10 はつにんむ
リデアンは、母エドナにしがみついて泣いていた。 大声を上げて泣きわめくことはしないが、小さな手でしっかりとエドナの服を握り、ぼろぼろと涙のこぼれる顔を彼女の胸に押し付けていた。 痛い、嫌だ、怖い、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、という感情が渦巻くのに任せて、 「マー……っ、おうち かえう……っ」 浮かんできた言葉をそのまま吐き出す。そうしながら心の奥底では、 (まずいな。これではならないのだろうが) と、大人の思考が働いていた。
リデアンが何故泣いているのか? 話はまず、半月ほど前まで遡る。 なんの変哲もないその昼下がり、仕事が休みで家にいたヴァレスに、エドナが言ったらしい。 「ヴァレス。そろそろリデアンを幼稚園に行かせようと思うの」 と。 リデアンはお昼寝中だったので、その現場は知らない。ヴァレス=ヴェクタスから後になって聞かされただけだ。 「さすがに、乗らないわけにもいかないだろう、この話は」 リデアンの中身が十分以上に大人であることを考えれば、幼稚園になど行く必要はない。だがエドナはその裏事情を知らず、ごく普通の三歳児としてリデアンを見ている。であれば当然、そろそろ同じ年のお友達を作れるようにしなければならないし、社会性を学ばせなければならないと考えるのが、真っ当な親としては当たり前だった。 だからヴァレスもそれに、 「私もそう思っていたよ」 と答えるしかなかったのである。
しかし実際には50歳に近い精神年齢を持つリデアン・トライオスである。いい大人が、三歳児や四歳児に混じって過ごすことになる。 聞いたリデアンもさすがにしばしフリーズした。だが、“今の自分"を振り返ると、それほど無理なことだとは思えなかった。 なにせ、“幼児の体"が強い。その体が発する感情や衝動に任せれば、ちゃんと幼児らしい反応ができる。であればこそ、ほとんど一日中母親といて「賢い子」程度で済んでいるのだ。リデアンの意識、思考そのものは、それを俯瞰しているようなポジションになる。 「つまり、行ってもいい、というわけか」 「あい。そえに、きょうみも あいます」 かつての人生でリデアンは、幼稚園のような場所に通った記憶がなかった。初等訓練校に入るまで、大勢の人たちというのを見た覚えすらない。それが"普通"ではないことすら知らずにいた。であれば、その"普通"を見てみようと思ったのだ。 幼児として振る舞いきれなくなったら、そのときには退園する方法を考えればいい。行きたくないとひたすら駄々をこねることもできる。 そこまで考えて、リデアンはこの"幼稚園ミッション・普通の子"に取り組むことにしたのである。
息子が可愛すぎる父親と、我が子の幸せを心から願う母親としては、通う幼稚園は真剣に選んだ。そうして、教師の評判も良く通いやすい距離にある園を見つけた。申し込みその他の手続きは滞りなく済み、いよいよ初登園―――。 リデアンの意識は、50年の知識と経験があってなお初めてとなる場所へのささやかな緊張を覚えていたが、体は無邪気にママに連れられて行く。 そうして辿り着いた見知らぬ場所、わらわらと存在する小さな子供たち。リデアンは、こんなに大勢の幼児を一度に見たことがなかったことに、実際に目にして初めて気付いた。“普通"であればこういう光景を、これくらいの年の頃に視界に入れて過ごすのかと考える。 その一方で、自分が今までとはまったく違う場所にいることを知った幼児の意識と体が、ひどく落ち着かない焦燥感のようなものを覚えはじめていた。 抑えるべきだろうか、と考える。どう振る舞うべきなのだろうか。だがあいにく、知識がない。幼児性に任せて母親にしがみついていればいいのか、それとも、新しい環境に馴染む努力を始めるべきか。と考えている時点でもう手は母の手を強く握りしめていた。
