01 起きたらヴァレス
【開幕】
ついうとうととした後で、はっと目が覚める。 そんな心地だった。 だが目覚めたそこは (……ここは、どこだ……?) 見知らぬ場所だった。
ヴェクタス・アヴローンは、知らない場所に、知らない男たちとともにいた。 馬蹄形のテーブルは上座が明確で、自分がいるのは末端の席だ。隣にいる男も、向かい側にいる者たちも、トップの座にいる男の顔も知らない。 夢を見ているにしては現実味がありすぎて、混乱と動揺を表に出すことは抑え、状況をうかがうことにした。
分かったのは、どうやら軍議の途中だということだ。 (いや待て。私が軍議?) ありえない。ヴェクタスはベーシックプログラムーーー絶対義務として課された20歳までの準備兵役ーーーを終えて以来、軍に関わったことはない。兵士としては最下層、最低限、末端も末端、一人前未満で放棄した。こういう軍議に出るような立場の者が下に伝え、それをまた下に伝えたものを、伝えられる、そういう立場で終わっている。言われるとしたら「おまえたちは今からこれをしろ」という具体的な指示のみだ。 だが今耳に入ってくるのは、A7地区の架橋計画がどうの、住民の反対がこうのという、計画段階の話だった。
なるほど、老朽化した古い橋に代わって、北上した地点に新しい橋を架けようとしているのだが、住民の強硬な反対にあって着手できていないということのようだ。 自分のすぐ隣にいるのが、その現場責任者らしい。”レンティス中尉”と呼ばれている。彼はより上座にいる者たちから説明を求められ……というよりも進捗の遅れについて問い詰められている。 ヴェクタスはかわされる会話から、それぞれの階級を把握、推測する。 (上座の男は……その隣が少佐なら、中佐、だろうな) それより上の者が、こんな局所的な計画の進捗会議に来ることはあるまい。 そして、上座にも限度があるように、下座にも限度がある。現場監督として説明責任を負わされた中尉あたりが、その下限だ。 (とすると、私も”アヴローン中尉”というわけか。ぞっとするね) 軍事嫌いのヴェクタスとしては、自分の名に階級をつけて考えただけでも気持ちが悪くなる。たとえ夢だとしても嫌な気分だった。
それはそれとして、夢ならば、そろそろ破綻してもいい頃である。だが一向に"現実"感が崩れることはない。 そして、自分の服が妙に窮屈なことにも気付いた。オーダーメイドで完全に仕立てられたものを好むヴェクタスとしては、もう何十年も味わったことのない、既成かつ粗製な服の着心地の悪さだ。 目に入る袖飾りも野暮ったい。これは下級将校の軍服で、他の者たちと同じようなデザインなのだろう。 さぞかしみっともないのだろうなと、興味のない軍議はそっと意識からはずし、腕の端末にアクセスした。 これもまた見知らぬタイプの、かつ古臭いデザインだ。だがUIはシンプルで分かりやすい。それをミラーモードにし、せめて首周りだけでも整えようとして、ヴェクタスは絶句した。
そこにいたのは、ヴェクタスではなかった。
よく声を立てなかったものだと、後になって思った。驚きすぎてフリーズしたのが幸いだったのだろう。 そしてマジマジと見知らぬ男の不器量な顔を見て気がついた。 知っている。 この男はーーー自分が知っているよりもかなり若いが、間違いない。 (ヴァレス・トライオス……)
鈍い灰色の外殻に、妙に印象的な金の眼。額殻が分厚く出っ張って見えるうえに顎殻が短く、全体的に厚みがあって……とにかく、男性的ではあるが扁平で鈍重そうな見た目だ。そのうえ右頭側殻の幅まで不揃いという、言ってしまえば醜男だった。 (えー……、……これは、なにかの悪意か?) 若い頃は"銀面の貴公子"などと呼ばれ、社交界の華と謳われたヴェクタス・アヴローンとは、対極にあるような外見だ。 しかし間違いない。モニターに映し出されているのは他人の顔ではなく、ミラーモードで見ている自分の顔だ。 (つまり私は今、ヴァレス・トライオスとして軍議に出ている、ということ……か) 何が何故そうなのかはともかく、どうやらそのようだった。
そしてヴェクタスは気付いた。 端末の日時、時刻表示だ。 銀河年2143年xx月xx日。 年に間違いはない。そしてこの月は……。 (嘘だろう……明日、明後日、明々後日……あと5日で、リデアンの生まれた日か……!?) にも関わらず、話の流れでは、ここにいる連中は反対する住民を「時間をかけて説得」する気でいるらしい。 「地域住民との摩擦を緩和することが第一でありまして……」 「それが第一だと言うなら、具体的にどう説得するかの案を述べてくれ」 厳格というより癇性だと感じる上座から二番目、バスカー少佐と呼ばれる男が言う。それにレンティス中尉は、 「私としては、合意を取り付けるまでは、トライオス少尉ともどもここにとどまり……」 それを聞いてヴェクタスは思わずふざけるなと言いかけた。
かろうじて言葉を飲み込み、うっかり立ち上がることもなく、だが内心で、 (夢だよな? ただの夢だ。たぶんすぐ覚める) と思う一方どうしても夢だとは思えず、 (もしこれが現実なら、あと5日。5日したらリデアンが生まれるんだ。あと5日……) 生まれたその瞬間に父に拒絶され、そのために母からも疎まれて、いっそ捨てられてしまえばまだマシだったと思えるような、悲しい40年を重ねた英雄。
もしーーー。 もし、これが夢ではないのならば。 生まれたばかりの、愛らしい(そこはもう絶対確実であり揺るがないそうでないわけがない)リデアンの姿を見られるかもしれないということであり。 もしこのまま自分が”ヴァレス・トライオス”であり続けることができるなら、あんな悲しく寂しい過去など、絶対に作らない、作らずにおけるということだ。 そのためにもまず、生まれてきたその瞬間から、愛しているよと、伝えてやりたいーーー。
【一日目】
今すぐこんな会議は投げ出して、 「失礼、帰ります」 と言ってとっととこの場を立ち去り、軍も辞める。 それがもうすぐ生まれるリデアンのもとへ駆けつける、一番最速で確実な対処法だ。 だが、さすがにできなかった。 ヴェクタスが考えたのは、そうした場合のトライオス家のことだ。 自分の意識がヴェクタス・アヴローンであるからには、無一文からだろうと億の金を稼ぐ自信がある。親子三人、どうとでも養える。だが、真っ当なトゥーリアン女性である"妻"に、そんな人生が受け入れられるだろうか。 記憶によれば、リデアンの母は貴族系の出身だ。であれば、トゥーリアンとしてのあるべき姿や名誉というものに、強くこだわって育てられている可能性が高い。そんな彼女に、「軍を辞めた、市民ティアも捨てた。親子三人でどこか他の星にでも行って暮らそう」などと言ったら、価値観の大逆転、大崩壊が起こる。 となると、 (5日で片付けるしかない) それがどんな無茶だろうと、今この体が誰のものだろうと、意識が、記憶が、ヴェクタス・アヴローンなのだ。愛するリデアンのためなら銀河も動かす。たとえここが夢だろうとなんだろうと、自分がヴェクタス・アヴローンであるかぎり、それに変わりはなかった。
ヴェクタスはさりげなく手元のタブレットに触れ、幸い端的に整理されているインターフェース、分かりやすいなんの味も素っ気もない命名がされたフォルダから、猛スピードでこの架橋計画の資料を読みはじめた。 必要な工事であるなら行政の決定として実行することもできるのに、何故合意を求めるのか? 住民が合意しないのは何故か? 彼等が拒絶するのは、裏返せば、彼等の求めるものを阻害すると感じるからだ。いくらかは話の中でちらほらと出ているが、その背景を知らなければならない。
