03 みーと鳴くリディ

     【みーと鳴くリディ】

 その日は、リデアンの二歳の誕生日だった。  一歳のときも当然誕生日はあった。だが、幼すぎて当人にはさっぱり理解できず、単に父母が我が子の健やかな成長を確かめ喜ぶ日となった。  だが今年は違う。まだなんとなくではあるだろうが、特別な日だということ、なにか嬉しいことがある日なのだということが、感覚的に分かるはずだ。  音ではなく言葉もぼちぼち出てきて、「こえ、や」(これ嫌)と言うこともあるようになった。イヤイヤ期というほどなんでもイヤイヤではないが、好きなもの、嫌いなものが分かるようになったのである。

 誕生日には、絶対にいい思い出を作ってあげたい。これはヴァレス=ヴェクタスの信念、むしろ使命だった。  かつてのリデアンは、自身の誕生日を「ただ年齢が一つ加わる日」として処理していた。幼い頃、父に「くだらない」と否定されて以来、他人にとっては祝福の日であったとしても自分のものは違うのだと、心を削り落とし無感覚になり無視してきた。  そんな悲しい人生は、絶対に、二度と、断固として、繰り返させない。  よって、そんな大事な日にかぶるような仕事は、絶対に拒否である。どうしても来いと言うなら、除隊届けを出すことに躊躇はない。

 最近では上司も部下もそんなヴァレスのやりように慣れて、あるいは諦めるか協力して、どうにか午後からの休みをゲットできた。  トライオス家にしても妻の実家リクウィス家にしても、「誕生日は契約と宣誓の日」という古臭い価値観が強いようだが、知ったことではない。エドナも、もっとゆるい家庭の、楽しげな祝祭である誕生日を羨ましいと思っていたようで、我が家の誕生日はお祝いの日にするということに心から賛同してくれた。 「見て、ヴァレス」  彼女が帰宅した夫にくすくすと笑いながら示すのは、きれいに飾り付けられた部屋と、ぐちゃぐちゃになって部屋に広がるリースの両方だ。せっかく飾り付けたものを、リデアンが引っ張って壊してしまったらしい。だがそれをもちゃもちゃと無心にいじっている姿が、たまらなく可愛らしい。

 ヴェクタスは、エドナという女性が本来はどれほど優しくあたたかな人物だったのかを思うと、ヴァレスへの憤りが増大する。せっかくの飾りつけを台無しにされても、怒るのではなくあらまあと許して笑っている。自分の努力や工夫の結果よりも、子供の好奇心や自発性を大事にし、心から愛しているという証拠だ。そんな女性の人生を暗黒に突き落とし、その結果リデアンにとっても「愛のない母」にしてしまったのだ。許せるわけがない。  だが今は違う。 「こーら。せっかくママがきれいにしてくれたのに、リディは悪い子だなぁ」  ヴァレスが言うと、 「キラキラきれいだったのよね。ねえ?」  とリデアンの味方をする。素晴らしい女性であり母であり、そして妻だと思う。

 エドナは、着替えを終えてリビングに来たヴァレスにリデアンを預けると、今日の特別なディナーの仕上げに取り掛かる。  出来上がりを待つ間、ヴァレスはソファにかけて膝のうえにリデアンを乗せ、絵本を読んでやることにした。  他愛もない幼児絵本でも、リデアンはまだ内容を理解できないはずだ。だが熱心に絵を見つめていたり、スクロールさせようとすると止められたりする。気になるものができ、ああしたい、こうしたいという自我が出てきたのだ。  『パイジャック・ポイジャック』という知育絵本は言葉遊びと音律が面白く、リデアンのお気に入りの一冊だ。読んでやると、 「“パイジャックのポイジャック、くるんと回って、ほいジャック、そっくり返って、来いジャック”」  リズムに合わせてこっくんこっくんと頷いたりする。もう少し大きくなって文章を喋れるようになったら、一緒に読むこともできるだろう。ヴァレスは今からそれが楽しみでならない。

 幸せで、平穏な昼下がりだった。  ところがその穏やかさは、思いもがけない形で破られた。  ヴァレスに抱えられ、おとなしく絵を見つめていたリデアンが、急に少しぼんやりしたかと思ったら、くりんと上を見上げ、じっとヴァレスを見つめた。 「ん? どうした、リディ。パパの顔がどうかしたか?」  尋ねると、じーっと、じいぃぃぃっと見つめた後で、 「もいて、みー?」  と言った。

(もい?? み??)  リデアンが今発話できるのは、片言の単語をせいぜい二つ三つだ。言葉だけではなにが言いたいのか分からないが、大抵はそのときの状況や前後から推察できる。だがこれはさっぱり分からない。 「もしかして、猫ちゃんの真似かな?」  絵本に猫は出てこないが、幼児の思考はワープ気味である。ヴァレスが言うと、 「み……みーいっ」  なんだろうか。少し怒ったように繰り返す。 「ニャー?」 「み…み、いっ!」 「みゃーん?」 「ちゃーっ! みーっいーっ!」 「カーワイーイナー」  ぱしぱしとヴァレスの腕を叩いてやはり怒っているようなのだが、それが何故かは不明として、みーみー鳴き出したリデアンは格別可愛かった。(親バカ補正MAX)

