対すれば下働きにすら容赦せず皆殺しだが、そこまで至らない限り無駄な戦いと消耗を嫌い、趣味的な殺しもしない。それに、何故海賊なんかしているのか分からないくらいに頭もいい。暴力が価値基準の世界ではかなり上等な部類だった。
彼はリムサ・ロミンサの自警団を気取るような暇人ではないものの、あんな異様な人間が入ってきたことなら、知っていて損はないはずだ。 歓楽街のだんだん狭く猥雑になる通りを奥へと抜け、売春宿や故買屋、胡散臭い諸々の店の軒先をかすめ更に奥へ進むと、“沼"と呼ばれる地区になる。大鰐の住む沼だ。悪名高い海賊は、貧乏と怠惰、奇妙な熱狂とどうしようもない諦めが同居したようなそこを根城にしていた。 傷んだ木箱を並べてテーブルにし、タガのなくなった樽を縄で縛って椅子にした、屋根も壁もない飲み屋の前を通ると、 「どうしたよトロイ。いそいそと早足でよ」 ニヤけた口から、煙草で真っ黄色になった乱杭歯を覗かせて年寄りのミコッテが言う。 残念だが今日は遊んでもらいに行くわけじゃない。 「残念ですが、真面目な話です。ボスは"穴蔵"ですか ? 」 僕が彼を名前でなく「ボス」 と呼んだことで、この好色な老人も少しはピリっとしたらしい、口元を引き締めて、一つ額いた頭を後ろへ反らした。
沼だの穴だの、その社会、組織独特の隠語はなかなか面白いが、ともかくそれが彼の家、住処を意味している。 汚い飲み屋の目と鼻の先。少し大きな声で話せばお互い筒抜けになるようなすぐそこだ。大型の軍船を複数隻持つ海賊の住処にしては小さく古い小屋で、壁は薄い漆喰、玄関には軒も戸もない。 「ブラン。いますか」 布を垂らして遮っただけの玄関をくぐると、部屋は一つきり。奥の壁際、部屋の半分近くを占めるほど巨大なベッドの上で、赤鰐ブランスウェルドは読んでいた本から目を上げた。
「港に妙な連中が入ってきました」 近づくと、ブランスウェルドは巨体のルガディンとは思えない身軽さで背を起こし、僕は手首を捕まれ彼の上に引き倒される。 「妙ってのは」 濃い藍色のエーテルは生命力の有り余る強さを示して分厚く、いつもならそれに溺れるのも嫌いじゃない。だがあれはたとえ話だけでも遊び半分にできる何かじゃない。 少なくとも僕はそう感じる。 「悪戯はよして聞いてください。あれは"マジヤバい"ですよ」 なんでもかんでも「すごい」 とか「可愛い」 、「ヤバい」 で片付ける語彙のない連中ならともかく、僕が「マジヤバい」 と言う深刻さを、ブランスウェルドはすぐに察してくれた。
ブランスウェルドは本を脇に置いて頭の後ろで手を組み、視線だけ僕へと寄越す。僕はブランスウェルドの200キロ近い体重を受けてもたわみもしない、そのくせ弾力のあるベッドの端に腰掛けて、今見てきたものについて説明した。 この目についてはもうめったにも人に教えないが、ブランスウェルドには「おまえ、何を見てる」と気づかれてしまった。隠すのも誤魔化すのも無理だとさとってすべて話してある。あの異様なエーテルについて、見えない人にどう言えば"マジヤバ"さが分かるか、言葉を探し選んではみても自信がない。 たぶん僕の感覚はどうしたところで伝わらないだろうが、それでもブランスウェルドは、僕が深刻に考えているという点は、まともに受け取ってくれたようだ。
「つまりそいつは、人間に見えても人間じゃねえってのか?」 「分かりません。 見た目には人間です。ただ、かなり作ってはいるようでしたが」 「作る ? 」 「素晴らしく出来のいいマスク、ですかね。それで顔を覆ってると思います。東方系ミッドランダーの、控えめに言ってもすごいような美男です。でも美女にも見える」 ただそいつのエーテルは、その顔の下から、顔の隙間から揺らめき出していた。
見ていることに気づかれたくなかったのですぐに見るのをやめた。だからこそ整った顔立ちが印象として残っている。あんな"ヤバい"エーテルさえしてなかったら、それがもし見えなかったら、視線一つ、微笑み一つ向けられただけでお付き合いを所望したかもしれない。 「妙なエーテルの、マスク野郎か。だがたしかおまえ、エーテルの色だのには意味がないとか言ってたよな」 「色やその有無には、です。あと濃度は生命力や意志の強さを表しますが、あれは……とにかく異常なんです」 やはり僕の危機感は伝わらない。
危険人物はこのブランスウェルドも含めて世の中にいくらでもいるが、あれは僕が今まで見てきたどの誰とも違うし誰よりも異常な何かだ。 同じものさえ見えたら少しは分かってもらえるのかもしれないが、あいにくこれまで、なんの器具も術式も使わずエーテル視できる誰かに会ったことはない。 それにもし誰か僕と同じような目の持ち主がいて、同じものを見たとしても、大袈裟に考え過ぎだと言うのかもしれない。だからこれは、ただ僕一人だけの確信で、そう思うと自信もなくなってくる。 「何か起こると断言はできません。ですが警戒だけでもしてください」 あのときと同じだ。何をどう言えば伝わるのか。どう言っても無駄なのか。言葉が出なくなる。
僕がこれ以上の言葉を見つけられず黙り込むと、ブランスウェルドは寝転がったまま天井を見上げて束の間考え、 「うちの馬鹿どもに、警戒してると気づかれねえように警戒しろなんつったところで無理な話よ。まずは、俺の網を破るんでなきゃあどうでもいい。様子見だ。が、トロイ。おまえは気付かれねえようにそいつを監視しろ。おとなしく出てくならよしだ] ピンとこないなりに聞き入れてくれたのはありがたいが、冗談じゃないと思った。 「僕がですか。嫌ですよ。あんな物騒なの。 気付かれたらどうなるか」 「うまくやれ。できんだろ?」 口元はにっと笑って信頼を示しているが、深いブルーの目は笑っておらず、命令に従うことだけを要求していた。
僕は彼の力を頼みに寄生しているただの虫だ。庇護者を失わないための返事は一通りしかない。 「分かりましたよ。でも行方不明にでもなったらちゃんと探してくださいよ ?」 そう言うのがせいぜいだった。 「努力はする」 「努力じゃなくて成果の約束をしてください」 「じゃあまずおまえが成果を上げろ。まあ心配すんな。俺の手が届く場所なら、相手が何だろうと勝手はさせねえ。ヤバいときにはここまで戻ってこい。いいな」 君臨する王でなく不敵な海賊の顔になって、ブランスウェルドは灰色の大きな手を僕の顔へ伸ばす。その手に添うと頭を後ろから抱えられ、薄い灰色の唇に連れていかれた。