「ではなにか? あいつらが言うことすべてにいちいち、軍が応えてやるわけか?」 「い、いえ、そういう意味ではありません。ただ、住民の皆さんが覚えている懸念や不安、そういったものをないがしろにしては」 「それについては、何も問題はないと、必要な資料は各家庭に配布済みです。根拠となるデータもすべて揃えました。むしろ、今工事に取り掛からないこと、元の場所に再建することこそが重大なリスクとなります。何故 反対する必要があるのですか」 「そ、それは、自分に言われても……。住民たちの意見は、この資料にあるとおり……」 「カスクール中佐。これらは正直、意見と呼べるものではありません。ほぼただの難癖です。やはりこれ以上は合意の形成などとりやめて、公使権を用いてはいかがですか」 「それはできないとさっきも言っただろう、バスカー少佐。あのあたりには古い保守条例が生きているんだ。持ち出されると厄介なんだよ」 「だが現状、持ち出されていない、そこが重要だ、バージ少佐。おそらく住民たちも完全に忘れているか、知ってもいないということだ。であれば、その条例の無効化にまず取り組めばいい」 言い争う二人の少佐に、上座の男が、 「それはとるべき手段ではないな、バスカー少佐。同じようなことが、20年ほど前にナラス州、丁度50年前にキノン州で行われている。その結果、どちらも後になって露見して、軍が莫大な賠償を負うことになった。いつかは必ず、誰かが気付くものだ」 落ち着いた声音ではあるが、粗雑な争いを止めるのには十分だった。
沈黙は、チャンスだった。 「末席から失礼いたします。発言してもよろしいでしょうか」 軍議のルールや仕様など、ヴェクタスにはさっぱり分からない。だがどうせ頭の固い権威主義者どもの集まりだ。せいぜい下手に出て身の程わきまえ感を出しておけば、偉そうに許可する可能性が高い。 案の定、バスカー少佐がじろりとヴェクタスを見たが、 「なにかな、トライオス少尉」 打って変わった猫なで声を出した。”理解のある上役”を演じる気のようだ。 それをありがたく頂戴し、ヴェクタスは 「説得の余地はあります」 と断言した。
あるかと思います、あると思います、あると思われます、などといった逃げ道は用意しない。断言。だからこそ、馬鹿なことを言うなという拒絶ではなく、あるなら言ってみろと挑発を引き出せる。 (馬鹿ばっかりだな) こんな誘導にまんまと乗る程度では、心理的な駆け引きなど考えたことすらないのだろう。そもそも人の心理というものについて、考えたことがあるのかどうか。 「住民の意見は、バスカー少佐のご指摘どおりほぼ難癖であるのは否めません。しかしそれは、彼等が話をする、聞くという段階に至っていない証です。それ以前の感情的な反射、反応として受け入れたくないと感じ、それを正当化するために、思いついた反対意見を並べ上げているだけです」 釣れた、とヴェクタスは思う。 「トライオス少尉、いったいなにを」 と斬りつけるように逆サイド、やはり少佐であるらしい、しかし肩書きにしてはかなり若く見える女が言うのを、 「続けてくれ」 この工事責任者であると思われる上座の男、カスクール中佐が押さえた。
ヴェクタスは、作成者がヴァレス・トライオスになっている資料、つまり”自分”の作った資料の不備、不出来をまず詫びた。発言内容の列記にとどめてしまったため、十分な資料とならなかった、と。 「これらの内容には、現段階では大きな意味はありません。重要なのは、何故彼等が、思いつく理由を手当たり次第に上げて反対しようとするのか、その理由です。現場にて直接住民と接している私とレンティス中尉には、実のところある程度察しがついております」 「なに?」 「では何故それを言わずにいたのですか?」 「申し上げにくかったためです」
行政が橋の移設を決め、決定事項として下達する。それ自体はよくあることだが、今回は住民にとっては寝耳に水、あまりにも唐突すぎた。 そのくせ合意を形成すると言うから、やめてほしいという意見を言える、断れるのだと思えば、軍の意向を押し付けるだけで自分たちの意見はまったく聞いてくれない。 だったら勝手にやればいいのに、”合意”しろと言う。まるで、まずいことがあったときの責任を、同意しただろうと押し付けたいかのようだ。 不信を感じるから、合意したくない。したくないのに、しろと迫られる。反感が募る。 「軍の、我々の、一方的なやり方が気に食わないということです」 そんな決定をしそんな進行を選んだのは、実働要員や連絡係として現場にいる中尉程度ではなく、大尉以上の者たちになる。つまり、形ばかり"我々"とは言ったが、 (あんたたちのやりようが、だ) 静まり返った中に、怒りのオーラが電流のように走る、それが目に見えるようだった。
レンティス中尉のほうは、見なくても分かる。善良だが決して頭は良くないこの中尉は、こんなことは考えもしなかっただろう。思いつかなかったから言わなかっただけに決まっている。だが今ここでは、巻き込んで、かつ庇っておいたほうがいい。それに、嫌みな上司にネチネチといじめられる彼のことは、可哀想だとも思う。 これならレンティスが、合意を、理解を、誠意をと繰り返し口にしたのは、上を批判することなく暗に、それこそが大事なのだと訴えたかったため、という解釈ができなくもない。 当のレンティス中尉は青ざめていることだろう。しかしヴェクタスにこの程度の空気は通じない。 「中尉と私に、機会と、それから3日、時間をください。改めて住民と話し合い、必ず、合意を形成してみせます」 色めき立った場の中で、一人だけ変わらず、少し驚いた様子をしただけで、 「分かった。やってくれ」 カスクール中佐が決定を下した。
猶予を切った。やれるものならやってみろと向こうから言い出す前に、こっちから切り出した。 敵対的な心理にある相手は、自分が想定したよりも高いハードルを出されれば、そのまま頷くものだ。 これでヴェクタスは逆に、3日間という猶予と、その”短い”期間中に結果を出すために動く権利を手に入れた。この3日以内なら、多少の無茶はきくということだ。 「ト、トライオス少尉。大丈夫なのか、あんなことを言って」 レンティス中尉は未だにおろおろした様子で振り返る。ヴェクタスは半分は手元のタブレットを、半分はレンティスの背中を見ながら、この頼りない中尉にも些か呆れた。 しかも、ヴェクタス……ヴァレスが視線を向けると、僅かに緊張する。階級は彼のほうが上、そしておそらく年齢も少し上なのではないかと思うが、 (“この男”、とんでもないクソだからな) ヴァレス・トライオスについては1ナノとして良い感情のないヴェクタスである。この中尉も、クソ野郎にさんざん不愉快な思いをさせられているんだろうなと勝手に納得しておいた。
しかし役に立たないのは事実である。レンティス中尉が役に立ったとしたら、さりげなく支部のオフィスに案内させたことくらいだ。 入れ代わり立ち代わり様々な部隊が駐屯するため、オフィスには最小限の設備と人員しかいない。となれば、当然上座がレンティス、 (ヴァレスのデスクはこっちか) 端末のセキュリティが心配だったが、幸い生体認証だった。 レンティスはどうすればいいのかといった様子でまだそこにいる。 自分自身(ヴェクタス)として存分に仕事をするためには、彼はいないほうがいい。“ヴァレス"ならば当然知っていることを尋ねるわけにもいかないとなると、「この資料はどこにある?」と尋ねる役にも立ちそうにないのだ。 「後のことは私がどうにかしますのでどうぞお帰りを」 とでも言いかけた。