 しかしである。  じたばた暴れてヴァレスの腕、膝の上から抜け出したリデアンは、ソファから転がり落ちそうになりつつも床に降りると、さっきまで使っていたお絵かきセットにまっしぐら。  そして、ぐるぐる黒い丸と四角と棒でできたヴァレスらしきもの描いた紙の裏に、ーーー文字を、書いた。そして、それをヴァレスへと掲げて見せた。  太いクレヨンで綴られたその文字は、乳幼児が書くにしてはずいぶん整った形で、 『あなたは父ではなく、ヴェクタスですよね?』  と、読めた。       「……えぇーーーっ!?」  思わず声に出して叫んだヴァレス=ヴェクタスは、まじまじと床の上の小さな我が子の、しかし、ほんの少し前までよりあきらかに明確な意思と視線を宿した金青の目を覗き込む。 「ま、まさか……いや、私がこうなったなら、君も、他の誰かも同じようになりうる可能性はあるわけだが……えぇぇぇ!?」 「どうしたのヴァレス、リディになにかあったの!?」  エドナが駆けつけてくる。 「い、いや、なんでもない。その、リディが、計算をね。たまたまかもしれないが、足し算の、答えを言ったように聞こえて」 「あらまあ」  『パイジャック・ポイジャク』には簡単な足し算をする場面もある。ヴァレスはそのページを開き、 「リディ。もう一回だよ? “パイパとポイポ、1たす3は、ポイパイパ?"」 「……?」  リデアンは、きょとんとした顔でヴァレスを見上げ(て見せ)た。 「おかしいな。さっきは4と言ったのだが……」 「きっとあなたの聞き間違いよ。まだやっと二歳なんだもの。いくらリディが賢くても、計算はまだ無理だわ」 「そうか。そうだな」  ヴァレスは笑いながら、キッチンへと戻るエドナの背から、膝の上へ抱えなおしたリデアンへと視線を落とす。と、共犯者とばっちり目が合った。

「……つまり君は……」  とっさにくしゃくしゃに丸めていたお絵描き用紙を広げ、ヴァレス・ヴェクタスは改めてその裏面、そこに書かれた文字を見る。 「リデアン・トライオスには違いないが、ヴェクタス・アヴローンを知っている……しかも、この姿の私を見てそうだと気付くということは……」 「まーいく……、まい……っ、ぅぅ……」 「もしかして、思考はできるがしゃべれないのか?」  こくん。そして少し涙目だ。  どうやら二歳児という極めて低スペックな器に強い影響を受けてしまい、本来のパフォーマンスをまったく発揮できないようだった。

 ヴァレス・ヴェクタスは、エドナが覗きにこないか細心の注意を払いつつ、タブレットのタッチ入力をリデアンに使わせた。  “目覚めた"のは、たった今、ほんの少し前のことだった。気が付いたら"父"の腕の中にいた。だが、そんな父など存在したことはなく、いかれた夢でも見ているのだと思った。  が、夢にしては鮮明で、そのうえ本を読む声が、声そのものはざらざらと嗄れた父のものであるにも関わらず、深く響いて不思議と耳障りではなく、楽しげで豊かな抑揚がヴェクタスを感じさせた。  だから、まさかと思って尋ねたのだ。自分しか使わなかった、呼ばなかった、彼の呼び名で。「もしかして、ヴィ?」と。これを口にするのは世界でただ一人なのだから、彼がもしヴェクタスなのであれば、気付いてくれるはずだと。

 ところが、実際の口からでたのは「みい」。 「まう、しゃめな…ぅぅ…」  うまく喋れない、と言いたいらしい。 「か、かわっ、かわい……っ」  「だから」は「なかー」になるし、「ヴェクタス」は「えう」、せいぜいがんばっても「えーた」になるし……。  ヴァレス=ヴェクタスはちゃんと真面目に聞くつもりでいても、可愛いがすぎて理性が飛び心臓が潰れ卒倒しそうだった。 「ちゃーと、きぃて、くあ、さ…っ!」  目も潤んでしまっている。子供の体が感じる、うまいしかなくて悲しい、腹立たしい、に抗えないのだろう。

「き、聞いてる。聞いてるし、理解もした。それはそれで今後どうするかとか、話し合うべきだと分かってはいるが……」  うるうるの大きな金青の目で、ぷんすこと睨み上げられてはいては……。  撮らずにいられないヴァレス=ヴェクタスと、 「ちゃあと、きぃて……ふぇ……ぇ」  怒るから泣くに移行してしまう、幼児性に逆らえないリデアン・トライス本人。 「あああすまない。分かった、分かったよ。よしよし。いい子だから泣かない泣かない。ママが心配するじゃないか」 「こぉもや、ないの……っ」 「カーワーイーイーーーー」  はたしてこの二人の未来はどうなる!?