04 夫と妻の時間

     【リデアン】

 リデアンは、朝からそわそわと落ち着かなかった。 「あら、どうしたのリディ?」  母エドナはリデアンがいつもと違うことにすぐ気付き、優しく問いかけてくる。 「まー」  二歳児を装って……というより本能(?)に任せて母に両手を上げると、すぐに察して"だっこ"してくれた。

 かつての母は、こうではなかった。  過去のリデアンの記憶の中では、よそよそしく、距離をとり、できるだけ関わるまいとし、そして、助けを求めて見やったとき、目を逸らしいなくなる母だった。  だがそれはあくまでも、暴君によって歪められたものだった。  彼女も悲惨な被害者だった。そう知った今、リデアンにはもう母へのわだかまりはない。たとえかつての母が自分を殺そうとしたのだとしても、それは追い詰められた女性の悲しい逃避と錯乱だったのだ。今の母には、幸せになってもらいたいと思う。

 今日はその一環として決してはずせない、Xデーだった。  エドナの誕生日なのだ。  父ヴァレスはあいにく仕事だった。部下たちはこの日を休みにするためしゃかりきにがんばってくれたが、そんな努力ではどうにもならない案件が入ってしまった。  だが午前中でそれを片付けられればーーー"交渉"などヴァレス=ヴェクタスにとってはお手の物、当然、片付けるに決まっているのだが、昼に戻ってきたら、エドナのバースデーを祝うため、家族でお出かけ、そしてちょと豪勢な食事。そしてプレゼント。

「もう、どうしたのかしら。今日はずーっとそわそわね、リディ」  落ち着かなさをまったく隠せない、二歳児ボディ。もだもだと動いてしまうのを、エドナは「もう」と言いながら楽しみ、愛おしんでいる。  リデアンは、この午後が母にとって良いものになるようにと思うと、もだもだせずにはいられないのだった。


     【ヴァレス】

「帰ったよ」  と玄関で言うと、待ち構えていたようにエドナが現れる。これはリクウィス家で躾けられたものだった。一家の長である父が戻ってきたときは、妻と娘たちは必ず出迎えなければならなかったのだ。  だが今のエドナにとってそれは、しみついた習慣ではあっても義務ではない。 「おかえりなさい、ヴァレス」  声は弾み、明るい。もっと年月が過ぎれば変わるのかもしれないが、今は、パパが大好きな息子を少しでも早く会わせてやるため、抱えて出ずにはいられない、といった風情だ。  そして"父子"は気付かれないようにアイコンタクトした。  作戦、決行だ。

 と言っても、大げさなサプライズをするほどのことはない。  ヴァレスはエドナに、今日の午後は"パパの時間"だが、なにか予定はあるのかと尋ねる。ヴァレスに言うことはなくとも自分の誕生日だ。気の置けない友人と祝うつもりでいる可能性はあった。だが彼女は、 「見たい料理番組があるくらいだわ」  と答えた。  よし、これなら問題ない。そっちは録画すればいいだけだ。 「それじゃあ、今日は三人でちょっと出かけないか? 買い物でもして、それから食事。どうかな?」 「え? ええ、もちろんいいけど……あなたは? お疲れじゃないの?」 「数時間仕事をしたくらいで疲れはしないさ。それじゃあエドナ。今から一時間あげるから、とびっきりオシャレしてくれ」 「えっ?」 「今日は君の誕生日だ。去年はすっかり忘れてスルーしてしまったが、今年はもうリディもしっかりしてるからね。一緒に出掛けて、少しは私にサービスさせてくれないか?」  驚きが、花開くように笑み崩れる。ヴァレスがリデアンを受け取ると、エドナは早足で寝室へと向かった。


 エドナは、ヴァレスが差し出した腕に、嬉しそうに腕を絡ませる。  そして、他愛もない話をする。そんな話をしても煩わしがられないと、今の彼女はもう知っている。安心している。  リクウィス家では、誕生日は宣誓と誓約の日だった。ヴァレスもそのことは既に知っていたが、実際どうだったのかは今はじめて聞くことができた。  祝うという雰囲気は皆無で、厳粛だった。母や自分たち姉妹は、父の前でこの一年を振り返って反省を述べ、次の一年にどう改善していくかを誓わなければならなかった。去年の誓約が果たされていなければ、叱責もされた。