が、それはセリオの王”ヴェクタス・アヴローン”には許される態度だとしても、一介の少尉ごときには不遜すぎると思いとどまる。 それに、この見かけこそ立派だがお人好しそうな中尉は、住民からはさほど嫌われていないのではないかと気が付いた。言い方を変えれば、ナメられているということだ。しかし高圧的な軍そのものとして嫌われているよりは、この場合扱いやすい。 (少し情報も引き出しておくか) この問題について、そして、今のヴァレス・トライオスのこれまでについて。 「レンティス中尉。お手数かと思いますが、3日で結果を出すためです。この問題について今一度、最初から振り返りましょう」 ヴェクタス……ヴァレスがそう言うと、いささか挙動不審な様子ではあったが、レンティス中尉は頷いて椅子に掛けた。
ヴァレスは改めて、この架橋計画の資料を読んだ。 細部について確認するふりをして、資料にない部分を話題に振れば、レンティスは案外しっかりと答えてくれる。それにやはり人がいい。彼は住民たちの気持ちが分かるからこそ、強い態度で命令できずにいる。それに、頭は最初に思ったほど悪くない。 「もう決定してるのに合意って、どういうことだよ」 彼はこの任務、住民との合意を取り付けることから始まる現場作業を負わされたとき、真っ先にそう思ったのだ。 ただ、それを上に言えるほど豪胆でも考えなしでもなく、住民を言いくるめられるほど狡猾でもなかった。
彼の様子は、生産量を上げろと言われる一方で、人件費を削れ、設備投資を抑えろ、残業はするなと言われる部門長あたりにそっくりだ。 上の意向を十分に理解しないまま下に伝えて、上下双方の板挟みになるあたりも、そっくりである。 (決定事項に合意が必要な理由に疑問を持ったなら、理由を聞き出してから取り組んでいれば、少しは違ったはずなんだがな) 保守条例とやらのせいで、行政であれ住民の同意なしでは街に手を入れられない、ということ。 (まあそんな街で工事をするのに、先に施工決定したあたりからして間違っているわけだが。おおかた、上の認可が下りた後で誰かが条例の存在に気が付いて、といったところか) そんな上の尻拭いと下の我が儘に挟まれたレンティスの、半ば愚痴、弱音を聞きながら、ヴェクタスは現状を整理した。
幸いなことに、このプロジェクト自体は必要なものだった。 橋の老朽化はもとより、橋桁を支える地盤までが昨年の地震で緩んでおり、見た目以上に緊急性が高い。だからこそ軍としては、移設工事を前提、そして決定事項として動いたのだ。 そこまではいい。住民たちの安全を思ってのことだ。前もって根回しができなかったのも、緊急性の高さのためだろう。 だがそれを、決定後承諾という形になるにも関わらず、話は聞くと言いながら一切聞かずに、ただ頷けと押し付けた。保守条例が生きているから合意が必要なのだということを隠して進めようとしたのも悪手だ。 ヴァレスが心配したのは、“ヴァレス"もそういう態度で住民に接したのではないかということだが、幸い住民への説明はレンティスが受け持っていたようだ。直接尋ねるわけにはいかないが、話の端々から推察するに、ヴァレスは工事の下準備として、古い橋の状態測定や新しい架橋地点の測量といった実務に回っていたらしい。 (大正解だ。こんなのに交渉させたら、まとまる話が断裂する。……まあ、私が知っているよりは、若い分だけ多少はマシなのかもしれんが) つい"未来"のヴェクタスの記憶で判断しそうになるものの、そこは一応公平に見ておくことにした。
会議で耳にした断片的な情報と、資料から読み取れる問題の本質。 (こんなもの、ベテランの店舗スタッフ一人連れてくれば、あっさり片付く"クレーム対応"だぞ) 困ると言いに来た客にそっちが悪いと言わんばかりの態度をとって、余計にこじれた"二次クレーム"状態である。 しかも、そもそもは相手に利がある話、住民の安全を守るためなのだ。そこを最初から丁寧に、しっかりと話をすれば、不便と引き替えにできるものではない、という説得も可能だっただろう。トゥーリアンとはそういう種族である。公益だのなんだのに弱い。それを振りかざされると、個人の欲求や我が儘は出すべきでない空気になる。 それなのに、炎上させるだけさせたものだから、公益という黄金の鉾すら通じなくなっている。 (何故こんなものを私が……) “ヴェクタス"からすると、地方の一店舗で発生したクレームを、現場経験のない管理職が厄介な二次クレームに拡大し、CEOが直々に解決に出てきた感覚だ。
だが不覚にも、少しだけ面白かった。 銀河の一部の実質的な支配者となってしまったヴェクタス・アヴローンにとっては、もう二十年以上も接していなかった"現場"である。 (勘が鈍っていないといいが) つい浮かびそうになる笑みを殺し、ヴァレス=ヴェクタスは姿勢を正して座り直す。レンティスが不安と期待の眼差しを向けてくる。おまえのほうが階級は上だろうがと思うが、60歳を目前にしていた"ヴェクタス"にとっては、30代の兵士など20以上も年下の若者だ。 「では、レンティス中尉、徹夜の覚悟はできていますか?」 尋ねると、彼は大きく二度頷いた。
【二日目】
ヴァレス=ヴェクタスは、レンティス中尉とともに一晩かけて問題を整理し、要点と解決のポイントを洗い出した。 一人でやったほうが圧倒的に早かったのだが、どうせ夜が明けないと動けないのだ。であれば、お人好しな中尉に"仕事"の手ほどきをしてやるのもいいと思えた。 情報をつぶさに見ていくと、いくつか面白いことが分かった。 まず、住民が反対する具体的な内容は、大きく分けて次の3つである。
1つ目は、迂回、遠回りについてだ。 このあたりは古い街で、富裕な家も多く土地も広く一種の特権階級的なステータスがある一方で、近代化がされていない。スカイライン網の整備についても10年ほど前にこじれて決裂し、それ以来現代の車両スペックからすると狭いうえに排熱処理も十分でないまま放置されている。そのため、住民の多くはランドラインを使って移動する習慣になってしまっている。 徒歩や電動サイクルを使う主婦層にとっては、川向うの商店街に行くためこの橋があるかないかでは大違いになる。 よって、橋を移動させてほしくない、あるいはもう少し南にしてほしいという意見がある。 そのうえ、新しい橋ができるのは、古い橋を取り壊した後で、その間はどちらの橋もない。一時的にとはいえ更なる遠回りを強いられる。 これに軍は「必要なことなのだから我慢しろ」という態度を返してきた。 だが現場に赴いているレンティスは、 「俺でさえ、毎日歩くことになったら、橋の一本くらいかけてくれと思う」 住民たちは「非効率」「時間のロス」という言葉を使っているが、彼のこの素直な言葉が、市民の本当の気持ちだろう。専従の軍人として生きることを決めた頑健な男が、そう言うのである。一般市民にとってはもっと大きな負担だということだ。 ちなみにこのポイントについては、対岸の商店側住民からも、客足が遠のくという苦情が出ている。橋が北に移動すれば、そちらの商店に客が流れることになる。そうなったとき自分たちの生活はどうなるんだ、というのは、極めてもっともな懸念だ。
2つ目は、騒音問題である。 以前、緊急時に展開する遮蔽シールド、その際に稼働する大気の浄化装置といった環境設備の補改修を行った際、騒音対策が杜撰であったため住民が非常な苦痛を強いられたという。 そして今回の工事計画においても、そういったケアに関する記述が見受けられない。当然のことだから記載するまでもないと判断したと言われたが、信用できない。今更追記されても信用できない。 調べると実際にそういった出来事はあったようである。 「ただし、40年も昔の話か」 「だな。なんかもう完璧に、言い訳に使えるものなんでも持ち出してきた感じがする」 これではバスカー少佐が「難癖」だと言い捨てるのも無理はない。 この難癖が軍の態度をますます居丈高に、強硬にし、悪循環が生まれたのだろう。 (そういうところまで調べて、書類を作るべきなんだが?) まるでひとごとのようなレンティスに、そこまで調べなかった"ヴァレス”。疲れを覚えるヴァレス=ヴェクタスである。
