Two of us 1
【貴方の香り】
遠くに"ティラシヤ"の音がした。 ヴェクタスのプライベートシップである"彼女"の音は、これまでの人生で聞き慣れた軍用機の音とは違い、少しだけ物静かで控えめだ。リデアンは耳を澄まし、微かに聞こえるジェットの音を注意深く聞き分ける。圧が下がるのに合わせて音も小さくなり、やがて消え、であれば間もなくヴェクタスが戻って来るだろう。 彼は昼前から仕事に出ていた。行き先は、このアウスティア星系にある主惑星の一つ、アレタヤである。AUT開通20周年式典に、主役が出ないわけにはいかないのだ。 星一つに手を入れ、数千万の住民にほぼ直接影響を与える大富豪。それがヴェクタス・アヴローンだ。 だがリデアンにとっては、魅惑的で冗談好きだが過保護で甲斐甲斐しい庇護者ーーーいや。恋人だった。
この美しい星のすべてさえ、ヴェクタスはリデアンに捧げてくれる。 淡い色の空、朧な太陽光、二つの月。青く深い湖と、それを囲む様々な緑。時折ならばそれを見ることもできるようになったし、音と匂いならばいつでも分かる。だからリデアンは、一人で過ごすとき、できるだけバルコニーに出て、風と自然の香りを浴びるようにしていた。 ヒヨヒヨと優しい声の鳥が鳴くのは、半月ほど前からだ。リデアンを楽しませるため、ヴェクタスが仕入れたのだろうと思う。工事の音はなかったから、この星の環境に合う鳥なのだろう。 今度、花の香がほしいと言ってみようかと、ふと思う。ここにいて感じるのは、主に水と緑の香りだ。風が遠くから運んでくるのも淡く薄らいだそれらで、あまり変化がない。風向きによって、そして僅かに移ろう季節によって違う香りが届くように、館から近いところに、何種類かの季節の花を。
そんなことを考えていると、背後で空気圧の変わる音がした。 ドアのスライドを追いかけて、 「ただいま」 甘く響くヴェクタスの声がした。 「おかえりなさい、ヴェクタス」 言いながらリデアンは、左手を肘掛けから離して少し横へと差し出した。 足音が近づいて、ヴェクタスがその手を取る。 お疲れ様でした、と言おうとしてリデアンは、強く漂う花の香りに気付いた。
柔らかいようでいて、人工香料の鋭い刺激臭が含まれている。押し付けがましい匂いだった。 それが、ヴェクタスから漂っていた。 ヴェクタス本人はこんな香料を使わない。愛用の香水はもっと透明感があり、同時に重厚なものだ。それを僅かに香る程度に用いるし、出かけるときならばともかく帰宅したとき、その匂いがはっきりと残っていることはまずない。 だったらこれは……。 「リデアン? どうした?」 ヴェクタスが肘掛けの上に腰を乗せると、その嫌な匂いはますます強くなった。どうやら彼の右腕にべったりとついているらしい。
今の自分には強い刺激臭だ、というのもあったが……もっとなにか別のところで、リデアンはそれに強い拒絶を覚えた。 それでも、臭いから離れてほしい、と乱暴なことを言うのは思いとどまって、 「会場で、誰かと強く接触しましたか? 特に、解散する少し前に。おそらくそのときについた移り香が、私には強くて」 そう告げた。 ヴェクタスは 「それは気付かなかった。すまないな」 言いながら椅子から降りる。少しの間があってやがて、 「最後に記念撮影があったが、そうだな。そのときに少しぶつかったのと、ああ、帰りがけに馴れ馴れしい広報係がいて、個人的に写真を頼まれた」 「引き受けたのですか、そんな不躾な依頼を」 「ちょっとしたサービスだ。断って悪口を書かれるより、快く引き受けたほうがいい」 それは分かる。分かるのだが。 こんなにはっきりと匂いがついているのは、並んで撮ったというのではなく、もっと明らかに、たとえば腕を組んだり肩を寄せたりしていたと思えて……。
「もしかしてリデアン、……怒ってるのか?」 ヴェクタスに言われ、リデアンはまさかと思ったが、少しだけ自分を振り返り、 「どうやら、そのようです」 と小さく答えた。
間。 それからふわりとヴェクタスの気配が明るく和らぎ、 「すぐ落としてくる」 軽くこめかみに口殻が触れて離れた。
ボディソープと湯の香り、そしてほのかな湿度をまとって戻ったヴェクタスは、 「これでいいかね」 とリデアンの前に手をかざしたようだ。 香料の匂いはまず衣類についていたはずでーーーヴェクタスはそれを、洗っても完全には落ちないとして捨てたかもしれないーーー、彼自身の肌には残っていない。 手をとって鼻に近付けて嗅いでみても、そこから腕、肘と辿ってみても、今分かるのはソープの香りだけだ。 それでも何故か「ええ結構です」と言えない自分が、リデアンにはよく分からない。 この不可解な屈託は、いったいなんなのか。 そしてそれは、ヴェクタスの微かな吐息、笑い声を聞くとますます強くなる。
「では、どうすればお気に召していただけますか、マイ・マジェスティ?」 ヴェクタスが大仰に言い、肌に触れる空気の動きからして、どうやら隣に跪いたようだ。 (どうすれば、って……) 分析困難。思考力低下。回答不能。 答えかねていると、 「まったく、どうしてくれる。どうにかなりそうだよ、リデアン」 責めるような言葉だがヴェクタスの声は弾んでおり、突然、リデアンは抱き上げられた。
「っ!?」 一人では満足に動けないため、こうして抱えられることには慣れている。必要がないかぎり義肢をつけていないし、その分体重は軽く体もコンパクトだから、体格のいいヴェクタスならば苦ではない。 ただ、今のは唐突すぎる。 いつもはこんなことはしない。突然の動きは、見えないリデアンが驚くと知っているため、ヴェクタスはいつも慎重なのだ。必ず、軽く触れ、今からどうするか言葉にしてから実行する。 それに、 「すまないな。だが、こんなに可愛いことをされたら、たまらないだろう」 詫びながらヴェクタスは大股に移動した。
人感センサーで開いたドアは、向かった方向からして寝室との境。空調によって無臭に保たれるその部屋に、あえて選り分けて残されている樹木からとった精油の香りだけが僅かに漂う。 ヴェクタスはリデアンをベッドに降ろすと、その上に重なってきた。 「ヴェクタス、急に、どう……」 「ほら。こうして」 とヴェクタスはリデアンの手を取って自分の頬に触れさせる。ガウンから覗く胸元を押し付け、左手でリデアンの腰に触れ、ゆっくりとまさぐる。 「好きなだけ触るといい。彼女の百倍でも、千倍でも」 「ヴェクタス」 「上書きして、消すとしようじゃないか。匂いも気配も、全部君のものに。ーーー私は君のものなんだから、しっかりマーキングしておかないと」
「それではまるで、動物です」 呆れたように言ったつもりが、声は少し笑っていた。嫌な気分も和らいで、ヴェクタスの重みが心地好い。 彼が羽織ったガウンを脱がせようと、左手だけで襟をとって背をはだけさせると、もどかしそうにヴェクタスがそれを取り去って、投げ捨てたらしい音がした。