06 幕間

     【ある日のヴァレス】

 ヴァレス=ヴェクタスは、自分が"ヴェクタス・アヴローン"としてリデアンと接していたときのことをできるだけ持ち出さないようにしている。  何故なら、今とそのときとではあまりにも状況が、関係が異なるからだ。  かつてはパートナー……恋人であり、伴侶だった。だが今は? 親子なのだ。  親子であるのに、恋人・伴侶として接していたときのことを持ち出すのは、あまりにも不適切すぎる。たとえ話題でしかないとしても、こんなに小さな、しかも我が子をそうであったと扱うのには、不健全とか不適切とかいう言葉では足りない忌避感を覚える。そのあたりヴェクタスは極めて真っ当な精神の持ち主だった。

 だがどうしても、どうしても気になることがあった。 「ママ。こえ、よんえ」  絵本を選んだタブレットをエドナに渡すリデアン。上手いこと三歳児を演じるものだなとも思うが、基本的には体に引っ張られて自然とそうなるらしい。それはそれとして、ヴェクタスが気になって仕方ないのは、リデアンが未だに、舌足らずな発話をすることだった。  二歳の頃には、舌足らずだなと思っても、そんなものかと気にしなかった。むしろ、喋ろうとすれば大人の語彙を持ち、長文をすらすらと語れることが異常だった。しかし三歳になった今、他の同じ年頃の子供たちに比べて、どうにも発音が幼い。  舌足らず―――、耳にするとヴァレス=ヴェクタスはどうしても、実際にリデアンの舌は短いのだという事実を思い出さずにはいられなくなったのだ。

 トゥーリアンは、アサリやサラリアンに比べれば事実として短い舌を持っている。口蓋の外に出すことはできるが、せいぜいで1cm程度だ。  だがヴェクタスは比較的長い舌を持っていたし、リデアンは、短かった。  だからキスするとき、舌を伸ばすのはいつも自分だった。彼のそれは口蓋の外にほとんど出なかったから、ほんの僅かに覗く舌先に、そうして触れるのが常だった。  舌足らずな小さなリデアンの発話を聞くとどうしてもそのことが頭をよぎってしまう。  たった三歳の我が子の言葉を聞いてキスした記憶を思い出すというのは極めつけに不適切で不健全である。だがこればっかりは、“記憶にある過去の事実"なのだからどうしようもなかった。

 とはいえ、幸いなことにそんな記憶に悩まされる以外には極めて健全に過ごせている。  当初ヴェクタスは、自分の愛情が"父"としてあるべき範疇を越えないかと案じていたのだ。その点何事もなかったあたり、我が事ながら感心した。そういう異常性は持っていなかったんだな、と。  だから今は、えうえう話すリデアンを可愛いと思って見ていられるし、録音して残しておこうと思うだけで済んでいるし、発話が遅れているんじゃないかと馬鹿にしたように言ってくる相手に静かにキレるくらいで片付いている。  エドナは少し心配しているが、大人になれば解消されると知っているヴァレス=ヴェクタスは気にしてない。リデアン自身の記憶によれば、5歳頃には普通に喋れていたはずだということだ。 (だからむしろ、今だけなんだよなぁ、この可愛いの)  と、こっそりまた録音ボタンを押すヴァレス=ヴェクタスだった。


     【ある日のエドナ】

 時折、思う。  これは現実なのかと。  本当は思う。  何かがおかしいと。

 ヴァレス・トライオスはこんな人ではなかった。  ひと目見た最初の瞬間から、好ましいと思ったことは一度もなかった。  だとしても、どうにもならなかった。  自分は家にとってただの道具なのだ。二人の姉に比べて不器量で、取り立てて優れた才能もなく、であれば、相応に"片付けられる"のが自分の未来なのだ。  我慢して、耐えて、堪えて……。  不機嫌な目、検分し突き刺すような眼差し。それがどれほど怖くても、剣呑で冷淡な沈黙がどれほどつらくても、諦めるしかなかった。  自分は、トライオスの血統を残すために使われる産褥。  エドナは自身をそう貶めていた。 「おまえに期待するのは、トライオス家に相応しい男児を産むことだ」  面と向かってそう言い放つ男に、「はい」と言うことしかできなかった。

 だから、自らの中から生まれてきた我が子が、未熟児のように小さかったとき、その、生まれたばかりでも愛らしく整った姿を見たとき、愛らしいと思うと同時に、ぞっとした。  この子をあの人は可愛いと思ってくれるのか。それとも、なんだその出来損ないはと思うのか。  もし、あの人が失望したら? 怒りを覚えたら? そう思うと、こんな小さな子供はなかったことにしてしまいたいとさえ思った。もし時間を巻き戻してやり直すことで、もっと立派な子供を産むことができるなら、そうしたかった。

