05 ラス・オクトン
【オクトランにて】
【トライオス家、エドナ】
テレビのニュースを見ながら、エドナは血の気が引きこわばった顔で微かに手を震わせている。映し出されているのは一面が火の海になった市街。そして夫は、今まさにそこ、バタリアン軍との武力衝突の起こった植民星にいた。 前線の兵士ではなくとも、拠点や司令部が爆撃されることもある。膠着状態、戦況の悪化、死傷者数……。どうかその中に夫がいませんようにと祈る。 ヴァレス・トライオスは、間もなく大尉への昇進も確実とされる有能な士官だが、本人はあっさりと、自分に軍事の才能はないと言う。戦うのは苦手だし、どう戦えばいいのか、配置や戦況を見ても一向にピンと来ないのだと笑うのだ。 だがそれでも軍人であるかぎり、襲撃されれば武器をとり応戦もせねばならない。苦手だろうと下手だろうとだ。 (どうか、どうか、無事に……お願い……) 震えながら祈る母の背をじっと見て、小さな子供はとことこと部屋へ向かった。
父に頼んで買ってもらった、最新のPCがある。母は、三歳の子には早すぎるわと笑っていた。 電源を入れ起動する。モニターの明かりが部屋を照らす。外照モードに切り替えると、部屋の壁が全面、モニターの代わりとなり無数のデータを映し出した。 小さな手が動くのに合わせてスクロール、拡縮、ピン止め、重ね合わせ。周辺地域と市街のマップ、公的軍事記録、足りないものは、ハッキング。トゥーリアン軍の司令部、兵站線、陣容と、そして兵士たちのタグから分かる部隊配置。そしてバタリアン軍のそれらを取得、および推測。 確認。分析。判断。決断。今は、それに続く行動を、自分でとることはどうしてもできない。だがその代わり今できる行動として、軍事回線にそっと潜り込んで探り、一つの端末をコールした。
【ラス・オクトン】
【光明】
「レクトルス大佐。私に一つ、案があります。お聞き願えませんか」 撤退後、急遽しつらえた司令部は、じめじめした窪地に立てた粗末なテントでしかない。その一つ、作戦本部とした場所に、いかつい男が一人入ってきた。 「トライオス中尉。君はこの場には」 「待て、バスカー少佐。トライオス中尉。案と言ったな? 君に今、この窮状を打破する案があると?」 「失礼します」 現れたトライオス中尉は、テーブルの上に広げられたマップをしばし見渡し、手をのばした。 大きな手が右へ動けばいくつかのマーカーが右へ。左に動けば左へ。 「この3部隊を、東側の尾根へ。この2部隊は、渡河してこちらの湿原へ。次の敵の攻撃に合わせて、個別に撤退させます」 「馬鹿なことを言うな。それでは追撃されれば袋の鼠だ。どこへ逃げる」 「逃げません。あくまでも、撤退という形でこの地点を目指させるだけです。そして……」 なけなしの援軍は追撃部隊と交戦、足止めをする。その隙に、南東の森に追い込まれた部隊は敵包囲を突破し、尾根に移動した部隊と合流、反転。追撃部隊の掃討に移行する。 「いい加減しろ。それはつまり、こいつらが突破できればの話だ。できなければ援軍諸共、掃討されるのは我が軍だろうが」 「させます。森にいるのは私の部下たちです。彼等ならば必ずやってくれます」
【第八小隊】
無音でちくりと、腕に刺激が入る。一斉に着信したのは、意味不明な文字の羅列だ。だがコードを打ち込むと、一文字ずつ変化していく。そこに書かれていたのは、今後の指示だった。 「あら? 中尉からですね。……って、え……っ」 「マジなにこれ。すんごい無茶ぶりしてきたんスけどw けど、無事生きて帰ってこれたら、リーくんだっこさせてやるって……! なにそれ、ウケるんスけどw」 「今この状況で提示する報酬がそれ? ……でも、普通ならふざけるなって話なんだろうけど……、他の部隊の奴等なら、腹立てるか、鼻で笑うところだろうけどさ」 「おう」 頼むからやり遂げて、生きて戻ってきてくれと、書かれていないのに、突き刺さるほど強く感じた。