そして3つ目が、伝統ある橋を取り壊すことそのものへの反対である。 古い街に相応しい古い橋。客観的に見て文化的・歴史的価値はないが、住民たちは強いこだわりを見せている。 「これも、建前だろうなとは思ってる」 軍の意見を突っぱねるために使えるものならばなんでも持ち出してきた、といった部分である。 だがヴェクタスの視点では、 「愛着は、馬鹿にできません。中尉は、ご実家になにか思い出はありますか? あるいは、その近くにあったものでも結構です。樹木でもいいし、店でもいい。それこそ通学で毎日通った橋でもいい。そういう、関わりのない大勢の人にとってはあまり意味のない、けれど自分にとってはいつもそこにあった建物や風物です。それがなくなったら、寂しいとは思いませんか」 「それは……」 「伝統だの文化的価値だの、街の象徴だのというのは、建前でしょう。ですが、なくなったら寂しいという思いなら、本音です。ですが、そう言っても軍の連中には絶対に通じない。個人的な感傷、公益のためには抑えるべき私情だと言われる。だから彼等は、軍が否定できない文化だの伝統だのという言葉にすり替えるんです」 「そうか……。そうだな。俺も、昔遊んでた公園がなくなったとき、もう遊べないのかと思ったよ。ガキの頃、マディスの棚に登ってそこで昼寝してたりしてた。運動神経の悪い奴とか怖がりは登ってこれなかったから、ちょっといい気分で。そういうの思い出したなぁ。もうできないんだって」 しみじみと呟くレンティスは、その目でじっとモニターを見た。自分は、そういう気持ちを想定せず……思いやらずに話をしていたのだと、反省したのだろう。
(このお人好し中尉は、思った以上に使えそうだ) 素朴な若者にほのぼのしてしまう一方で、“銀蛇"はそう計算する。 そして、データの裏にひそむ"煽動者"の特定に取り掛かった。 「煽動者? そんなのがいるのか?」 「間違いなく。正直なところ、勤勉かつ模範的なトゥーリアン市民としては、毎日追加で30分歩けと言われても、不可能なことでないかぎりは受け入れたはずです。非効率だのと大袈裟に言うほど、普段から効率を意識して暮らしていないでしょう。となれば誰かが、素朴な市民に入れ知恵をしている」 そしてそれは、ある程度 先や人心を見通した者の仕業だ。
ヴァレス=ヴェクタスは無記名で集められた住民の意見を整理し、仕分ける。名前はなくとも、書き方や言葉の使い方で書き手の人物像は多少絞り込めるし、誰かの言葉に頷いただけのものを書いているのか、自分の言葉で書き綴っているのかも分かる。 伊達に30年、一日に何十通もメールをさばいてきたわけではない。“ヴェクタス"がVIによるオート返信や要件整理を使わず、ほとんどすべて自分で見ていたのは、だからだ。たとえVIに書かせた定型メールだろうと、何通も見ていればそのVIの癖が分かる。VIの癖は、それをカスタムする主の癖として、やがて浮き上がってくるものだ。 そうして培ってきた読解力にとっては、直筆のアンケートなど赤裸々にも程があった。 「これですね」 やや長い。言葉の使い方が、借り物でない証にこなれている。端的だが、その事務的な文言の背後に高度な思考力と感情がうかがえる。自分の言葉だからこそ、抑えたつもりでもそこに憤りや反感が滲み出ている。書き方のフォーマット、文章の組み立ての癖、表現の仕方。 この意見を、多くの住民がコピーして、自分の言葉であるかのように騒いでいる。 「おそらくは、こっちの商店主の誰かでしょう」 「そんなことまで分かるのか!?」 「軍人と商人と学者と詩人、それぞれ、書く文章にはどうしたところで癖があるものです」 それでいくと、これは商人ではあるが、軍人でもある気がする。だがこれ以上は憶測の域を出ない。
こういったことを一晩かけて整理し、明確にし、そして昼前、ヴァレス=ヴェクタスはレンティス中尉を送り出した。 彼は、人柄がいい。嫌な軍の代表ではあっても、彼個人はそのお人好しと、住民に寄り添った姿勢からある程度は受け入れられているはずだ。だからこそ冷徹な断行ができず押して押されて長引いたのだが、その功罪を、“功"に転換するチャンスを与えてやった。 一晩かけて洗い出し、整理し、ついでに言えばレンティスに背景からしっかりと理解させたこれらの問題、特に感情的なこじれについて、住民に謝罪し、伝え、話し合う。それが彼の役目だ。 レンティスが無能であればヴァレス=ヴェクタス自身が行くしかないと覚悟したが、幸い彼は自発的な思考ができないだけで、物覚えも良ければ理解力もある。具体的なガイドラインが用意され、すべきことの明確な指示があれば、細部は自分で判断して動くことができる、 (現場の人足としては有能だ) というのがヴァレス=ヴェクタスの評価である。
それに、レンティスには将校の階級を持つ軍人特有の居丈高なところがなく、市民と同じ温度感を持っている。共感力もあり、クレーム対応係としても悪くない。 「まずは、住民たちの言い分に耳を傾けて、しっかり"分かって"やることです」 上っ面だけではなく、こういうことなんだな? と理解すること。クレームの過半が、それでほぼ解決する。あとは、こちらからできることを提示し、できないことにはノーと言う。 「『すまないが、それはできない』。それでいいんです。好意的な感情が前提にはなりますが、できないことはできないと言うほうが、誠実だ、信用できると感じる人のほうが多いものです」 そのうえで、解決のためにできることを探そう、俺には決められないけど必ず持ち帰って検討する、そういう姿勢を維持して寄り添う。その「できる・できない」の線引は、ガイドを持たせてやったし、困ったら連絡してくれと言ってある。
(立場が逆のような気もするが、まあ、本人は疑問に思っていないようだしな) ヴァレス=ヴェクタスはオフィスで一人、取り寄せられる限りの資料を取り寄せて、予算案と計画書を作成している。 レンティスが住民を上手く説得してくることが前提になるが、たとえ彼が失敗したとしても、明日 自分自身が赴くまでだ。 だができればレンティス自身に解決してもらいたい。それは、彼の手柄にしてやろうかというちょっとしたお節介であり、なにより、 (“こいつ"が既に嫌な奴認定されていた場合、ハードルが無駄に上がるからな) ヴェクタスはヴァレス・トライオスに心底いい印象も知識も記憶もないので、どうしてもそういう偏見で見てしまうし、それを訂正する気もない。 それに、レンティスは出掛けていく間際、 「すまん。おまえのこと誤解してた。俺のこと馬鹿にしてるんだろうなってずっと思ってたから。けど、ほんとにすまん。こんな頼れる部下、俺にはもったいないな」 そう言っていた。それを聞いても、若いヴァレス・トライオスがヴェクタスの想像と大差ないことが知れるというものである。
そして夕刻。 『トライオス! みんな分かってくれたぜ!』 結果が出たらすぐに連絡してくれ、と頼んでおいたとおり、意気揚々とした通信が届いた。報告の文言としてはラフすぎるが、それが実際のところ、最も正確な表現だろう。 『なんかいろいろ問題も追加されてるけど、大丈夫だ。一緒に解決していこうって話になった。とりあえず送るから、確認してくれ』 「お見事です、レンティス中尉。貴方の人柄あってこその成果です。私は一足先に、中佐に報告にうかがいます」 『え!? もう夕方だぞ、明日じゃ……』 「必要な資料はもう用意してあります。私としては、一刻を争うので。では、失礼します」 『おい、ちょ、トラ……』