幸い、教師いわく 「いろんな子がいますよ」 ということだった。 初めての場所、初めての大勢の子供たち。その変化に戸惑って泣き出してしまい、来ただけで帰ることになる子供もいる。一方で、すぐさま自分の遊びたい玩具を見つけて取りに行く子もいる。だからリデアンが人見知りをしたとしても大丈夫だとエドナに説明していた。 「私たちは、上手くいかせようとは考えていません。お友達と喧嘩をしたり、怒ったり泣いたりすることも含めて、いろんな経験をしながら、ただ、危険がないように、行きすぎないように見守るのが役目だと思っています」 そう語る老婦人の園長は柔和で、優しそうだった。
他の教師たちも上っ面の"仕事"をしている様子はない。さすがは、ヴァレスが"ヴェクタス"としての情報収集能力をフル活用して見つけただけのことはある。 と、そんなことを考えながらリデアンは、初日ということでエドナとともに教室に入った。 教室とはいっても、子供たちが自由に遊んでいるだけだ。 (それがこの段階での"学び"ということか) と大人の意識で納得はしていても、体は拒否反応を示している。匂いだ。風景や子供たちそのもの以上に、その子供たちが寄り集まって生じている独特の体臭、それがなにより強烈で、馴染まない。頭では"幼児臭"とでも言うべきかと考えても、体は、くさい、しらない、いや、と反応する。そして嗅ぎ慣れた母の香りを吸い込んで安心し、離れたくないと強く思う。 それを無理に離れさせようとはせず、初日なんだからママと一緒に見ているだけでもいいと、壁際の椅子に誘導される。 (しかし、明日も明後日もというわけにもいくまいし……) どうするべきかと考えた。
そこに、一人の女児が近づいてきた。 大きなライトブラウンの目に、少し幅のある顔立ち。笑うと、大きく頬殻が動く。 「ね。いっしょにあそぼ?」 幼児らしい甲高い声だが、問いかけるような言い方は強さがなく、すっと馴染んだ。 嫌だ、という感覚が薄れる。そして、 「ん……」 差し出された手を、取ろうと思った。
幼児用のタブレットが並んだ"本棚"のところに行き、ピンク色の一台を取り出す。彼女はそれを慣れた様子で操作して、おそらく気に入っているのであろう一冊の絵本を表示させた。 「よめる? よんであげる」 女児のその言葉よりもリデアンは、離れた背後から微かに聞こえる教師と母の会話のほうが気になった。 この子はエアラというようだ。三歳、四歳の子供が集められたこの教室の"おねえさん"で、困っている子や泣いている子がいれば真っ先に気に掛けるという。 (こんなに小さいときから、そういった能力のある子供もいるのか) 端的に言えば、根っから優しく思いやりがあるということだ。リデアンはアンダーソンを思い出す。作っているのでもなく義務感や体裁でもなく、ごく当たり前に人にあたたかく大らかだった男。幼少期からそうであったかどうかは知らないが、このエアラのような子供が、そのまま大人になるというタイプもいるのかもしれない。
と思いつつ、エアラと一緒に本を音読していたときだった。 いきなり横から強く突き飛ばされた。腕に強い痛みが走る。何事かと思って見ると、そこに他の子供たちよりも一回りは大柄な男児が立っていた。 「“くーくー"だってよ! ちび! ちーび!!」 (これは……、もしかして、いじめっ子、というやつか) リデアンは未だにらりるれろや濁音が上手く発音できない。そのため"くるくるまわる"が、“くーくーまーう"になってしまう。どうやら彼はそれを聞いて、馬鹿にすることにしたようだ。 それに、彼が言うとおりリデアンはたしかに小さい。三歳児ではなく二歳児くらいの大きさしかない。 (女児にとっては、保護対象になりやすい……? だが男児にとっては、軽蔑や支配、征服の対象ということか……?)