「それにしても、何でしょうかこれ。『我々には軍神の加護がある。進めば必ず道は開ける』。……軍神?」 「さあな。ともかく、作戦開始はあと2時間後だ。整備して、飯食って、交代で少し寝るぞ」 「ッしゃ! にしてもよ、今ほんとはクソほどしんどい状況のはずだよな? けど俺、あんま疲れてねぇんだよな」 「そりゃあこの三年間、うちらどんだけ無茶な仕事やらされてきたかってことっスよw」 「中尉が仰っていたのは、これだったんですね。『今限界までつらい思いをしておけば、いつか否応なくつらい状況になった時、慣れている分だけ平気でいられる』って」 「ああ。こんなの、第四特区で突貫したのに比べりゃまだまだだろ」 「あれは本当に地獄だったからね」 「あっは! つまり、うちらならいけるってことっスね!」 「みんなで無事に帰って、だっこ権、ゲットしましょう!」 「「「「おう!」」」」
心は一つに、そして、苦境にあっても士気は落ちるどころか漲る第八小隊。 大丈夫。軍神がついている。ちっちゃいけれど。 今ここに彼がいればやるはずの無理と無茶を、代わりにやってくれと、そして、君たちならできると、だからこそ命じるのだ。それは根拠のない信頼ではなく、軍神の目による評価なのだから、間違いはなかった。
【ラス・オクトンの撤退戦】
全滅もありうると懸念された逆境から、鮮やかな逆転劇が起こった。 敵の警戒包囲網を突破した小隊が、ほぼ無傷、そして極めて高い士気をもって前線に戻った。彼等に鼓舞され、追撃部隊の掃討を果たした後は、無様な敗走ではなく着実な撤退戦となった。 被害は小さくはなかった。だが予想されたよりははるかに少なく済んだ。 負け戦で終わった戦いだったが、ヴァレス・トライオスは大尉に叙された。 奇策とも言える大胆な戦略と戦術、そして、極めて精強に鍛え上げられた第八小隊の力戦によって、壊滅的な敗北を回避し多くの将兵の命を救ったのだ。
【戦場の演出家】
【会議】
基地司令部の奥まった一角。重厚な円卓を囲むのは、この拠点の命運を握る将校たちだ。議題は一つ。ヴァレス・トライオス中尉の特例昇進について。 「……以上が、ラス・オクトンの撤退戦におけるトライオス中尉の戦果報告です」 カスクール中佐が淡々と事実を述べ終えると、室内には奇妙な沈黙が流れた。その静寂を破ったのは、データパッドを指で弾いたジャネイ・マケット少佐だった。 「補足させていただきます。この報告書、特に物流と人員の再配置図は、もはや芸術の域です。私の試算では、彼がこの一週間で回避した人的資源の損失コストは、現行の年金支払い額と育成費用を合わせれば、軍予算の実に三%に相当します」 マケットは熱を帯びた瞳で、並み居る上官たちを一人ずつ見据えた。 「兵士一人を失うことは、訓練に投じた数百時間の資源と、彼らが将来生み出すはずだった労働力の完全な喪失を意味します。トライオス中尉を今の階級に留めておくのは、高性能な演算機を紙の重石に使うような、極めて非効率な――非人道的な資源の浪費と言わざるを得ません」 マケットの言葉に、バージ少佐が顔をしかめて胃を押さえた。命を「資源」や「コスト」と言い切る若きエリートの言葉は、現場を預かる彼にはあまりに冷酷に響いた。