一刻を争うのだ。 今のところまだ余裕はあるが、不慮のトラブルやお役所手続きの面倒くささを想定するなら、動きは早ければ早いほどいい。 できれば今日中に軍本営のある首都に戻りたい。さもないと、 (リデアンの誕生日に間に合わない……!) ヴァレス=ヴェクタスはタブレットを抱えて最短コースでカスクール中佐がいるという上階の執務室に向かう。 そして、 「レンティス中尉が、約束どおり住民の合意を取り付けてくださいました」 まさにレンティスは"やってくれた”。おかげで、ヴァレスが彼の成功を前提にして作成した計画書、予算案は、修正する手間も時間もなく提出することができた。
「撤去前に仮設の橋をかける? たしかに、そうすれば不満の多くは解消されるが……」 「予算が現時点でも不足気味であることは承知しています。であれば、経務を説得し増額させるまでのことです」 「それは既にマケット少佐が何度か試みている。今年は放磁季の嵐が酷かったせいで、余裕はないとの話だ」 (マケット……あの若い女少佐か) そして、住民にとっては嫌みにしか見えない詳細なデータ資料を送りつけた主だ。悪気はないのだろうし、有能でもあるのだろうが、視野が狭く自惚れも強い。お得意の数値やデータで相手を説得できないとなったら、”不可能”という単語へとあっさりイコールをつけるのだろう。 「本部へ予算の増額を掛け合いに行きます。委任状をいただけませんか」 説得してみせるなどと、二度も言う必要はない。 それに、この一見茫洋とした中佐は、その階級に相応しいだけの何かは持っている。そう見たとおり彼はヴァレスの宣言と要請に、 「分かった。用意しておこう」 と承認の言葉を返した。
「あ、しておこうではなく、今いただけませんか」 「なに?」 「今から行きますので」 「今から?」 「はい。現状の橋について、実測値は報告したとおりですが、測量を担当した兵からは地盤の緩みや、降水による軟化の懸念など、いくつか気になる報告が上がっています。それも込みの統計とはいえ、私個人としてはできるだけ急ぎたいと思っております」 「分かった。このまま少し待っていてくれ」 「ありがとうございます」 そうしてまんまと委任状をせしめ、ヴァレス=ヴェクタスは―――提出しなかった"本物の計画書"とともに、深夜のフライトに飛び乗ったのだった。
【三日目】
機内で一眠りして目覚めても、ヴェクタスはまだヴァレス・トライオスだった。 だが彼自身は間違いなくヴェクタス・アヴローン、“セリオの王"と呼ばれ、“銀蛇"と恐れられた銀河有数の商王である。 金銭に関する交渉と駆け引きで、たかがトゥーリアンの軍事官僚ごときに負ける要素は微塵もない。 ただし、 (初めて入ったな) と自覚したトゥーリアン軍部本営で、どこに行けばなにがあるのかさっぱり分からないことには困った。 しかも、一般人が来ることなど決してないため、ご親切な地図や案内板は存在しない。 とはいえ来客がないわけでもなく、案内のVIは存在した。幸い彼等は相手が誰だろうと、そんなことにいちいちツッコミを入れたりはしない。案内など必要ないはずの所属軍人が経務部の場所を聞いてきたり、必要な手続きについて質問してきても、素直に答えてくれる。 ただ、不審カウントはされるらしい。生体認証によって本人であることは明らかでも、なんらかの異常は疑うのだろう。 (まあ怪しまれて精神異常にでもされて除隊になっても、私は困らないしな) そういう経緯であれば、いきなり除隊するよりはまだしも納得感があるはずである。
というアダマンチウム製メンタルのヴァレス=ヴェクタスは、VIに教わった東翼の窓口へ向かった。 さて、架橋工事の予算を拠出させるだけであれば、簡単だ。だがヴァレス=ヴェクタスの本物の計画では、それではまったく足りない。はるかに巨額の金を吐き出させるつもりでいる。 ネックがあるとすれば、たかが少尉ごときでは、経理の役人には会えてもその上とは話ができないことだ。 だから"表向き"の計画もまだ処分はしていない。最悪の場合でも、橋の架け替えだけは実現させる。そのためのものだ。だがそれでは"古い橋を壊して新しい橋を作りました。安全にはなりましたが、古い商店はつぶれ、みんないろんなものを我慢しているうちに、やがてそれに慣れてしまいました。めでたしめでたし(?)“でしかない。 面白くない。
ヴァレス=ヴェクタスは可能性ゼロの賭けはしない。 一つだけ手蔓、使えると知っている駒があるのだ。 それは、ジェイナス・ミケリス中佐。”ヴェクタス・アヴローン”にとって、”面白い変なおじさん”だった男である。 貴族の出であるヴェクタス・アヴローンには、少年の頃、社交として付き合った他の貴族というのがいる。ジェイナス・ミケリスもその一人だ。 パーティに出席していても、ヴェクタスのような子供と一緒に抜け出して、中庭でくすねてきた酒を飲んでいたし、飲んでみるかと飲まされた。「めんどくせえな」が口癖で、楽をするために様々な抜け道を作っていた。手先が器用で、廃品パーツを拾って集めてきて、なにやら作っていたこともある。 子供にとっては"面白い変なおじさん"だが、彼は40年の後、少将になっている。今の時点でも中佐であることから分かるとおり、大した切れ者であったことも間違いない。
少尉に過ぎないヴァレスであっても、中佐であればどうにかコンタクトがとれる。そして、会えさえすれば、どれほど唐突だろうと"面白い話"ならば聞いてくれるのではないかという期待がある。あくまでも期待だが。 そしてもしジェイナスが関心を持ってくれれば、母であるアリール・ミケリス准将を動かしてくれる可能性も生まれてくる。 問題は、今ここにいない場合には、どうしようもないことだったが――― (やはり私は運がいい) 人名録から調べたところ、おそらく厄介払いされたのだろう。よりにもよって経務の監査という閑職に回されていた。
であれば派手に騒ぐだけだ。そうすれば、今日が無理でも明日、明後日、必ず彼の耳に入る。入るくらいに派手な、面白い、厄介な話と面倒な談判者になってやればいい。 それに、ここまで来た時点でヴァレス=ヴェクタスにとっての最重要項目はほぼ果たされている。首都に戻ってこれた時点で、最難関はもう突破しているのである。 リデアン・トライオスの誕生予定日は明後日だ。仕事など後回しにして病院へ行けばいい。
だが、乗りかかった船だった。 どうせならなにもかも決着させて、後腐れなくリデアンの傍にいたい。それに、この説得には何日かかかるだろうというのが常識なら、早く終わらせれば終わらせるほど、残りの時間を全部リデアンと過ごすために使える。 そのためなら、道化になるのも迷惑がられるのも知ったことではない。人が死ぬわけでもないのだ。その程度、我慢して付き合ってもらわねばならない。 そんなヴァレスが窓口の下士官とやり合い、さんざん困らせてやっていると、面倒……というより面白そうなことを察知してジェイナス・ミケリスが現れた。
懐かしい、若い”ジェイおじさん”の姿についしみじみしそうになったのは押し込めて、ヴァレスはジェイナス相手にビジョンを述べる。緊急な架橋工事の必要性と問題点、解決のために必要な予算。そこまでは、誰でもする話だろう。 だが、ここからがヴェクタス・アヴローンだ。 「今あの地区に必要なのは、橋一つ二つの改修ではなく、大規模な都市改革です」 下士官は、橋一本のことから何故そんな大きな話になるのか理解できない、自分では処理不可能、追い返そうとしてもまったく通じない、むしろ正当な理由もなしに却下するのかそんな権限があるのかと詰められる始末、半泣きになっていた。だが案の定ジェイナス・ミケリスは、本当に懐かしいニヤリとした悪戯げな笑い方をして、 「面白いな。続きは、お偉方の前で頼もうか」 長くは待たせないから本営にとどまるようにと、そこだけは軍人らしく鋭く言い切って、足取り軽く去っていった。
