05 後のまた後

     【ある日のミケリス家】

「あら、ジェイ。生きてた?」  帰宅してジェイナス・ミケリスを見ると、アリール・ミケリスはそう言った。それにジェイナスは 「生きてたよ」  と返す。それがミケリス親子の挨拶だった。  特に意味や理由はない。アリールが「生きてた?」と問うから、ジェイナスは「生きてた」と答える。  中には勝手に意味を勘ぐる者もいて、軽くかわしているが根底には切実な生存確認があるのではないか、などと言う。  たしかにジェイナスはミケリス家の末子で、三人の兄姉、更には父まで全員死去しているが、少なくともこの挨拶にそれは関係ない。  あえて言うなら、軍内でなにかと厄介者扱いされ、直接的にではなくとも命を狙われたこともある母としては、自分に似てしまった息子もまたそうなりうると思ったのだろう。だから顔を見ると、「あんたまだ生きてたの」と言いたくなった。ジェイナス自身が思うには、そういうことだ。  だがそこに、他人が勝手に憶測するような重さはない。初期こそ少しは驚きや感慨があったのだとしても、今では本当にただの挨拶だ。

 だからどうということもなく、リビングに入ってきた母はぽいと上着を脱ぎ捨てて保冷庫を開ける。2DKの狭い賃貸は、仮にも貴族として特殊ティアを持つミケリス家に相応しいものではない。だが、領地もなく領民もおらずもちろん私兵もいない、そんな自分たちにはこれくらいが丁度使い良い。 「聞いてよ、ジェイ。というかこれ見て」  炭酸水を片手にソファの隣に腰掛けたアリールは、腕の端末からジェイナスが持つタブレットへ、なんらかのデータを送り込んだ。着信通知に表示されたマークは機密書類を示すもので、 「あのさぁ」  と言いかけて、ジェイナスはやめた。部外者に見せるべきでないものだろう、などと言っても無駄だ。どうせ「あんた身内じゃない」と言われて終わる。この母に比べれば、自分はまだしもまともなほうだとジェイナスは思いつつ、しかし、興味に駆られてフォルダを開いた。  同時に、 「あんたこれ、自分には無関係、部外者だって思うだろうけど、あんた立派に関係者、むしろ主犯だわよ?」  と言われた。

 どういう意味かと思えば、開いたフォルダの中にまたあるフォルダ、更にその中にずらりと並んだファイルは、命名規則からして隊員の勤務評定書のようだ。  一つ開いてみると、かつてはよく見ていたフォーマットが少し懐かしい。さっと目を通す。思わず 「へえ」  と声が出てしまう。よく書けている。採点しようとしても、手を入れねばならない場所がない。むしろ、さっと読むつもりだったのに興味深くて、初めて見る顔、初めて見る名前の一人の兵士について、つい夢中になってしまった。 「あんたほんと、こういうの好きよねぇ」 「だってこれもドラマだろ」  母の声に、ジェイナスはそう返した。

 ジェイナスはドラマが好きだ。だから小説やコミックも好きだし、テレビドラマも映画も愛している。特に、古典ドラマが大好きで、自室の棚には、古すぎてデータ化されていないマトリクス型のビデオもかなりの数揃っている。  面白いドラマには、もちろん良いシナリオが必要だが、登場人物も欠かせない。むしろキャラクターに痛烈な魅力があれば、シナリオはそれに引っ張られて多少つまらなくても楽しめる。  今ジェイナスが読んでいる評定は、他愛もないそのへんの一人の兵士の、しかも勤務に関するだけのものだが、にも関わらず面白かった。

 それを閉じると、そこにはまだ20ほどのファイルがある。これで小隊一つ分、ということは、親フォルダには中隊一つ分が入っているのだろう。  登場人物だとしたら多すぎる。読み進めていくと飽きて退屈になる。もともと評定などそんなものだ。それを8年ほど前のジェイナスは半期ごとに味わっていた。  どうせ飽きる。だがあといくつかは楽しめるかもしれない。であれば、できるだけ個性の違う"キャラ"を引き当てたい。しかしファイル名は単純な記号の羅列で、そこから個人情報を特定できることはなく、ジェイナスは適当なものを一つタップした。

