09 ヴァレス・トライオス
【ヴァレス・トライオス】
一日中見ていても飽きない。 ヴァレスにとって我が子は、文字通りそういう存在だ。 いろいろと背景や事情があって普通の親子関係ではないとしても、仕事が休みの日、本当に朝から晩まで一緒にいても一瞬として煩わしさを感じることはなかった。 今も、ソファに寝転がった自分の腹の上で、絵本の途中で寝落ちしてしまったのを時折撫でながら、その柔らかな重みとあたたかさがただただ愛おしい。 キッチンから戻ってきたエドナがそれに気付くと、くすっと笑ってバスケットからひざ掛けを取り上げた。 「ありがとう」 ヴァレスはそれを受け取り、リデアンの背中にかけてやる。 エドナは、座る場所のないソファの代わりに、その足元に腰を下ろした。 そして、 「こんな話をするのもどうかと思うんだけど、貴方にはちゃんと、本当の気持ちを話しておきたいの」 と言った。
リデアンが生まれたその日、小さすぎる赤ん坊を見て、恐ろしいことを考えたのだと彼女は告白した。 立派な男児を産め、それがおまえの役割だと言われていたのに、未熟児かと思うほど小さな赤ん坊。しかも、自分にもヴァレスにもまるで似ていない。愛らしさよりも、不出来、いらない、そんな恐怖が胸を占め、不貞を疑われるのではないかとぞっとした。 やりなおしたいと思った。いや、なかったことにしたかった。 「どうかしてた。もし、ほんの少しなにか……なにかあったら私、この子を床に叩きつけるとか、とんでもないことしてたかもしれない」 エドナは涙ぐみ、右手を左手で包むようにする。そんなことなど決してするまいと抑えるように。
「ごめんなさい。こんなこと、言わなくてもいいんだろうけど、でも……」 「いいんだよ。私は、嬉しく思う。この話をしても私が受け止めてくれると、そう信じてくれたんだろう? 私は―――君がそうやって、正直に、誠実であろうとすることも、信じてもらえる自分になれたことも、嬉しく思うよ」 ヴァレスはエドナの肩に手を置いて、ゆっくりと、少しだけ力を込めた。 ヴェクタスとしては、エドナが詫びることなどなにもないと思う。こうして人らしく接しただけで、彼女は素晴らしい母になった。であれば、かつての世界で冷たい母であったのは、すべてヴァレスという男の責任だ。エドナがリデアンをいらないと思ってしまったとしても……殺そうとしたとしても、それは、ヴァレスのしたことなのだ。あの男は、優しい女性をそこまで追い詰め苦しませたということだ。 だから、 「なにより、悪いのは私だ」 詫びるべきは”自分”だった。
「酷い男だっただろう。本当に嫌な、最悪の。そんな私が、君を追い詰めたんだ。だから何もかも、君がしたこと、考えたことではなく、私がさせたことだ。すまなかった。本当に」 「ヴァレス」 「だが、私は変わった。そうだろう? 変われたよな?」 「ええ……、ええ! 他のどこにも、貴方より素敵な人なんていない。大袈裟かもしれないけど、私にとっては本当にそうよ。だからきっと、前の貴方もきっと、何かのせいでそうなってたのよ、きっと」 自分が、暴君のもたらす恐怖によっておかしくなっていたように。 そんな考え方もできるのかと、ヴェクタスは少し驚いた。しかしおそらくヴァレスは、もともとが嫌な男なのだろうと思う。それを口にして、エドナの気遣いを否定することは決してないが。
その代わり、”変わった”理由を作ることにした。 「トライオス家に相応しい子供をと、思っていたよ。たくましくて、丈夫で、有能な。だが……君の予定日が近づいてきたら、どうにも落ち着かなくなった。今までにない、どうにもならないような気分でね。どうでもいい、結果だけ分かればいい。そう思っていたのに、気がつけば、見に行くのは義務だと、自分に言い聞かせていた」 嘘をつくのは得意だ。そうでなくては、銀河の一部を掌握する存在になどなれなかった。 「気に食わなかったら、許さない。そう思っていた。……つもりだった。でも、生まれたばかりのこの子を見たら、そういうものが全部壊れた気がした。世界の中心が、小さな赤ん坊に集約していくみたいな、そんな気分だ。他のことなんてどうでも良くないか? ってね」
