With You 3.3

     【君思故我在 V】

「ただい……」  ま、を言う前に、室内に漂う香りに気付いた。  自分の体からはすっかり薄れてしまった、愛用の香水の香りだ。ヴェクタスは、もしかしてリデアンがアトマイザーでも落として割ってしまったのかと考えた。かつての彼ならばありえないことだが、目が見えないのでは無理もないことだからだ。  だが、 『おかえりなさい、ヴェクタス』  室内スピーカーから届く、何故か少し焦ったようなリデアンの声を聞き、そのほうが気掛かりになって、慌てて寝室へ向かった。

 なにかあれば連絡しなさい、カエラを呼びなさいと言って出かけた。もしカエラが呼ばれることがあれば、ヴェクタスにも知らせてくれるよう頼んであったので、それもなかったということは、多少の困りごとはあったとしても、この七日間を何事もなく終えられたのだと思ったのだが。  リデアンは、もう昼過ぎ、あるいはまだ日暮れ前だというのにベッドに潜り込んでいた。 「どうした? 具合が悪いのか?」  それなら何故連絡しなかったのだと叱るのはやめておいて、寝台の端に腰掛けて熱を確かめるため頬と首に触れる。  平熱よりはいくらか熱っぽいなと感じた その手を、左手で押さえられた。外気のせいで冷えて気持ちよかったのだろう。

「大丈夫かい?」 「はい。特には、何もありません。トラブルも何も。たまたま今日、朝から少し気怠いだけで。ただ……」 「ただ?」 「思っていたより、寂しかったんです」  その言葉とともに、手に頬を押し付けられた。 「リ……」 (“寂しかった”?) 「だから、すみません、香水を、勝手に使いました」  そういえば寝室にもその香りが漂っていた。

 言葉だけでなく、感情までがハングアップした。  寂しかった? だから、それをまぎらわせるため、香水を?  いつものヴェクタスであれば、可愛いねと言ってからかい、埋め合わせには何をすればいいのかなとおどけただろう。  だが今はその前に、何もかもが有り余り、溢れすぎて、止まってしまった。  その沈黙が、リデアンには不安だったのだろうか。 「……ごめんなさい」  「すみません」ではなく「ごめんなさい」と言われ、堰が切れた。  いいんだよとも言えず、せいぜいできたのは乱暴にならないように加減することだけで、たまらず抱きしめていた。  そしてその瞬間、仕事なんかクソ食らえだと、心底思ってしまった。

 そもそも行きのティラシヤの中、アウスティアのマスリレイに入るまでの数時間の間にすら、リデアンは大丈夫だろうかと心配になった。しかしさすがにそれは心配性というよりも不信でしかないように思えて自重した。  シタデルについたとき、もう帰りたかった。星を離れてから既に二日過ぎている。リデアンに連絡して、何事もないか尋ねそうになったが、 「これは、彼のための訓練ですか。それとも貴方のですかな?」  とドレンに窘められて思いとどまった。

 会議中はさすがに集中していたが……いや、話が少しでも退屈になると (大丈夫だろうか)  と考えてしまったし、つまらない自己主張の応酬は時間の無駄だ、解決するにせよ問題提起するにせよはっきりしろと、何度 喉元まで出かけたことか。  オンライン会議では漏洩や盗聴が起こりやすいというのは分かる。だが意思確認するだけならわざわざ集まる必要はない。この会議にはいったいなんの意味があったのだろうかと、心底うんざりした。

 他にシタデルで考えたことと言えば、デイヴィッド・アンダーソンについてくらいのものである。  リデアンが、ただ一人の友人だと語った相手が、ここにいる。  “七回目の取引"によってノヴェリアの封鎖を解かせるとき、リデアンが”取引”をしてまで手助けしようとする者たちのことは、当然調べた。アンダーソンの名を知ったのは、SSVノルマンディSR-1の初代艦長としてだ。だがリデアンから話を聞くまでは、アンダーソンと親交があったとは思ってもみなかった。  その男は今、四人目のシタデル評議員としてここにいる。だからなんだというわけではなくとも、ここにいるんだなと、そう考えた。  会おうとも話しかけようとも思わないが、“いる"ということが何故か、奇妙に強く意識された。