 だがそんな、母として最悪だと言われても仕方のない恐れは、実現しなかった。

 ヴァレスはまるで別人になった。  小さな小さな我が子を宝物のように大事にした。  エドナのことも気遣い、周囲のあらゆる人たちにも配慮をするようになった。  不機嫌なところを見せることは決してなく、常に快活になった。  決して整った容姿ではないはずが、ただ整っているだけの姿よりもはるかに魅力的に見えるようになった。  息子のこともエドナのことも大切にしてくれる。  あたたかな幸せが、そこにあった。

 ただほんの時折、不安になる。  すべてがなにかの間違いなのではないかと思ってしまう。僅かな齟齬で崩れ去る、華奢なガラスの城なのではないかと。  そして思う。夢なら夢でもいい。それなら少しでも長く見させてほしい。  そして―――もしこれが自分には分不相応の夢だというなら、どうか、その代価を取り立てる前に何もかも終わってほしかった。


     【ある日のリデアン】

 “父"は相変わらず、銀河最強クラスのメンタルで無双している。多少ブレたり一瞬ペースが緩んだとしても、そんなことで前進をやめないのが"ヴェクタス・アヴローン"という男だ。  ヴァレス・トライオスの皮をかぶったところでその本性にブレーキがかかることはなく、擬態を壊さないように加減し調整しながら、目的達成のためノンストップである。  今はまだ銀河という舞台に登壇していないヒューマンの、とある地方にはこんな言い回しがあったはずだ。「無理が通れば道理が引っ込む」。まさにそれだ。  人が変わったようだとしても、だからなんだと押し通してしまう。そして彼は笑って言う。「自分の得になることを拒む者はいない」。だから皆、今のこの"ヴァレス"によって得をすることを選ぶのだと。  もちろん、今のヴァレス・トライオスが自分の得にならない者たちもいる。だが、別人との入れ替わりを疑ったとしても証明ができない。DNAその他を鑑定しようと間違いなく本人なのだから。そして、精神の入れ替わりや上書きを証明することなどできないのである。

 母は、記憶にあるよそよそしい姿とは別人だった。  自分を見る目が、触れる手が優しい。当たり前のように抱き上げて、当たり前のように語りかけてくれる。よく笑い、楽しそうに立ち働く。  これがヴァレス・トライオスに脅かされない彼女本来の姿なのかと思うと、かつての彼女が被った不幸と不遇に痛みを覚える。  そして、そんな彼女がほんの時折、不安げな様子になることにも気付いた。子供の脳では、かつての自分のような洞察や分析は難しい。できなくはないが、高負荷である。それでも直感で、今のこの有り様に対する不安や懸念があるのだろうなとは察せた。

 そして自分は、“幸せな子供"だった。  意識とは別に現実の肉体が、幼い子供という器が、自然で強力な感情を発露する。嬉しい、楽しい、面白い、と。  幸い、悲しいや寂しいはない。ただ、恐れはある。喜びを知ってしまった今、背を向けられたらどれほど恐ろしいのかと。  そんなときについ思い出してしまう。ヴェクタスが撃たれたときのことを。彼が死ぬかもしないと思った瞬間に暴走した自分の感情。恐れ、怒り、そして、凄まじいまでの傲慢。あれは"軍神"の鉄槌だった。彼を傷つける者はすべて滅びてしまえと、実行力を伴う力は"たかが人ごとき"が自分の大切なものを奪うことを許さなかった。  けれど今は、小さな子供だ。  リーパーによる強化もなにもない、多少は非凡でも、あの"軍神"に比べれば平凡な。

 この私は、何になるのだろうとリデアンは思う。  未来が同じになるような選択をすることはできる。軍人になり、上げられるだけの功績を上げ、かつての自分が志願した任務に赴き、同じことをする。デイヴィッド・アンダーソンと出会い、そして……BL128-βでリーパーに遭遇する。  だが、おそらくそれは無理だ。  前提が違いすぎる。今の自分には、溺愛が過ぎて暴走気味な"父"と、優しく愛情深い母がいる。「リーくん」と呼んで構ってくれる者たちもいる。これでは、戦うことしかない自分にはなりようがない。  “かつて"は必要なものしかなかった部屋が、同じ場所とは思えないほど様々な色彩と、“無駄"なもので溢れている。ここから、“かつての自分と同じ者"になれるはずがない。

(そもそも、こんな状態がいつまで続くのか自体、定かでは……)  突然、思考がスローダウンした。  靄がかかったように重くなり、穏やかに沈んでいく。  どうやら考えすぎたようだ。  せめて部屋へ、ベッドへと思ったが、“電池切れ"だった。  眠気に負けて丸くなる。そこにあるのは、言語も思考もない、感覚だけの世界。  あたたかく心地好い眠りの海に、リデアンは漂い流れていった。