 そして気がつけば、読み終えるのを待ちきれないようにして、閉じるなり次のファイルを開いた。  また閉じて開いた。そしてまた閉じて開いた。また閉じて開き……。 (こいつ、“主人公"だな)  欠点もあるがフレンドリーで協調的。反発を受けたとしても嫌悪まではされない。いざというときには損得なしで動いてしまい、それまで嫌っていた相手だろうと真剣に助けに行く。だがどこか作り物めいた印象も受ける。本音が別だとしたらかなり気になる。 (この子は妹タイプか。可愛いな)  気が弱く普段はおどおどしている。嫌な上官に目を付けられがちだが、性別問わずに可愛がられており、皆に庇われている。それでいて、お荷物にはなっていない。ただ、本人は申し訳なさを感じて案外つらい可能性もある。足手まといになりたくないと、無理をしていなければいいがと思う。 (あー、こっちは悪役。でも背景知ると、憎めなくなるやつ)  と、気が付けばジェイナスは夢中になっていた。

 もちろん、これが兵士たちの評定書だということは理解している。  だがジェイナスは、そうやってドラマの中で人を整理し理解する。そしてドラマを思った筋書きへと動かすために、ディレクトすることで結果を出してきた。  だから、尖った面白いキャラクターはそれがどんなに憎らしくても好きだったし、地味で目立たない没個性な誰かでも、うまく街角に配置すれば不可欠になるNPCだった。  しかし我に返ってみれば、そういう一番好きで得意なポジションはいつしか卒業させられて、今では数字と金が相手の経務。 「……で? これがなんなの?」  母がこんなものを自分に見せた理由が分からない。現実に引き戻されて、ジェイナスは顔を上げた。

「馬鹿ねあんた。楽しいだけで読んでたでしょ。頭鈍ったんじゃないの?」  母の指摘は鋭く、ぎくりとする。  ジェイナスのことをよく知るアリールは、これを渡したときにこうなることは知っていた。  彼女はその先、その奥に、ジェイナスがなにを見つけると期待したのだろうか。 「あー、分かった、ごめん。あんた飢えてるもんね。そんなとこにこんな極上のエサなんか投げたら、美味しいだけで全部だわね」  それもまた鋭すぎるほど鋭く核心をぶち抜いていた。相変わらず母の一言は、良くも悪くも容赦がない。

 そして彼女は、指を一本立てた。 「まずね、このカンダスって子。あんた、この子と廊下ででも会ったとしなさい。そうしたら、どう思うと思う?」 「え?」  エラ・カンダス。21歳。ハイウル州出身。  今の自分の立場を忘れ、この部隊の隊長くらいのポジションだとしよう。そんな自分が彼女と廊下で出会い、なにか話すとしたら。  彼女は批判的だ。申し立てや議論には積極的だが、本人の好悪や感情によるそれに妥当性があることは少ない。自己を客観的に内省する能力が乏しく、正当化が激しい。部隊長からの教導、指摘には頷くが、言動を改める傾向は見られない。 『批判を当人以外に向けて口にするため、他隊員からはやや敬遠傾向にある。表面上は集団の一部となっているが、心的距離は当人が思うよりも大きいと見られる』  つまり愚痴、文句、陰口、悪口ばかり言うタイプということだ。  誹謗中傷は誤った先入観を与え、偏見を生む。それによって部隊内に不和が生じることもあるが、彼女の場合は度が過ぎており、逆に周りに連帯感のようなものを与えてしまっている。そのため、実のところ誰からも敬遠され、ひそかに孤立してしまっているのではないだろうか。

「そうだな……。なにがそんなに気に入らないんだっていうか、なにがそんなに不安なんだってことかな」  ジェイナスがそう言うと、 「あんたそれ、異常だって分かる?」  アリールが立てたままだった指をジェイナスに向けた。 「え? いや、……普通じゃないの?」 「立派に異常よ。だって普通こう思うわよ。こいつどうせ俺のことも裏でなんか言ってんだろうなぁ、とかさ。あんたなら一言、『めんどくせ』」  言われてジェイナスは、もう一度エラ・カンダスの評定に目を落とした。