ヴァレスは、とどまれと言われてしまっては今から産院へいくことは叶わない、という事実にがっかりしただけだ。 これを無視して出掛けて、いざ呼ばれたとき即座に現れないとなり、そのせいでなかったことにされてはたまらない。 リデアンは世界で一番大事だが、それ以下を本気ですべて切り捨てられるなら、ヴァレス=ヴェクタスは一昨日の時点で軍人を辞めているのである。それに、長い年月商売人として仕事をしてきた習性で、仕事上の仁義については(相手が守る限りには)守らずにいられない性分でもあった。途中で仕事を放り出すことは、残念ながらできなかったのである。
【四日目】
ヴァレス=ヴェクタスは、滞留用宿舎の部屋で爆睡していた。 待機、である。
分かってはいた。いくらミケリス親子が二代揃って"厄怪者"と呼ばれたとしても、それは軍の中で、そこから追い出されることなく怪物であったからだ。ルール無用のでたらめができるわけではない。 ジェイナスは母アリール・ミケリス准将を巻き込んで、この面白そうな話を動かそうとしているだろう。 だがヴァレス=ヴェクタスが提示した必要予算は、橋工事の50倍だ。橋だけなら1000万クレジット(約10億円)程度。だが都市開発となると、5億クレジット(約500億)は下らない。 そんな金を動かす計画は、議題にするだけでも簡単なことではない。しかも、橋の話をしていたはずなのに都市。わけが分からないという気持ちは理解できる。
(ああもう、これが私の街、私の金の話なら……っ) たかだか5億である。足りなければもう5億でも50億でも500億でも出せる。セリオの王、銀蛇と呼ばれたヴェクタス・アヴローンにとっては、たかが5億、うっかり道端で落としてもちょっと勿体ないかなくらいのウェイトだ。 それが一般的には莫大な金であることは承知しているし、その金の価値というものも分かってはいる。だが、40兆も入っていたヴェクタスの"財布"にとっては、なんの痛手でもないのである。
そんなたった5億だか500億だかより、リデアンに会いたい。 まだ生まれてきてすらいないのだが、生まれてくるその場に、その一瞬目から立ち会いたい。 そこには、この夢だかなんだか分からないが覚めないままの、理解不能な状態に対する不安と焦燥もある。 このままこれから先もずっと自分が"ヴァレス・トライオス"としていられるのであれば、いくらかの記念的な瞬間を逃したとしてもただそれだけだと言える。 だがもし、こうなったのと同じように、突然"元"に戻ってしまったら? あるいは自分の意識が消滅し、ヴァレス・トライオスに戻ったら? 夢か幻ならなおのこと、5億が5兆だろうとどうでもいい。せめて一目、小さなリデアンを見たいし、幸せになれと抱きしめてやりたい。
と、さんざん煩悶したのだが、できることがなにもないと自分の中で割り切りがついた今、ヴァレス=ヴェクタスは寝ているのである。 軍に登録してある公式プロフィールから確認したところ、ヴァレス・トライオスは現在32歳である。その若い体は頑丈で、一徹や二徹でどうにかなることはない。そのあたり、どれだけ健康を維持し若く見えていたといっても、60目前だったヴェクタスの体よりも快適である。実は立ち居の時に腰が痛むことが……とかいうリデアンにはとても言えなかったこと(バレてはいただろうが)も、まったくない。遠くはいいが手元の文字が見にくくなってきた、なんてこともない。 だが、休めるときには休むのだ。それはヴェクタス自身が30代だった頃、さんざん無茶をして思い知ったことでもある。 そして単純に、何も考えずただ寝て過ごせる時間は至福である。 ぼんやりと目覚めたものの、端末になんの着信もないことを確認して二度寝を決める。 (これでリデアンがいれば言うことはないんだが……) あいにくこの世界の彼はまだ生まれてもいなかった。
【五日目】
(ナイスワークすぎるぞ、ジェイ!) 内心でヴェクタスはガッツポーズしていた。 朝イチでジェイナス・ミケリスから連絡が入った。10時から会議を始めるから、支度をして本営本館の第六会議室に来てくれ、という内容だ。これなら、「今日」というこの日、リデアンが生まれるまさにこの日に、この会議だけでも終わらせることはできる。 リデアンが何時に生まれたのかまでは知らないが、ともかく「今日」会いに行くことはできるはずだ。待機を命じられたら、そのときはジェイナスに正直に打ち明けようと決めている。息子が生まれるから外出させてほしい、と。
ヴァレス=ヴェクタスは身だしなみを確認する。 醜男なのはどうしようもないが、それ以外の見た目は完璧に整える。制服はクリーニング済、レディメイドの窮屈さなりにきっちりと着こなす。 そうして資料を収めたタブレットを片手に、 「VI、第六会議室はどこだ?」 相変わらずその点は不審カウントを上げながらも、ヴァレスは決戦の舞台―――内容と金額を考えれば片手間でいいような話だが、諸々の状況からして絶対に短期決戦で確実に勝利をおさめ終わらせたい決戦場へ向かった。
どうやらジェイナスは、最小限、しかしこれだけで決定権を持つ者を集めたらしい。 (アリばば様。……懐かしいな) 小柄でちんまりとしているが、笑っている顔がなんとなく不気味な女性将校。アリール・ミケリス准将だ。“怪(もののけ)“と渾名され、後に息子ジェイナスとともに"厄怪者"と陰口を叩かれることになる。幼い頃に見かけたときと少しも変わっていない。というよりも、今がまさにその”当時”なのだ。 彼女と並ぶ位置にいるのは、人事・法務あたりの権限を持つお偉いさんだろう。 ジェイナス中佐自身と、隣りにいるのはその上司だと思われる。 あとは、地区の防衛・警備責任者になるだろう人物は間違いなくいるだろうし、工事に関する技術的な懸念点にツッコミを入れられる技官のボスもいるはずである。 そして、実際に施工するとなったら監督責任を負うことになる、工兵隊の責任者だ。 (カスクール中佐……。呼ばれたわけか) そして彼のすぐ隣にいる、白い外殻が枯れたような印象の痩せた男が、おそらくはその上役にあたる"大佐"であり、実務上の総責任者だろう。 あとの二人は、書記官と、 (よく分からんがまあたぶん必要なんだろうな) ともあれ、総勢10名が揃った。
ヴァレスはカスクールの横を指定され、そこに腰掛ける。末席ではあるが、それにしても場違い感が凄まじい。たかだか少尉である。支部での進捗会議ですら、通常であれば出席することはまずない。それが、こんなお歴々に混じってちんまりと。 だが中身は、ここにいる権力者を束にしても敵うかどうかという化け物相手に立ち回ってきた、銀河の商王ヴェクタス・アヴローン。これで少しは対等に話ができそうだ、といったところ。 「では、始めましょうか」 舵取りはアリール・ミケリスのようである。それだけでもヴァレス=ウェクタスには有利と言える。 「本来であれば私が説明すべきなのでしょうが、この件に関しては、立案者のヴァレス・トライオス少尉から説明してもらいます」 カスクール中佐はそう言ってヴァレスを促した。たかが少尉の立案ということは初めて聞いたのだろう。僅かな声が上がる。しかしそこに異を唱えられることはなかった。
ヴァレス=ヴェクタスに、矮小な少尉を演じる気はない。そんな態度では、たかが5億だろうと都市開発という規模の話は通せない。人は、話の内容以前に話し手そのものを見て聞くのだ。 そしてどんな話だろうと、聴衆を惹きつけなければ価値はない。魅力を伝え、魅了する。 そしてこの場においては、美男や美声よりも、堂々たる無骨なヴァレス・トライオスのほうがそれに相応しかった。