それはそれとして、 (この場合、どうするべきだ) 「カイくん! だめ!!」 と怒ってくれているエアラの後ろで、リデアンは対処に困っていた。 突き飛ばされたか、あるいは蹴られたか、不覚にも攻撃されるまでまったく気付かず見ていなかったが、どちらにしても痛いというだけで脅威ではない。無視してもいいが、やめてくれと言うべきなのだろうか。だが幼児にやめるべき理由を説いたところで通じるわけもない。現に「駄目」と言うエアラに対して"カイ"と呼ばれている彼は「くーくー」「ちび」を繰り返している。それで二人の喧嘩が成り立っているのも謎だ。 (仲裁……するのもおかしいな) 可能かどうか、通じるかどうかは別として実行してみるという選択肢もあるものの、しかしそれは三歳児の行動としては行き過ぎだろう。
考えた結果、 (泣くか) と結論した。
腕の痛みに意識を向け、嫌悪や拒絶を掘り起こす。 そうして火種が生まれれば、あとはもう、体の持つ幼児性に委ねるだけだ。 涙が湧き上がって溢れる。声を上げて大泣きしないのは、大人の意識がどうしても抵抗するからだが、それでもエドナを呼び寄せることには成功した。 そんなわけでリデアンは、 「マーマ……かえう、おうち かえうぅ……」 と泣いていたのである。内心では、ここに通わなければならないのにこれではまずい、と思いながらも。
ぐすぐすとぐずりながら退園し、スカイカーのチャイルドシートでもまだぐすぐす。 エドナは、 「ちょっと乱暴な子だったわね。痛かったわね、リディ」 と慰めてくれる。だが、「なにあの子」と相手の子供を罵るようなことは口にしない。内心で思っていても口に出さないのであれば、子供にそういったことを聞かせるべきではないという賢明な判断だろうし、そう思わないから言わないのであれば、彼女もまた根から思いやりのある優しい女性だということだろう。
しかし他にする会話のない、お互いに手持ち無沙汰な車内。 (親としては、迷うのだろうか) リデアンはエドナを見ないようにしながら、しかし視界の端に彼女の脚を入れて、考えていた。 少しくらい嫌なことがあったからなんだ、それも勉強だと言うことはできる。だが、そんな目にはできるだけ遭わせたくないというのも、親心なのだろう。 (私に、いじめの対象になりやすい理由があるのも問題か) 小さな体、舌足らずな発音。そういった要素は見下したりからかったりしやすい。小さな子供でも、上下、優劣というものは察知するのだ。
母が心配しないようにするには、平気だと見せることだ。 だが何をされても動じないというのもおかしいし、 (かわすことも、反撃することも可能ではあるが……) 幼児らしくないことをするわけにもいかないのが悩みどころである。 それに、自分の体の奥、感情と感覚の在り処を探れば、“あの場所は嫌だ"という強い刷り込みも感じられる。明日もしまた出かけようとすれば、どこへ行くのかという確信はなくても、行きたくない、と反応しそうである。
―――と考えていたせいだ。唐突に思考の質が落ちて緩んだ。 (あ……) 考えすぎたせいで"電池切れ"だ、と思ったかどうかのうちに、リデアンの意識は急速に眠りの底へと沈んでいった。
リデアンが目覚めると、隣にはヴァレスが横になっていた。 部屋は暗い。すっかり夜になっている。寝落ちしてからだいぶ時間がたったようだ。 「いま、なんじえすか」 尋ねると、 「7時だよ。おそよう、泣き虫リディ」 「いまつかえう(使える)、いちばんの “ひっさつわざ” えす」 「なかなか大変だったみたいだね、初登園ミッションは」 「とちゅうまえ(まで)は、うまくいってました」 「エドナに聞いたよ。いじめっ子の登場とは、困ったものだな」 「ママは?」 「今? お風呂。ずいぶん心配していた。ラカイ=ラドキールという子らしい。いじめっ子というよりは、思いついたことを止められない子のようだ」 エドナが教師たちから聞き、そしてヴァレスに伝えたことによると、彼はいつもあんな調子なのだそうだ。ただ、誰かをいじめてばかりいるというわけではなく、逆に、いじめられている子を助けようとしたりもする。 感じたこと、思いついたことをそのまま行動に移す。幼児としては珍しいことではない。ただ、共感性がなかなか育たないらしい。そのため、「それをされたら○○ちゃんはどう思うと思う?」は当然通じないし「○○ちゃんが痛いからやめようね」も通じない。それに、「これをすると怒られるからやめよう」という意識も薄いらしい。親も手を焼いているとか。