 母の言うとおりだった。  たしかに面倒くさい。あまり関わりたくない。しかし現実にはよくいるタイプで、ジェイナスが少尉、中尉として関わってきた部下たちの中にも必ずいたし、今の部署にもいる。  実際面倒くさい。立場上、叱責しなければならないこともあり、そのたびに、まさに母が言ったようなことを考える。前任者からの引き継ぎで、こういうタイプだと記された評定書を読んでもだ。  そんな奴をどう扱うか、それに頭を悩ませてきたし、悩ませている。

 それなのに、何故なのか。  この評定書を読むと、「こいつはなにを思っているのだろう」と考えてしまう。  理解を促すような書かれ方をしているわけではない。書かれているのは事実と、その事実から無理なく推測できる範囲の推定。それも過不足なく端的に切り分けられており、大部分はむしろ無機質なくらいだ。  にも関わらず、やはり何度読んでも、読むほどに、書かれることのない部分を知りたいと思ってしまう。  そして気付く。今の経務にいる部下の一人、こういうタイプのお局様は、何故ああも熱心に他人の悪口を言うのだろうか、とも思えてしまうことに。

 そしてそれは、他のどのファイルも同じだった。  更生のために予備隊に入れられた、元少年犯罪者の青年。指示には従うが不貞腐れ気味で、違反を罰すると反抗的な態度になる。成績は悪くないが、明らかにやる気はなく手を抜いている。アクセス許可のないエリア付近で見かけられたことがあり、要注意となっている。  彼のような者たちを集めた予備隊はいくつかあるが、更生できる者はごく僅かだ。どうせこいつも明らかな軍規違反を起こして営倉送り、そこからの強制収容で隔離されるか、適当な戦場で死ぬことになる。そういう奴だ。  ―――頭が悪くないならもっと上手く立ち回れるだろうに、何故そうしないのか。怪しまれるに決まっているアクセス禁止区画への接近は、良からぬ意図があったのかもしれないが、ともするとまったく違うつもりだった可能性はないのか。  また、自分の意見を言わない兵士。尋ねても「それでいいと思います」か「特にありません」で、決まったことに従う。反抗はしない。問題を起こすこともない。だがはかばかしい成果もない。  臆病なのか小心なのか、あるいは思考能力が低いのか。なんにせよ期待をしてもただ重いばかりで当人も喜ばず、こちらとしても叶えられる見込みは薄い。指示に従うのであればそれで十分。大きな役には立たないが、邪魔になることもない。そういう奴だ。  ―――本当に言いたいことはないのだろうか。難しいとしてもうまく聞き出せば、なにも言えない理由を、聞かせてくれるということはないのか。

「……これ、母さんも"こう"なったわけ?」  尋ねるとアリールは頷き、 「あんたには、それが何故かを見つけて、教えてほしいの」  と言った。  そのためにアリールは自分にこれを見せたのだと、やっと目的が分かった。  仕事で使うのだろうが、このままでは正体不明の魅力的な爆薬だ。迂闊に触ると強烈に引きずられる。無論、引きずられるままに使っても効果は発揮するだろうし、悪いものでもない。  だが管理する立場としては、理屈の知れない道具は危険なのだ。

 ジェイナスはソファに全体重を預け沈み込む。左手でこめかみを押さえ、少し痛む頭をじっと研ぎ澄ます。  謎の、そして強烈な磁力に引きずられないよう、ただ文字を、言葉を、それぞれの意味だけを追う。  アリールはその間、離れたり戻ってきたり、お茶を入れてきたりしていたが、寝ようとはしなかった。  そして結局ジェイナスは、200人分ほどもあるそれらすべてに目を通した。  頭の中には膨大な登場人物がインプットされ、派手なものは我が物顔に、地味な誰かもひそやかに、脳の中に息づいている。  このままどんなドラマでも作れそうだと思うほど、詳細な"キャラクター設定"だ。典型的な主人公もいるし典型的な悪役もいる。地味なNPCもいる。かなり複雑で矛盾した奴もいる。  だがその誰を前にしても、「こいつはどんな奴なのか」と思ってしまう。