まずはここまでの経緯を、ただし「上の無神経と無能で」とは決して言わず、全体の行き届かなさ、実務に当たっている自分たちの至らなさのために、進捗に大幅な遅れが生じていたことを報告する。 その根底にあったのは、古い街に住み続けてきた住民たちの、恒常性を突然 破壊されることへの不安だ。 行き来の不便、客足を失う商店、愛着のある橋を失うことの寂しさ。 それらを正当化するための武器として彼等は、様々な不満や不服、問題点を挙げてきた。その中には言いがかりでしかないようなものもたしかにあったが、その背景をつぶさに検証した結果、 「この地区全体が、再開発の必要な状態に陥っているのだと判断しました」
古いスカイラインや移転制限のある法律、地価のばらつき、一部地主の不当な請求、そういったものを、慣習や過去の事故を理由に長い間放置してきた。それは住民がそう望んだからではあるが、彼等の蒙を啓かなかったことも一因になっている。 だが今彼等は、慣習的な意固地さを捨てて、自分たちの本当の安全や豊かさに目を向けはじめた。 レンティス中尉の親身かつ誠実な説諭のおかげで、今の軍は信じられるのではないかという期待値も高まっている。 だからこそ今ここで、古い街の良さを維持しつつ、より便利に、豊かに作り変える。
エアライン網の整備、スカイカー免許の取得支援、遊んでいる土地の有効活用。 交通網の整備と免許普及率の上昇によって移動範囲が広まれば、休みの日には家族で出かけるという選択肢も生まれやすくなる。その行き先になるレクリエーション施設やショッピングセンターを、今の古臭く資産価値の低いものからアップグレードし、地域住民の利便性と満足度を高めるだけでなく、近隣地域からの集客も目指す。 一方で、地元商店への価値付けも行う。古い街、そのため独特の風情があるのだから、“レトロな商店街"として再編する。無理に移転させる必要はない。隠れた名店探しのような街歩きそのものを楽しめるようにする。そのために、再舗装や歩道の整備も実施する。 それから、あのあたりには子供を預けられる施設がない。それが幼い子供を持つ親の行動を制限し自由を奪っている。保育所や託児所の設置。安全な公園、図書館、博物館、美術館。大掛かりな動物園などは向かないが、住民も観光客も気軽に楽しめるようにしつつ、教育や福祉を充実させる。それらの職員を、希望する住民たちに資格を取らせ、任せることで雇用を生む。
改革を主導するのは軍だが、住民たちにも参与させ、彼等の自主性によって推し進める。 そうすることで人件費を削減しつつ、「私たちの街」を自分たちで生まれ変わらせるのだという、新たな愛着を生み出せる。 これが現実に可能だという、具体的なガイドライン、データ、数字。 そして、住民が豊かになることを贅沢だと感じる面倒なトゥーリアン軍人の典型のためには、軍への信頼の回復、官民一体となった都市開発の成功事例を作る意義、そういったあたりをくすぐってやる。 「モデルケースを作ることは、今後の都市開発における閾値の検証にも役立ちます。そういったことも含めて、間違いなくこれは、未来への投資です」
ほとんど気圧されぽかんと聞いていた連中だったが、さすがにこの場に集められたプロ中のプロではあるらしい。かつ言えば、ミケリス母子は「実現させること」を前提に人選したのだろうと思われる。肩書だけのお飾り役人はおらず、それぞれに有能なようだ。質問や指摘は的確で、くだらない皮肉や嫌味はなく、慎重すぎて厄介ではあっても納得がいけば引き下がる。 技術的な面についてはカスクールと、その隣のレクトルス大佐が適切な回答をしてくれた。 (ほう……) それにはヴァレス=ヴェクタスも感心した。レクトルスは現場を知っている。叩き上げだろう。だからこそ、なにができてなにができないか、はっきりと答えられるし、その際に浮つくことがない。 そして細部について彼はカスクールに尋ねる。するとカスクールは、資料も見ずにすらすらと日時や出来事、実際の数字を答えていく。進捗会議でも過去の事例を持ち出して「やめておけ」と諌めていたが、彼はどうやら並外れて記憶力がいいらしい。
やがて一通りの質問と回答も出揃って、残ったのは、当初の5億よりもやや増えた推定予算。 ここでそれを理由に止められるなら、いっそ私がポケットマネーでと言いたくなるが、あいにく今はヴァレス・トライオスである。 やがて、 「いいわね。少なくとも私には反論できる箇所がないし、反対する理由もないわ。レクトルス、あなたこれ、おやりなさいよ。成功すれば、間違いなく出世の足掛かりになるわよ」 アリール・ミケリス准将の鶴の一声が発せられ、それに反対する者はなかった。 「大役ですが、お引き受けします」 ティラン・レクトルスがそれを引き受けたことによって、ヴァレスは無事に、必要になる予算を勝ち取ったのだった。
だが。 そ ん な も の は ど う で も い い の だ。 今こうしてパラヴェンの中心、首都にいるのは、こんなどうでもいいことのためではない。 話が決まった以上、そして計画の実行権限が正式に本来持つべき大佐殿へと渡された以上、一介の少尉はもう必要ない。 幸い今はまだ昼だ。 「では、私はこれで失礼いたします」 それを、 「いや、待て、トライオス少尉。この計画について」 とカスクールに止められたのは、 「それは必ず、後ほど、どれだけでも詳しく、ご説明します。ですが今は、行かせてください」 小細工なしで断ることにした。
聞きたいのは分かる。ヴァレスがオフィスを出るときには、「橋の話」をしていたのだ。それが「都市開発の話」として本営に呼び出された。何事かと思っただろう。そして"本物の"計画書をジェイナス・ミケリスから見せられて仰天したに違いないのだ。だから話を聞かせろと言いたいのは、本当によく分かる。 だが、 「今日、息子が生まれるんです。いやもう生まれたのかもしれませんが、とにかく今日が妻の、予定日なんです。そもそも私が大急ぎでこの仕事を片付けたのも、本営に戻れるように動いたのも、そのためです」 上っ面も表向きも全部投げ出した本音、核心中の核心だ。 これを後回しにしろと止められるなら、こんな軍など今すぐ辞めてもいい、と、間違いなくヴァレス=トライオスの全身から立ち上っていただろう。
「ーーー分かった。行きなさい」 カスクール中佐がはっきりとそう言ったので、ヴァレスは 「ありがとうございます!」 一礼して大股に、ほとんど走るのと変わりない速度で歩き出した。
ヴァレス・トライオスの妻、エドナ・トライオスのいる病院は調べてあった。 信じがたいことにヴァレス・トライオスは、自分のスケジュールや連絡先一覧のどこにも、妻の出産予定日も病院も、何も登録していなかった。妻の連絡先すらないというありえないほど人情味のない連絡リストを見て愕然としたのは、昨日のことだ。前もって調べておかねばと昨日のうちに気が付いて大正解だったのである。 どこの病院にいるのか。誰に聞けば分かるのか。そう考えて、「こんなクズなら、妻のために子供のためにより良い病院をなんて考えもしないはずだ」と思い当たった。よって自宅の最寄り。あとは”自分”の住所を確認し、その近隣で産婦人科がある二つの医院のどちらかだと見当をつけた。 その見込みは当たっており、おかげで今、まっすぐにその病院へと向かうことができる。
昨日通信で確認したところによると、エドナ・トライオスの出産予定日は3日後ということだった。ということは、リデアンは2日早く生まれることになる。まさにそのタイミングに現れるというのは奇妙かもしれないが、普通の夫なら毎日でも妻の様子を見に来て不思議ではないし、たとえ仕事が忙しくても通話くらいするものだろう。 ただ、通話の様子からして、ヴァレスは病院スタッフにすら「なんでこの人が奥さんの予定日を気にかけるの?」と思われているらしい。普通の夫が病院に通信して妻の様子を聞いたなら、「え?」とフリーズされるわけがないのである。 ともあれタクシーを雇って高速レーンを飛ばし、ヴァレス=ヴェクタスは産院ではなく総合医院に辿り着いた。