「こまい(困り)ますね」 「君の場合、標的にされる要素があるから尚更ね。ただ、どこへ行こうとそういう子供はいるだろう。それを避けようとしたら、家庭教育にするしかない」 「そういうこおも(子供)が いう(いる)のはかまいませんが、どう たいしょしていいのかが わかいません。けいけんじょう、わたしがみう(見る)と たいていのこおもは ていししていたのえすけお」 「そりゃ怖いからだよ。どう扱えばいいか考えているだけなんだろうが、そういう、君の"対象を観察する目"は大人が向けられたって怖くなる。頼むから、その体でその目をするのはやめてくれよ? 子供らしくないにも程がある」 「わあってます。あかあ(だから)、みないようにしておきました」 そのあたりのことは、かつてアンダーソンから指摘されたことがある。改めて言われなくても分かっていた。
「どうする? 明日も、行ってみるかい?」 笑いながら、ヴァレスが言う。リデアンは少し考え、そして自分の幼児の体を探る。どうするのが自然な反応か、と。 「いまは、わすえてます。えも(でも)……あした えかけ(出掛け)ようとしたあ、たむん(たぶん)、いきたくないとおもいます」 あそこは、“嫌な場所"なのだ。 「玄関でイヤイヤする三歳児か。見てみたいね。きっと、どこの家庭にもある光景なんだろうな」 リデアンはもちろんヴェクタスも、子供を持たなかった。知識や伝聞で知っていることだけがすべてである。ヴァレス=ヴェクタスはそれを楽しんでいるようだが、リデアンとしてはどうすべきか悩みどころだった。
ただ、“嫌な場所"の中にほんの少し、僅かに一点……。 「もいっかい、いってみても いいかもしえません」 ふと呟く言葉に浮かぶのは、優しい女の子の横顔だった。 “パパ"やママに読んでもらうのではなく、一緒に読む絵本。いじめっ子から、まっすぐ庇ってくれた強く優しい子。 共感性の育っていない子供もいるが、彼女のように、もう既に自分のこと以外で怒ることのできる子供もいる。今日は他に何も意識に残っていないが、よく見れば、他の子供たちも様々なのだろう。 「おや、なにか気に入ったものでもあったのかな?」 尋ねるヴァレスに、エアラのことを言うのはやめておいた。九割九分九厘間違いなく、「それは初恋か!?」と楽しみはじめるに決まっている。 さすがにいい大人の感性を持つリデアンとしては、どれだけ幼児ボディに引きずられても、幼児に恋する神経は持たないし――― (私が好きなのは、今でも、“ヴェクタス”、貴方ですよ) リデアンが思い返すのは、父の体で、父として振る舞う目の前の存在ではなく、かつての彼だ。そして少なくとも今は、彼以外の誰かをそういう意味で慕う心持ちもない。 エアラが気になるのは、観察対象……ではなく、“また一緒に本を読みたい子” としてで、そこには男女の意識も年齢もなにもない。行為と、過ごした時間の快さだけがある。
明日、再びエドナと出かけようとすると、なにかを察して嫌だと感じるだろう。だがその中に、またあの子と本を読みたい、という思いもある。だから、最後には行ってもいいと思えるだろう。 「こおもも たいへんえす」 つい口にすると、ヴァレスが吹き出した。そして、子供をあやすように背中をとんとんされる。他に誰もいないときにまで子供扱いしなくてもとは思うものの、心地好さには逆らえない。どうやら、今日はこのまま"パパとねんね"になりそうである。