14 霹靂の跡

     【霹靂の跡】

 ただいま、と家に帰ったところから今まで、我ながらよくもまあこうも見事に"何事もないいつものヴァレス"を演じられるものだと思う。  それができてしまうの自分について考えると、他人から見ると案外不幸な人生なのかもしれないとさえ思う。“かつて"は、嘘も欺瞞も手口の一つ、動揺や葛藤など、演じて見せる以外に見せても付け込まれるだけだと、演技は生活の一部だった。素の自分、本来の自分をそのまま出すことのない人生がもし不幸なら、たしかにそうなのだろう。  そしてもう一つ。 (まあ……そういうことだろうな)  ヴァレスは部屋で一人、椅子に腰掛けデスクに肘をつき、組み合わせた手に口元を押し当てて考える。  さすがに今はもう、この問題について考えざるをえなかった。

 気になったと言えば、ヴァレスの体で目覚めて十日後くらいには実は一度気にしている。  この世界にいるはずの自分、12歳であるヴェクタス・アヴローンはどうしているのかと。  なにせ40年以上もの過去にいて、他人の体に乗り移っているなどという異常事態であるから、存在しないという可能性も考えた。存在はするが何かが異なるといった可能性もある。そしてもちろん、自分がかつてそうしていたように、まったく同じように存在している可能性もあった。  気になったが確かめなかった。  さすがに恐れたのだ。  知った結果、そもそも存在していないとなったら、ここはよく似ているだけの別の世界だと思えばいいし、それだけで済む。似てはいるが異なる、という前提で生きるだけだ。  しかしもし、存在していたら。知るだけならばいいが、知ったことを先駆けにして関わってしまうことを恐れた。理由はない。ただなんとなく、そうすることで取り返しのつかないなにかが起こる、そんな可能性があることを恐れたのだ。  だからこれまでずっと、意識して考えないようにしてきたし、いつしか自然とそんなことはどうでもよくなっていた。

 だがとうとう知ってしまった。  しかもその自分は、今は予定どおりの15歳。ただし、自分が現れたのとほぼ同時期に昏睡し、それきり目覚めていない。そして家族は……正確には兄は、目覚めない弟をクライオに入れることにしたという。  死亡はしていないが意識はない。  推測というより根拠のない想像だが、もう一人のヴェクタスがこの世界に現れたことで、二人同時に存在することはできず、弱いほうが休眠するか、あるいは消滅したのではないかと思える。  自分自身ではあるものの、別の体でこれまでの12年を生きていた別人でもある。その精神を消してしまったのだとしたら、ヴェクタスにはどうしても人を殺したような気がしてしまってならない。

 それに、アリールの言いようがどうしても気になった。 『どうするか、いろいろあったんだけど、……まだ諦めたくないって、その子のお兄ちゃんがね』  どうするか。  いろいろあった。  諦めたくない。  そう言ったのは、兄。

(まったく、頭がどうにかなりそうだぞ)  たったこれだけのことなのに情報量が多すぎる。  反面、考えずとももう核心は二つ、掴んでしまっている。それがすぐ整理されないのは、心のどこかで理解を拒んでいるかもしれない。  だがこのままにしておくわけにもいかないと、ヴェクタスは額のあたりに意識を集中し、筋道を立てる。

(このまま植物状態で維持するか"どうするか"を検討したんだろうな)  アヴローン家はパラヴェン南部最大の貴族であり、屈指の事業主だ。息子一人、その気になれば100年でも維持しておける。だが彼等は、目覚めるまで何年でもこのままで、とは考えなかった。  それを決めるまでに"いろいろあった”。  そして最終的には、“諦めたくない"と言った"兄"の意向が通って、クライオに移された。  ということは、兄がそれを提案しなければ、 (安楽死)  父と祖父は、それを選ぶつもりだったのだろうと考えられる。

 目覚めないとはっきりと分かったなら、ただ体だけを生かしておくほうがつらい、ということもあるだろう。だが、目覚めるかどうか分からない、役に立たない体にこれ以上の資産を使いたくない、と考えたのだろうと思える。  そんなことはない、そこまで冷たい家族ではない、と、ヴェクタスには思えない。  それもまた、この僅かな言葉から知れたもう一つのことだった。

 兄エルマーは、ヴェクタスが7歳のときに養子に出された。  そもそも10歳も離れていたため、ヴェクタスが5歳の頃にはブートキャンプ入りし、家では見かけなくなった。休暇には戻ってきたはずだが、見かけた覚えもない。ただ、兄がいるということや、名前だけは記憶にあった。  そしてあるとき、人に……まさにジェイナスに、 「おまえは、兄貴みたいになるなよ、アヴローン・ボーイ」  そう言われて、どういう意味かと怪訝に思った。そして、そういえば兄さんという人がいたんだったと思いだした。  それを父に尋ねると、エルマーには精神障害があったため養子に出したのだと教えられた。  アヴローン家はなにせ南の大地主、大貴族だ。その後継者を選ぶ際に、余計な揉め事は避けなければならない。 「おまえのように利口な次子ではなく、心の弱い長子を傀儡にして、甘い蜜を吸おうとする者が必ず出る」  それを避けるためには致し方のないことだと父は言い、ヴェクタスはたしかにそうかもしれないと納得した。

 “ジェイおじさん"の言葉も腑に落ちた。そういった弱みを持てば欲深い大人に付け込まれる。愚かさ、鈍さ、弱さを見せるな、持つなということなのだと。  そしてずっと、それきり、 (ここまで50年、疑問も持たずにいたわけか)  いくら聞いた当時は子供だったとはいえ、それを疑うことは一度もなかった。  だが、父の話が事実であるとしたら、明らかにおかしなことがある。  精神薄弱で後を継ぐことなどできないと養子に出した"使えないエルマー"に何故、父や祖父の意見を覆すことができるのか。それは彼が、親族に戻ったからではないのか。  だとしたら彼に、障害などなかったことになる。少なくとも、家族の籍から外されるような、重い障害は。