(おかしいんだよ)  ジェイナスは、軽い頭痛の中で自分に言い聞かせる。  かつての自分が思っていたことで、実際にそうして結果を出していたことを。  ついドラマの登場人物のように読んでしまうからこそ、ジェイナスは、 (評定書は、部下の"取扱説明書"だ)  と捉えてきた。性能と機能を知る。その中には性格も含まれる。道具でなく人なのだからそれもまた性能のうちだ。それらを知ることで、適切に管理し制御する。  だから詳しく分かっていれば、そのガイドに従って接すればいい。

 そいつは、“そういう奴"なのだから。

「あ……―――」  ジェイナスはたまたま今開いていた隊員のファイルに吸い込まれた。 (こいつは、見栄とプライドと、自分の理想に振り回されてる。本当は平凡なのに、それに気づいてないのか、薄々気付いてはいても認められないのか。だから厄介だ。こういうのは扱いづらい)  評定には、そんな彼の扱い方、接し方、あるいは"どこへ向かわせるか"も書かれている。  だとしても面倒だ。よくやっていると認めれば勘違いを助長させ、まだまだだと発破をかけると裏目に出かねない。  “そういう奴"だ。  だが。

「分かった、分かったよ母さん」  ジェイナスは自分の頭の中にぼんやりと生まれた答えをそっと手繰り寄せる。目はただ前を向いてなにも見ておらず、あえて言えば、映像ではない自分の脳内を彷徨う。 「教えて」  そして、見つけたものを表す最初の言葉を手繰り当てた。それは 「余白だよ」  だった。

 緻密に書かれた評定は、軍の隊員としての彼等を、端的なくせに明瞭に描写している。今まで見てきた他のどんな"キャラクター設定"よりも鮮明に思い描けるようになる。  だがそこに、 「とんでもない量の余白があるんだ。いや、ただあるんじゃない、書かれてる。って書かれてないんだけど。そう。書かれてない。別に強調もされてない。でも、……まったくないように書かれてる。分かる? 俺の言ってること」 「分かるわけないでしょ。書かれてるのか書かれてないのか、どっちよ」 「だから」  もどかしい。どう言えばいいのか。  書かれているのだ。  だがそれは、まったく書かれていないようにだ。

「なんにも、本当に書かないことで、書いてあるんだよ」 「だからあんた、意味分かんないってば」 「だからさ……、ああもう、だから……」  喋っていると、せっかく掴んだ感覚が遠のいてしまう。その前に捕まえなければ、見失ってしまう。 「だから」  とまた繰り返して、ぎりぎりの尻尾に手が届いた。 「普通だと、余白も埋まってるんだ。書いてる奴の意思で。どんなに客観的に書こうとしたって、こいつはこういう奴だってのが余白に滲んでる。だから読んでるとこっちも、ああそういう奴だなってなる。けどこれには、本当になにも書かれてないんだ」  だから、そのなにもないところに何があるのか、気になってしまう―――。

「つまり、完全に空白の余白、なんにも書かれてないってことね。じゃあなにも書かれてないって言えばいいじゃない」  アリールの声に呆れが溢れかえる。 「そうだけどさ! でもそうじゃないんだよ!」  たぶんこれは、自分以外には分からない感覚なのかもしれない。ジェイナスは母に正確に伝えることは諦めた。  完璧な余白。それは、自然には存在しない。ジェイナスにはそう思える。「書かない」ことで放置された空白には、どうしたところで書き手の思想が滲み出て、結局なにかが書かれてしまう。  だとしたら完璧な余白とは、書かないことではなく、「無を書く」行為でしか生み出せない。だがそんなもの、どうやって書くのか。ジェイナスにもそれは分からないし、説明できなかった。