それまでの自分にとって大切なのは、家だった。名だった。それに相応しい自分であることと、他者よりも有能で秀でていることを示すことだった。 「それができなければ私は、―――無価値だということになる。だから、なりふりになんか構っていられなかったんだ」 ジリ、と胸のどこかが焼けたような心地がした。 ただの捏造ストーリーだ。ヴェクタスは即興で物語を作っている。だが、 (これは……”あのとき”と同じか) 話を合わせて、ついているだけの”嘘”。だが、もしかすると。
「私には、軍事の才能はない。多少はあったとしても、少なくとも、父や祖父の期待に応えて、トライオスの名声を高められるほどの力はない。それなのに、果たせと、叶えろと求められる。嫌だとは言えない。言えば殴られる。結果を出せなければ失望される。やるしかない。どんな手を使っても」 (いや、もしかするとこれは……) このヴァレスの”肉体”に宿る記憶なのだろうか。 「酷い奴だと言われようと、出来損ないだと見捨てられるよりは、自分は無能だと思い知るよりは、良かったんだ」
だが、今は違う。 そう続けたとき、胸に渦巻いていた不思議な響きは消えた。これは”ヴァレス”としては完全な嘘、微塵も真実の混じらない嘘だからだろう。 ヴェクタスは嘘を続ける。ヴァレスとしての大嘘、しかしヴェクタスとしては偽りのない真実を。 「今の私に大切なのは、この子が幸せになれるかどうかだ。立派になんかならなくてもいい。私のように、そして君のように、なにかに追い立てられ追い詰められたせいでおかしくなるなんて、そんな嫌な経験はさせたくない。ほどほど優秀なほうがなりたいものになれるからいいとしても、……そうだな。いい友達ができるといいな。困ったときに助けてくれる。そういう誰かがたくさんいるほうが、一人でなんでもできる”一番偉い奴”より、ずっといい」 ”かつて”の、あるいは”別の未来”でのリデアンは、孤高の軍神だった。偉大かも知れないが寂しすぎた。 このリデアンを、そんな悲しい英雄にするつもりは、ヴェクタスには絶対になかった。
湿っぽくなった空気を、 「それでまあ、仕事なんて好きにやればいい、評価されようとされまいと、家族三人食っていけるならいいと割り切って、かえって評価されるようになったんだから面白い」 ヴァレスはおどけて肩をすくめる。エドナも笑った。 「出来損ないだとか無能だとか、今の貴方には絶対にない言葉だわ。それに、今の貴方がそうね。貴方のために力を貸してくれる、たくさんの人たちがいるわ」 「そう言えば、そうだな」 「お休み作ってあげたいってがんばってくれたり。仕方ないなって融通をきかせてくれたり。もちろん、貴方がそれだけの結果を出して、務めを果たしているからだけど、そこには絶対、”気持ち”もあるはずだから」
大きな話をし、それにあたたかな結末を得られて、エドナはほっとしたようだった。 お風呂の支度をするわねと、優しくヴァレスの肩に触れて離れる。 軽い足音とともに彼女の背中がリビングから消えると、もぞりと腹の上のリデアンが動いた。 「……もしかして、途中から起きていたかな」 尋ねると、顔を押し付けるように頷かれた。 「ヴァレスも、トライオスの犠牲者ではあるんだろうな。ただ、あの男は何かあれば変わることができたのかどうか」 またこくんと頭が動く。 「なんにせよ私は、君を殴った奴のことなんか絶対に許さないけどね」 きゅっと服を掴まれた。顔が見えないが、幼児の脳では処理のしきれない感情に悩まされているのかもしれない。ヴァレス=ヴェクタスはその背に手を乗せ、ゆっくりと撫でてやった。