それなりの、そこそこの、医師にはあたりもはずれもいそうな町病院だ。その受付でついヴェクタスの名を名乗りそうになり、どうにか飲み込んでヴァレス・トライオスを名乗ると、相手は妙なものでも見るような顔つきになったが、分娩室の場所を教えてくれた。 さすがに妊婦もいる場所で周りを見ないほどの無神経はできず、ヴァレス=ヴェクタスはできるだけ急ぎつつも細心に廊下を突き進む。 そして、薄水色のランプが灯ったドアを見つけた。 看護師がヴァレスを見て息を呑む。その顔は、ほんの僅かにではあるが瞬時に強張る。 (このクズ……!!) 必要に迫られてここに来て彼等と接するとき、たったそれだけでもどれだけ相手を不快にさせていたのかが知れる。 (頭がおかしいどころか立派な異常者だぞ) だが今は違う。今までの無作法を詫びる代わりに、できるだけ丁寧に、 「妻は……エドナは、今、中にいるのですか?」 尋ねると、彼女はゆっくりと頷き、 「少し前に、始まりました」 と答えた。
男親はこういうとき、祈るしかない。 ヴェクタスは結婚したことがなく子供もいなかったし、作る予定もなかった。だがそれでも知識としては知っていたそれに、今まさに自分があてはまった。 厳密には、妻というより息子の無事を祈ってしまう。薄情かもしれないが、それが偽りのない真実だ。無事に生まれるはずではあるが、そもそも自分が今、何故かヴァレスであるという極めつけの異常事態なのだ。何が起こっても不思議ではない。 が、やがてーーー。 (……!!!!) 小さな小さな赤ん坊の、キァキァと甲高い、軋るようだがどこか甘い泣き声が耳に届いた。
思わずドアを開けて駆け込みそうになったが、思いとどまる。 どう冷静に考えても考えなくても、分娩後の女性というのはあられもない姿だろう。それに医師の許可もいる。 じりじりして待つと、看護師が、 「先生に、うかがってみますね……?」 と、そっとドアを開けて中へと問いかけた。 間もなく、 「ど、どうぞ、お入りください」 とすかしていただけのドアを開けられ、中へと促された。
ーーー奇跡、だった。 たった2日早く生まれただけとは思えないほど小さな、小さな赤ん坊だ。 それが大柄な女性の腕に、胸に抱かれている。 だが、その女性の様子は明らかにヴァレスを見て凍りついていた。腕が震えている。それが伝わったのか、赤ん坊の泣き声が大きくなる。 (このクソ男!!) ヴェクタスは、近づく前に軽く手を前に掲げ、 「す、すまない。その……、何を言えばいいのか、分からないのだが……」 (そう、ともかく、ともかく、だ) 「よくがんばってくれたな」 ねぎらうべきだ。お産は未だに女性にとって命がけで、医療がどれほど進んでも、絶対の安全や安心のない領域だ。そして、生まれてくる子は事前にどれほど確認されていたとしても、出産のストレスそのもので異常をきたしたり死亡することがある。 赤ん坊が無事に生まれ、母も健康であるというのは、今のこの時代ですら、かけがえのないことなのだ。
「ええと……それでだな。あー……私も、その子を抱いてもいいだろうか?」 小さな、本当に小さな……。 おずおずと差し出された赤ん坊は、大柄なヴァレス・トライオスの大きな手なら、両手に簡単に乗ってしまうほどに小さな命だった。 持っていないように思えるほど軽い。だがあたたかく、泣くのに合わせて小さく動いている。 そしてそれでも、形の良い大きな眼窩、既に完璧な対称形の頭殻、小さく品の良い口元、なにより今は、どんな心の傷もなく、無垢である。 「ああ……“パーフェクト"だ……」 ついヴェクタスの口癖、ただしめったにも口にしない最大の賛辞が、そして同時に、こらえがたく湧き上がった涙が零れた。
「リ……、あ、いや。あー……その、この子の名前は、もう決めたんだったか。それとも、今から決めるんだったかな」 「え……?」 エドナの声は低く、やや太いが、響きがいい。美人ではないものの、 「そうか。目元は君によく似ていたんだな」 大きくて切れ長の、優美で魅力的な目元だ。そして、彼女の瞳はくっきりと濃いが、透き通るようなブルー。リデアンの瞳には、ちゃんと両親の色が現れていた。 「すまない。そう、名前だ。……もしかして私が決めたりした? その、ちょっと今、いろいろあって、混乱してしまっていて」 「は、はい、いえ。名前は……貴方が、任せるとおっしゃったので、私の祖父が……」 祖父。自分ではなく、その両親でもない。ヴェクタスはすぐさま考える。だとすればエドナの祖父は、暴君ヴァレスとある程度対等に構えられる存在なのだろう。 「で、たしか……聞いたんだったか? そう、聞いたような気がする。リデアン、で良かったか?」 エドナの顔は、怪訝と警戒にしかめられる。 (このクソ、自分の息子の名前も聞いてなかったのか!?) だがどう思ったにせよそれをヴァレスに言えるエドナではないようで、ただ「はい」と頷いた。
意味は分からない。 理屈も分からない。 夢なのか現実なのかも、なにもかも分からない。 だがまだ覚めないのなら、この小さな赤ん坊を、 (君を幸せな……それが無理だとしてもせめて、普通の子供には、してやれる) 殴られることに怯えることなく、少なくとも父に愛される子供には。
英雄になんかならなくてもいいし、なんなら軍人でなくてもいい。 素晴らしい素質と才能を持って生まれ、なにをするかはこの小さな命の自由だ。 (そして"私"は、その自由を支え、叶えるためにいる) こうなっても相変わらず、上っ面の嘘を誓えない”ヴェクタス”は、君を幸せにするとは口にできない。代わりに、 「リディ。君を幸せにできるように、精一杯 努力するよ」 そう告げてヴェクタスは、手の中の小さな命に、そっと口元を触れさせた。
(……ん? え? 私、親? 親?? 親……ということは……) 恋人にはなれない、ということだ。 さすがにそれは、銀河のどの種族の倫理も許していない。 (えーーーーーーっ!! ……ま、いいか。その代わり、君の成長をずーっと見守っていられるんだ。それもそれで、他の誰にも許されない特等席だからな)
帰りのタクシーの中で、ヴァレス=ヴェクタスは銀河の株価チャートを次々とスクロールさせていく。 未来の知識があるのは強い。この運送会社は今は小さな辺境の個人経営だが、やがて銀河中に広がるネットワークを築く。こっちの会社は間もなく底を打つが実は数年後に大化けする、こっちの農園は……。 今ではパッとしないトライオス家だが、300年前ならあちこちの要職にその名があり、シンパも多数抱えていた名門軍閥だ。痩せても枯れても腐っても、資産はそれなりにあったのも幸いである。しかも”ヴァレス”の祖父は老衰で死去、父も殉職済みなので、金の使い道に口を出されることもない。 ヴァレス=ヴェクタスは、どこにいくら投資するか、どの株をどれだけ買ってどう転がすかを、計算するというよりほとんど直感で決めて、今動かすべき数字を適所に叩き込んでいく。 (金はいくらあってもいいからな。可愛い子供服に、それから、エドナももっとお洒落をするべきだ。美人は、生まれつくものではなく、“なる"ものだぞ。彼女は、このクソ男と違って、十分以上 美人になれる。お、この靴下、かーわいーいなー。あー、そうか、まだヒューマンはシタデルに来てないのか。彼等の発想力は最高だからな。“ハクサイおくるみ"とか最高に可愛いのだが。いっそ私が開発するか……? いや、一応副業は禁止だしなぁ)
中身は、銀河有数の大富豪、“銀蛇の王"とまで呼ばれたヴェクタス・アヴローン。 子供が生まれて頭がおかしくなったということにして、周囲の戸惑いも困惑も無視し、たとえこの人生だろうと、とことん我が道を行くのであった。