 だからもういい。母が「余白」の意味を自分の思ったようには理解できずとも、より肝心なのは、その余白の効果のほうだ。  まっさらな余白がある、その結果浮かび上がってくるもの。  くるくると脳内を巡っていた探査機が、もう一つ別の言葉群をキャッチした。 (“人生”? いや……“世界”、―――“世界観”)

 人物には、当然その背景があるはずだ。脳はそれを補完しようとする。だがあまりにも余白が大きく真っ白で、なんの手がかりもない。  典型的な勇者のような彼女の、書かれていない部分にあるのはなんだろうかと気になってしまう。  掴みどころもとらえどころもない、名前も個性も台詞もないNPCのような彼にも、日が暮れれば帰る家があるはずでそれはどんな場所なのだろう、そこでの彼は案外明るいのではないかなどと空想できる。  不愉快で面倒以外のなんでもないような、それでいて魅力的な悪役とも言えない彼は、何故そんな自分を見せているのか、何故そうしているのか、そんなふうになったのか。  彼等はどんな世界に立っているのか、何も見えないそこには絶対になにかがあるはずで、それを知りたくなる。  他人が滲ませたありきたりな背景で、知ったつもりになることも、興味をなくすことも許されずに。

「なんなんだこれ……」  しかも200人分。どれもこれも。  人物の周囲に描かれているものには、書き手の見た風景も感じられる。だがそれは彼等のほんの僅かな輪郭でしかなく、だからこそ垣間見えているそれの実態が気になる。  そのうえ誰のファイルだろうと、トーンにまったくブレがない。VIにでも書かせたのかと思うが、VIが出力した最適解にある無機質さ、均一にされ画一的になった味気なさもない。  複数人で書いたような癖や特徴のばらつきもなく、 「化け物かよ」  思わずジェイナスはそう言った。

「あらまあ。これで二人目ね、あの子を化け物呼ばわりしたのは」  アリールの言葉に、ジェイナスは束の間の放心、自失から我に返った。 「誰。これ書いたの誰」 「はいはい落ち着きなさい。あの子よ。あんたがお膳立てした子。『爪先入れたが最後』の子」  そう言われてジェイナスは 「トライオスか!?」  思わず大声を出した後で、ヤバいと口を押さえた。  確かめていないが、もうかなり遅い時間のはずだ。隣の老婆は騒音に厳しい。幸いなんの反応もなかったが、データパッドの時刻表示はとっくに日付を変えていた。

 ジェイナスは、いかつい様子の、しかしやけに"ちゃらりとした"士官を思い出す。

 あの日ジェイナスは、渋々出勤しても2時間程度で仕事は終わり、それ以後することもない閑職の、退屈すぎるデスクで腐っていた。そこにひょっこり、 「中佐、すみません、助けてください」  と泣きそうな声の部下が困り果てた顔を覗かせた。トラブルか!? と喜んでついていった先にいたのは、窓口の士官相手にまるで講義でもするかのような様子で話しかける大柄な男だった。  窓口にいたペリルはたとえではなく涙目で、ジェイナスを見るその目はすがらんばかり。それだけでも面白かったが、ヴァレス・トライオスはとんでもなくでたらめで、それに完璧な筋を通してくる奴だった。

『私がでたらめに見えるなら、それは世界がでたらめだからだ』  ジェイナスが気に入っているSFドラマの名言、いや迷言を思い出した。  そう言った人物は事実としてでたらめで世界はちゃんとまともだったのだが、ヴァレス・トライオスの場合は違った。  彼こそその台詞に相応しい。  普通だと思っている世界のほうが、実は歪んでいる。曲がった線をまっすぐだと言っている。だから、本当にまっすぐなものはでたらめに見えるのだ、と。

 そんな彼が語る、架橋では足りない、都市を変えようという物語を聞いたジェイナスは、それを母に伝えるとき、トライオスというキャラクターをこう説明した。 「ドアの隙間に爪先を入れたが最後、1時間後にはベッドで隣に寝てるセールスマン」  聞いた母は吹き出し、そしてこれは我ながら正確な描写だと思っている。