 もしエルマーに本当に障害があったなら、呼び戻したところで役には立たないはずだ。  ゼルバーはまだ40歳を過ぎたばかりで、しかもアヴローンの主だ。後妻の候補などいくらでも見つかる。役に立たない障害者を呼び戻すより、“弟"を作るほうがまだしも現実的だ。  にも関わらずエルマーを呼び戻したのは、彼は実際には精神障害など持っておらず、ただ単に、ヴェクタスよりも出来が悪かったというだけなのではないのか。  だから養子に出した。  なんの問題もないのに長子を差し置いて次子に跡を継がせれば、それこそ余計な火種を生むからだ。

 ジェイナスの言葉は、兄のような弱い者になるなという意味ではなく、「跡継ぎとして使えるかどうかだけで取捨選択される、そんな存在になるな」という意味だったのではないかと、今は思う。  そして、かつての自分にとって父や祖父は、決して冷淡でも残酷でもなかった。普通に話もしたし、これを好きだと言っていただろうとなにかを買ってきてくれたりしたこともある。会社の運営を理由にして対立し、連絡すらほとんど取らなくなってさえ、家族でないと思ったことはなかった。  だがそれは、 (たまたま私が、“使える"者だったからだということか)  だから彼等は、それなりの家族だった。  だが使えなければ命すら費用対効果で考えて切り捨てる。  実際に兄はそれで家から追い出され、そしてまた必要になって呼び戻された。 (うちも大概クソだったな)  そう思うと、長い溜め息が出た。

 とはいえ、悪いことばかりではない。  兄は、自分が追い出される原因になった弟を、それでもまだ諦めたくないと言ってくれたことになる。  そしてアリールは、目覚めない"ヴェッキ"のことを、己の身に替えてもいいと言った。そうすれば美少年をはべらせることなどできなくなるのだから、命あってのものだというのに。おそらくジェイナスも、クソ生意気な小僧のことをいくらかは心配してくれているのだろうと思う。  それだけに兄にもミケリス親子にもすまなく思う。  50年も思い出さずにいるほど薄情な弟を、それでも生かしたいと望んでくれたこと。  この世界に本来生きていた少年を、“氷り姫"にしてしまったこと。

 どうにかできるならしたいが、初手から完全に理屈と理解の外の出来事だ。  自分が現れたから眠ったなら、消えれば目覚めるのか。だが自分の意志で出ていくことなどできないし、命ごと消すという荒業を選ぶ覚悟は到底持てない。そうすれば戻るという確証もないなら尚更だ。 (もし、そんな確証が得られたとしても、私に実行できるのか?)  あいにく、それを平気で決行できるほど超越はしていない。やはり死ぬのは怖いし命は惜しい。リデアンを置いていくのは心配だし、エドナが一人でやっていけるのか、それだけの自由と強さを取り戻せたのかも気になる。 (アリばば様じゃないが、育ったところは見たいしな)  ちゃんと少年になり、せめて15かそこらになるまでは。

 ただ、実のところこの先いつまでもずっと、という夢想はしていない。そこはどこまでも、愚かになれないヴェクタス・アヴローンだ。  なにより、まだ足りない。  今のエドナは、かつての人生に比べればはるかに自由だろう。リデアンも、今のところ幸せだろう。  だがまだ二人とも、ヴァレス=ヴェクタスの支配下にある。  救われた、救ってもらったという恩義に縛られている。それが選択肢を狭めている。  それでは駄目なのだ。  真の自由は、ヴェクタスに、ヴァレスに向かって、腹を立てたり嫌悪を感じたり、もう一緒にいたくないと言えるようになったところにある。

 だから彼等は、もっと変わっていい。  そして、その変わった先の未来に自分がいないことも当然あると、ヴェクタスは分かっている。  もしそうなったなら、嬉しくはないが、それでいい。  いつかエドナが我が儘になり、ヴァレスを些細なことで嫌うようになったとしても、それでいいのだ。それが自由だ。その人生の中で、次の誰かを、自分の幸せを選んでいくことこそが人生だ。  それはリデアンも変わらない。  だからせめて15かそこらまで。まだ親の助けが必要で、自分だけで生きるには社会的な制約が大きい間は。  そこから先の未来は、だから、描いていない。

(なるようにしかならない、か)  ヴェクタスは、アリール・もケリスが言った言葉を繰り返す。  どうなるかは分からない。  そして自分も臆病で利己的な一人の男だ。ヴェクタス・アヴローン少年に関わるのはよそうと思うのが、単なる逃避だとしても構わない。  今日この日にいきなりそれが崩壊したように、いつか否応なく交わるときが来るのかもしれないし、来ないのかもしれない。  だから今は、考えを整理し、自分の気持の起きどころを見つけるだけだ。  いつかはこの問題、この世界のヴェクタス・アヴローンについてリデアンには話さなければならないと思うが、そのときにはちゃんと、彼を心配させないように悩ませないように、「これこれこうで、こうだから、こうするよ」と自信を持って迷いなく言えるように。

 だから、とて、とて、と階段を登ってくる小さな足音に気付かれないよう、仮面をかぶり直す。  今日のパパは少しだけお疲れモード。上司に呼び出されまた厄介な相談をされた。頼られるのは悪くないが、少し甘やかしすぎたとでも言ってみようか。 (なにせ、レクトルスですら"私"よりは年下だからな)  少し笑ったときに、てちてちとドアを叩く音がした。