そこへ、シェルキン・バスカー少佐が穏やかな、それでいて芯の通った声で割って入った。 「マケット少佐、君の意見は理解できる。だが、『非人道』という言葉は少しばかり行き過ぎではないかな?」 バスカーは模範的な軍人の顔を作り、カスクールやレクトルス大佐へ向けて頷いてみせた。 「我々は数字を動かしているのではない。感情を持つ兵士を預かっているのだ。君が彼の才能に心酔し、ある種の高揚感を覚えているのは分かる。だがその『熱狂』が、規律を乱すこともある。急激な変化は、往々にして現場に混乱を招くものだ」 バスカーはマケットへの深い理解を示すような仕草をしながら、巧妙に論点を「ヴァレスがもたらす危うさ」へとすり替えた。 「現に、第八小隊以外の部隊からは、彼の独創的な――あるいは独断的とも言える手法に戸惑う声も上がっている。彼を今すぐ引き上げることが、本当に彼自身のため、そして一族の名誉のためになるのか……。私は、組織が彼の才能を正しく咀嚼する時間が必要だと考える」 「……バスカー少佐の言う通りかもしれません」 バージが消え入りそうな声で同意した。 「正直、彼が持ち込んだ『時短』や『効率』といった概念に、私自身もまだ追いつけていない。現場の兵士たちが、彼を『異物』として敬遠し始める前に、少し時間を置くべきではないでしょうか」
カスクール中佐は、腕を組んだまま熟考していた。 「能力の面だけを見れば、彼に相応の職責と権限を与えるのが合理的でしょう。しかし……。権限が増えた彼が、今以上の規模で『改革』を始めたとき、我々にそれを制御できる準備があるかと言われれば、否と言わざるを得ない。我々もまた、彼の速度に慣れる必要がある」 最後に、円卓の主、ティラン・レクトルス大佐がゆっくりと口を開いた。 「結論は出たようだな」 レクトルスは、ヴァレスという嵐の正体を誰よりも正確に把握していた。だが、自分の部下たちがその嵐の中でまだ足を踏ん張っている状態であることも承知していた。 「トライオス中尉の昇進は、今回は見送りとしよう。彼の功績は表彰に留める。……ただし、マケット少佐が危惧するように、有能な者の足を引っ張り続けるのは、軍として不誠実だ。我々の組織が彼の速度を受け入れるための猶予期間とする。……異論はないな?」 こうして、ヴァレス・トライオスの「昇進のカウントダウン」は、一時的な停止を告げた。
【いつものヴァレス=トライオス】
「……というわけで、父さんの昇進はなくなったよ。ま、中尉のほうが責任も少なくて気楽でいいさ」 帰宅したヴァレスは、夕食後のリビングでリデアンを膝に乗せ、あっけらかんと報告した。エドナは「そんな、あんなに頑張っていらしたのに……」と申し訳なさそうにしているが、当の本人はどこまでも晴れやかだ。 すると、膝の上で小さな積み木をいじっていたリデアンが、ふと手を止めて見上げてきた。 「……でも、ぱぱ」 「ん? なんだい、リデアン」 「たいいのほうが、お外に、でかけなくてもすみますよ?」 ヴァレスの動きが止まった。 管理職。デスクワーク。本営勤務。 大尉に昇進していれば、急な出撃や、泥臭い現場の任地に泊まり込む頻度は劇的に減っていたはずだった。それはつまり、リデアンと一緒にいられる時間が物理的に増えることを意味していた。 「……あっ、そういえばそうか!?」 盲点だった。軍閥の看板など興味がないあまり、階級に伴う「勤務形態の変化」という実利計算を疎かにしていた。 「……いや、まあ、でもいいか。責任が増えるのも面倒だしな。デスクで偉いさんたちの機嫌を伺うより、今はまだ中尉のままで、現場をさっさと終わらせて帰ってくるほうが性に合ってるよ」 ヴァレスはリデアンの頭を撫で、内心で「危ないところだった。危うく書類の山に埋もれて、この温もりを感じる時間を削られるところだった」と、別の意味での安堵を覚えるのだった。