 二人の姉は、それをさも当たり前のように受け止めていたし、“不出来"とみなされることはなかった。だがエドナは、 「三人目で、期待も薄かったんだと思う」  姉たちよりもおざなりに育てられた。その結果、至らないところも多く、もっと"緩い"家庭の生まれの友達もでき、だからこそ、つらかった。楽しく祝う誕生日というものを彼等から知ってしまったからだ。彼女たちは笑顔で話す。だが自分は違う。誕生日が来るのを嫌だと思ってしまう。叱られたくないと、来なければいいのにと、憂鬱になるのだ。  それがつらかったからこそ、リデアンの誕生日を祝いたいとヴァレスが言ったとき、彼女は心から賛成した。 「自分の誕生日も祝ってほしいとは思わなかったのか?」  ヴァレスが問うと、彼女は少し考えて、 「ええ。“私も"なんて……。だって、私のことはもう、終わったことだって。そういえば、変ね。考えても良かったのかしら」

 それを聞いてヴァレスは、彼女もまたリデアンと同じように、自分には関わりのないことだと心を殺し、何も感じないようにして、それが当たり前になってしまっていたのだと知った。そして、自分の誕生日には悲しい、嫌な思い出が刻まれていることも、同じだったのだ。 「それなら、約束しておこう。これからは毎年、リディの誕生日はもちろんだが、君の誕生日もお祝いするよ。忙しくて一緒に過ごせなかったとしても、おめでとうと言うことは絶対に忘れない」  嬉しい、と言う代わりに、エドナはヴァレスの腕をしっかり抱え、頬を寄せた。

 ディナーは一般常識的な範囲で少し奮発したレストランを選んだ。小さな子ども連れでも快く受け入れてくれる場所というのが少なく、 (個室を作って……設備や人件費が高く付くなら価格に上乗せしつつ無駄を削減すればいい。そもそも、家に置いて行けないから連れて来るしかない夫婦もいるんだ。それが子供を理由に入店を断られるとなったら、落胆の矛先は子供にも向くじゃないか。ニーズは絶対に……)  つい"ヴェクタス"が始動しそうになったのはどうにか抑え、予約した店だ。  そもそもリデアンの中身は大人で、体に引きずられて落ち着きがなくなったとしても、他の二歳児に比べれば、実際には何もかもを聞き分けて判断しているのである。お行儀が良く、しかもとびっきりに可愛い。料理を運んできたウェイターに小さな手を振る。心臓発作を起こさせかねない破壊力である。満面の笑顔で手を振り返すのが、職業柄の愛想ではなくなっている。

 更に言えば、微妙にヴェクタス混じりになるヴァレスに、普段接しない他人ほど敏感である。 「ああ。ありがとう。そこに置いておいてくれ」  簡単な謝辞や他愛のない言葉が、愛想よく言われてすら威を滲ませている。“本来ならば礼を言う必要などない者が、わざわざ述べてくれた"ように感じられるのだ。  もとより丁寧で心を込めた接客は、いつもにも増して丁重になり、細心になる。  ヴァレス=ヴェクタスは途中でそのことに気付いたが、まあいいかと気にしないことにした。ついつい、自分がマネージャーやオーナーなら……と考えるのも、とりあえず封印しておく。  今は、エドナが満足してくれればそれでいい。

「素敵なお店だったわね。ね、リディ」  微笑む頬、アルコールで少し青みの増した首筋に、宵の風が心地良さそうだ。 「気に入ったなら、さすがに毎週というのは無理だが、またちょっとした記念日にでも来ようじゃないか」  本当は毎日だろうと可能なことは伏せておいて、一般的な軍人の家庭に相応しい台詞を口に乗せると、エドナは、 「それじゃあ、次はあなたの誕生日かしら」  眩しいものでも見るように、ヴァレスを見上げる。それにヴァレスは、 「いいね。そうしよう。約束だよ」  そう応えて、なめらかな額にそっと口付けた。