 しかしそんな物思いも、食事会を提案されてふざけるなと思ったと同時に消えた。最初から予定されているなら諦めもするが、いきなりそんな追加行事を入れられたくない。帰るのにまた二日かかるのに、それを更に遅らせるなど冗談ではなかった。  もちろん食事会への参加は断った。参加したい意思を匂わせつつ残念そうに、などという芸をするのも面倒だった。  そして、 「できるだけ急いでくれ」  と言ってドレンに溜め息をつかれた。

 心配だったのもある。  しかしそれ以上に、触れて抱きしめたかったというのが、どうしようもない本音だ。  その時点で五日である。五日間、指一本たりとも触れていない。そしてどう急いでもあと二日は触れられない。  日々介助のために接するのは別として、七日も抱きしめずにいたことなど、この数ヶ月、一度もなかった。  リデアンにとってその行為が何であるかは別として、ヴェクタスは早く帰ってキスして抱きしめ、一つになって過ごしたかった。  だから早く帰りたくて仕方がなかったのだ。

 それが、帰って来るなり「寂しかった」と言われた。  寂しさをまぎらわせるために、自分の香水を、自分の香りを使ったと言われたのだ。  更に「ごめんなさい」などと言われたら……。

 可愛すぎて愛おしすぎて理性が振り切れそうになったのもその言葉のせいだが、同時に、かろうじて理性を保ったのもそのためだった。  「ごめんなさい」という言葉が出てくるからには、リデアンには子供の魂が混じっている。一人でいたせいで、かつての孤独を思い出してしまったのかもしれない。  つまり、一人で放っておかれた子供が、寂しかったと言っているのである。  勘違いしてはならない。  ヴェクタスは自分にそう言い聞かせ、欲望が暴走しないように押さえ込む。今すべきなのは、過去と現在の感覚が混在してしまっているリデアンを宥めることだ。

 が、率直に言って、もう遅い。  そのためにどうすべきかは後にして、抱きしめずにいられなかった。  しかもリデアンの左手が背中に回っているから、始末が悪い。  勘違いしてしまう。  子供の言う言葉なのに。  理性だけでは足りそうにないからか、罪悪感が顔を出す。  かつて、20年以上昔、初めてリデアンを抱いたとき、彼は小柄だった。そのせいで年齢よりも若く見え、つまり、外見を言えばまだ少し子供だった。そんな子供に無理を強いてひどく傷つけたのだ。また同じことをするわけにはいかない。  子供は、よしよしと慰めて宥めてやるだけでいい。それ以上のことは、少なくとも今していいことではない。

 それでどうにか、このまま事に及ぶことだけは我慢した。そして、 「あんまり可愛いことを言わないでくれ。私の理性を飛ばしたいのか」  やっと日頃のからかいを口にする。そうすればリデアンは、「可愛いというのは私のような者ではなく」といつもの不服を言うだろう。  と思っていた。  というのに。  頷かれてしまった。  すべての忍耐は、無駄になった。


 結論。  クソ食らえとまでは言わないが、まだ当分、本格的な仕事はしなくてもいい。  そのために数億クレジット分の機会ロスや損失があったとしても、だからなんだと? そんなもの、ポケットマネーだとヴェクタスは思う。 (また銀河級の甘やかしだと言われるんだろうが)  そもそもは自分のためだ。自分が五日も七日もましてや十日も、リデアンと離れていることに耐えたくない。  それに、孤独から守ってやれるのが自分しかいないなら、他の誰かでも守れる銀河より大事にするのは当然ではないか。  何億何兆積もうと買えない、腕の中の穏やかな寝顔を見ながら、ヴェクタスは脳内のスケジュールからいくつかの予定を削除した。