 話を聞いているうちに、気が付けば話し手そのものに魅了され、落とされる。  そんなセールスマンは、訪問販売などという存在が実在した時代が舞台の、古臭いメロドラマのキャラクターだ。もちろんそいつは何度も訪問を重ねて人妻を口説き、不倫関係に至るわけだが、それはさておき。  幸いトライオスは、そんな力を意図的に過剰出力していた。少なくともジェイナスにはそう見えた。だから聞き手は魅了されるのではなく圧倒されて、「結構ですから。うちはいりませんから」と感情的、本能的な警戒心と恐れでドアを閉めようとし続けたのだ。  そしてそれは、「おい、何やってるんだ」と奥から家の主、責任者であるジェイナスを呼び出すためのものだったはずだ。

 だからトライオスは、ジェイナスには出力を整えセールスを目的に話しだした。  その話はジェイナスにとっても驚きで、しかし面白かったが、なにより面白かったのは、涙目だったペリルや、困惑し怯えた様子だった他の者までが、興味深そうに聞き入っていたことだった。  それはつまり、トライオスには窓口を説得し、「では上に取り次ぎます」と言わせられたということだ。そうしなかった理由は分からないし知らない。ただ、それも含めてトライオスは面白く、その話は「なんで橋が都市になるんだよ」でありつつも確かになと思う他なく、ジェイナスは母に伝えることにした。

 そこからの即断即決ぶりは、爪先セールスマンを面白がったアリールのとんでもない無茶だとして。  それ以後もトライオスは、なにかと軍内を騒がせてきた。  壇上の中央にはしゃしゃり出ないくせに、舞台袖でちょろちょろと騒ぎを起こす。ジェイナスの耳に届くのはかなり遅れてのことで、しかも小さくなった声だった。  だがその名前が、いきなり目の前にどかんと落ちてきた。  そんな息子の心情を、母は正確に察したのだろう。そしてさくさくと半年前の出来事、ラス・オクトンの顛末を語り、 「やるべきことを、できるときが来たのよきっと」  破天荒なアリールがほんの時折 垣間見せる、端正な瞬間だった。

 もちろんそんなレアな瞬間はすぐに去り、彼女はいつもどおりきゃっきゃと話し出す。  昔からのお気に入りティラン・レクトルス。軍の嫌いな部分を変えたいと、思い続けても叶えられなかった男に、とうとううってつけの部下が現れた。  とは言えトライオスは知ってのとおり変わり者で、やらかす無茶の大半……いやすべては息子と過ごすため。そんな私事よりも公務を優先すべきだと、最大最強クラスの正論で押しつぶそうとした者がいたが、木っ端微塵に粉砕されたのはその誰かのほうだったという。 「あっちこっちに敵作ってるんだけど、いやよねえ、あの子、それを敵だと思ってないんだから。なんかもう、いつでも追い払える羽虫って感じで」  必死にぶんぶん飛び回ってもまるで相手にもされず、やがて疲れて落ちていく。  アリールが最大限に買っているのは、桁外れの才能ともう一つ、この途轍もない図太さだ。 「ティランは……まああんたも、私もだけど、肩肘張るにはけっこう力がいるじゃない? でもあれ、素でガン無視なんだもの」  それを、ティラン・レクトルスに与えたい。  それがアリールの目的だった。

 いくつかの仕事をやらせた。  もちろん、まがりなりにも准将が、中尉ごときにじきじきの命令などありえない。形式的には、レクトルスやその下を使っての通達になり、やりとりになる。  だが仕事の結果を、トライオスは"正しい場所と相手"に提出するのとは別に、直接アリールにも送ってくる。そうしろと言わずとも、伝えた連絡先の使い道にはこれもあると理解したのだ。  そしてその一つが、中隊の評定書作成だった。 「ティランのっていうより、まずは今の、そしてこれからのあの子の力が及ぶ範囲ね」  改革の足場や駒となる彼等については、レクトルスも知っておいたほうがいい。全体へ波及させる前のテストとして、結果を出すための試験場、テスト人員ともなるのだから。  だがそれが役立つのは、誰よりもまず、実際に彼等に接して動かす立場の者だ。 「つまりこれ……トライオスに"部下"を把握させるため、だね?」  うふっとアリールは笑って見せた。