     【エドナ】

 憧れていた……、いや、それ以上の誕生日だった。  ほんの少しだけ夢を見て、叶うことなどないと諦めていたものだ。  友人たちとささやかなランチやプレゼント交換をするのが、エドナの誕生日だった。しかしそれも、父や母、姉に知られるわけにはいかないと、いつも隠さなければならなかった。見つかったらどうしようと思うと恐ろしくて、何もしないほうがいいと考えることさえあった。  結婚して環境が変わると、そして、可愛い息子ができると、自分の誕生日などどうでも良くなっていた。  それが今年は、望めるかぎり贅沢に見た夢が実現したようだった。

 エドナの手には、リデアンが選んだというエプロンがある。ほんの二歳では選ぶもなにもないのだが、ヴァレスが言うには、一緒に買い物に出かけたとき、これがいいと言わんばかりに握って離さなかったそうだ。  アイボリーカラーに、大輪のパファニアの花。使うのがもったいないとも少しだけ思ったが、これをつけて料理をすることを思うと楽しみになる。  しかもだ。  夫は更にもう一つ、プレゼントを用意していてくれた。

「これはリディが選んだんだから、リディからのプレゼント。私からは、これを」  リデアンを寝かしつけた後、差し出されたデータカードはパスケースのもので、 「今使っているものも、ずいぶん気に入っているみたいだからね。迷ったんだ。だから、いらなければそう言ってくれ。私が自分で使うから」  言われて、自分のパスケースに思いを馳せる。あれは、自分で買ったものだった。友人の両親がやっているカフェで、少しだけアルバイトさせてもらったのだ。それで得た給料で購入したのが、ワクス・ルキだ。  思い入れはあった。自分は無力ではない、出来損ないではないと、証明したのだから。  だが正直に言うと、今の自分が持つには派手すぎて本当は少し恥ずかしかったし、何より使いづらかった。一昨年、エクストラネット全体に大きなアップデートが入った後、それに対応していないこのパスケースを使おうとすると余計な一手間が必要になったのだ。

 夫が贈ってくれたものをインストールすると、ギラギラとしたメタリックがすっと優しいリーフグリーンに変わった。落ち着いた中にも明るく華やかな色があり、ホロの発光もくっきりとして、明るいのに邪魔にならない。  しかも、 「“ミリー”。UIを元データに寄せてくれ」  ヴァレスがそう言うと、まるきり見慣れない配置だったインターフェースが切り替わり、今までのものにかなり似た姿になった。 「えっ。これ、VI入りなの?」  エドナはついそう言ってしまう。UIを変更できるパスケースは珍しくないが、基本的には手動による設定だし、あまりこまかな変更はできない。そのうえ、思い通りにしようとすると専門知識も必要になってくる。だがVI搭載であれば、マニュアルはすべてそれが知っている。簡単な指示で、できることならばなんでもやってくれる。その代わり、高額だった。どんなに安くても500クレジットはする。

 つい気後れすると、ヴァレスの手が肩に触れた。 「去年の分も合わせてだ。それに、もし気に入って長く使うことになったら、その時間で費用が分割される。たとえばこれを20年愛用したとしたら、毎年たったの100クレジットかそこらになる。そう考えれば、ずいぶん安い買い物じゃないか」 「20……で、100……。2000クレジットも、したの?」 「まあ、それくらいかな。でも、今言ったとおりだ。それに、暮らしていくのが精一杯という家じゃない。若き出世頭、今をときめくトライオス中尉の奥様なら、それくらい持っていてもいいだろう? とはいえ、気に入ってくれればの話なんだが。……どうかな。好きじゃない?」  まっすぐに金色の目で見つめられると、嘘は必要ない、どんな嘘もつく必要などないのだと心にしみる。 「ううん。嬉しい。素敵。こんなのほしかったの。大事にするわ」 「良かった。気に入ってもらえたなら、なによりだ」  低く錆びた、優しい声。  私は今世界で一番幸せに違いない。エドナは愛する夫の胸に頭を預け、それをゆっくりと噛み締めた。