「まあ上手いことやったわよ。ラス・オクトンのあれがあるから、小隊同士の連携をもっと強めるべきだ、なんて意見、出るのが当然よね。それで複数小隊での訓練回数を増やせば、他の部隊の子たちを普通に見られる。そこまでは誰でも思いつくんだろうけど」  トライオスは自分に指導を求めてきた部下に、せっかくの機会なんだから他の少尉や中尉にも教えを請え、学ばせてもらえ、私だけの意見に左右されて固まるな、と指示した。  彼等が他部隊の上官に、極めて素直に真剣に、敬意を持って「ご教導ください」と言うものだから、請われた側もなんとなく、自分の部下に向かって「おまえたちも他の者に」と言ったほうがいいような気がしてしまう。  それで自然と、垣根が薄くなる。

「で、まあ、セールスマンって言っていいのかどうか知らないけど」  ヴァレスは部隊間交流の中で、これまではライバル関係、あるいは敬遠されていた相手から、反感や警戒心だけを取り除いてしまった。  アリールが呆れるのは、味方にはしない点だ。やろうと思えばできるのだろうが、ヴァレスは「まああいつもいろいろ考えてるんだろうし」くらいの、敵対心がないところであえて止めたに違いない。  だから決して信頼関係や、同盟関係にはない。ただ、仕事上で必要になったときに、「すまないがこれについて」となんの抵抗もなく話しかけられる関係である。

「味方につけたほうが楽……いや、でもないのか」  ジェイナスにも分かる気がする。  味方を増やせば、派閥になる。それより外にいる敵を、より敵対的にする。警戒させる。反発を生む。軋轢が生じ、厄介になる。  だからあえて、適度に疎遠な距離を保つ。そのほうが他を刺激しない。  そこまで考えたときジェイナスは、直感的にぞっとした。  思わず身震いしてしまう。 「なによ、どうしたの」  アリールに言われて、ジェイナスは悪寒の残る首筋を無で、探す。今自分が感じたもの。なにを予感したのか。  言葉にもビジョンにもなる前の、なにか。  それは。

「いや……なんていうか……今は、誰も取り込まない。そのほうが好きに動けるし。けど……」  敵は作っても味方を作らない。  つまり戦う気はなく争う気もない。  ただ好き勝手する道化者。だから皆、気に食わないが、脅威だとは思わない。  だが、物陰、人陰、意識の外。  見えない手が伸びひそやかに、静かに遠く、広がっていたとしたら?  はっとして振り向いたときには、もう遅い。  巨大な蛇が世界を取り巻いた姿で実体化し、逃げ場のない獲物に牙を剥く―――。

「母さん」  母アリールは並外れた傑物だが、やや危機感に乏しい。 「トライオスを使うのは止めないし、化け物だってことは母さんも分かってるだろうけど」 「なによ」 「想像以上の怪物だったら、俺は知らないからね」  その言葉をアリールは、いつものようには退けなかった。  『想像力はあんたの長所だけど、それは行き過ぎ』。そう言わないということは、アリールから見てもこれは、行き過ぎた妄想とは言えない想像なのだろう。

 ただ彼女はこう言った。 「でももう関わっちゃったし」  過ぎたことはどうしようもない。そういう割り切りができるのも、アリールの強みだ。  しかしジェイナスはその後で、 「それに、知らないとか言ったって、あんたもとっくに巻き込まれてるわよ」  と言われて絶句した。

「なんで!?」  また思わず大声を出してしまうと、 「知らないわよ。でも気に入られたんじゃない? だってあの子、あんたも一緒にって言ってたもん」  そんなことは知らない。関わりはほんの少しのはずだ。  呆然とするジェイナスと、諦めなさいよと肩を竦めるアリールの耳に、ドンドンと苛立たしげに壁を叩く音が聞こえるのだった。