14 アリばば様と青天の霹靂

     【若芽たち】

 それは、放磁季の終わりだった。  今年の放磁季はやけに厳しかった。例年であれば必要なときにしか展開されないシールドが、ほとんど毎日のように真っ白に燃える空を遮っていた。発生器の基部は過負荷で唸り声を上げ、付近に住む住民を小さいが無視できない音と不安で寝不足にした。  ようやくその白銀が剥がれ落ち、明け暮れには空が本来の重い藍色を取り戻し、涼しい風も吹くようになった。オゾンの匂いにヒリついていた鼻腔にも、いくらかの自然な潤いが戻ってくる。  季節の変わり目にある、ほんの僅かな憩いのときである。  しかし遷磁季に入れば、今度は突発的な嵐や豪雨、それに伴う土砂災害の発生を警戒し、対処に追われる日々となる。

 ヴェクタス・アヴローンは、ヴァレス・トライオスとなり軍人としてこの3年半を過ごし、少しだけ、ほんの少しだけ、軍人というものを見直した。  自分は最低限も最低限の兵役、つまりは訓練だけを終えて投げ出してしまったし、パラヴェンからも出てしまったから知らなかったが、この星にいる軍人たちは、こういった天候とも常々戦ってきたのだ。  彼等はそれしか知らないからそれを当たり前だと思っている。だが、星外に出て、しかも様々な惑星やコロニーを訪れてきたヴェクタスにとっては、「快適な場所を選んで過ごす」のが当たり前だった。あるいは、莫大な金をかけて環境そのものを変えてしまうのが、当然だったのだ。 (子供の頃は、そんな大人の苦労など知らないからな)  しかし今はその苦労を味わう立場にいる。

 とはいえ中尉という肩書のおかげで、現場で、炎天下に立っていることはほとんどない。  しかしだからこそ、時折でも同じ場所に立ち、自分の目で見ることは重要だ。さもなければ分からないことは必ずある。そして、涼しいオフィスにいて、この炎天下で励む者たちに「もっとやれ」と言ったところで、それは強制力のある命令にしかならない。模範的なトゥーリアン軍人であれば従うだろうが、そこに納得感はないのである。  だからこそヴァレス=ヴェクタスは、こまめに現場を見に行く。そして時には彼等に混じって調練したり、作業に手を貸したりもする。それはちょっとした打算、計算ずくの行為、あるいは自分のためなのだが、ごくごく素直な若者たちとごくごく素直なマーダロン・レンティスは、すっかりヴァレスになついてしまった。 「中尉!」  姿を見つけるなりレンティスが敬礼する。訓練・作業中はそれを優先にし集中しろと言ってあるので、隊員たちは動き続けている。動きに無駄な変化は現れない。見ているから気合を入れるとか、見ていないから楽をするということがないためだ。黙々と基礎的な、しかしハードな身体トレーニングに勤しんでいる。

 レンティスはこの数年で相当頼もしくなった。  正直、ラス・オクトンでの奮戦は大したもので、彼は勲章を得た。そこまで屈強な兵だったとはヴァレスは知らず、そのことにも感嘆したが、頭脳のほうもめきめきと育っている。  報告には、まだ少し不備や不足がある。だが3年前のような、何を報告すべきかが分かっていないということはない。ヴァレス=ヴェクタスがかつてのヴェクタス・アヴローンであれば、会社は任せられなくとも、大きなプロジェクトを一つ預けてみようかとは思える器になりつつある。

「それで、あれからどうだ?」  ヴァレスは、隊員たちの中でも一回り体格のいい、マリウス・クラフォスへさりげなく目を向ける。  第十二小隊への異動希望を、聞き届けるかどうかについてだ。  マリウスは体格に恵まれ、勇敢で決断力もある。もともと戦闘員向きだ。しかし訓練期間中に見せた短絡的で独断専行なところがマイナス評価され、他者との連携、その重要性を知り身につけるべきだとして、共同作業の多い第八小隊に回されたのである。  そのマリウスが、ラス・オクトンの後で第十二小隊に行きたいという希望を出してきた。それは初期に言っていた我が儘ではなく、そこでもっと自分を磨きたい、自分に適したことをしたいという強い意思だった。

 レンティスからその相談をされたヴァレスは、実際に第十二小隊にいたレンティスの目でマリウスを観察し、やっていけそうかどうかを見極めるように言った。 「自分としては、なにも問題はないように思います。最近は、周りを見るだけでなく、気遣うようにもなりました」  前々から、考えるのは面倒だという理由でも、人の意見を聞く柔軟性はあった。ただ、それで自身が考えることは放棄していたし、自分より下と見なした者をないがしろにするところはあった。  だがここ半年ほどで、彼は大きく変わった。自分なりに考えるようになり、レンティスが「自分より上か下かで態度が変わるのは良くないし、そもそもそんなこと、決め付けるもんじゃないぞ」と注意すると、すぐに反省して努力を始めた。 「自分があっちの隊長なら、間違いなくほしい人員です」  そう語るレンティスも嬉しそうだ。この男は、部下が成長し、より良い人生を歩めそうなことを単純に喜んでいるのだろう。

「それなら、来年の再編時には考慮してもらえるよう、アドルス大尉に推薦を出しておこう。彼もマリウスのことはかなり注目しているようだから、きっと通るだろう」 「よろしくお願いします。ただ……」 「なにか懸念でも?」 「いや、単に、寂しいだろうなって。何年もこうして一緒にやってきた仲間と、離れることになるんで」  甘く生易しい考えだ。多くの官僚からは、「適性を活かし貢献できるようになることを喜ぶべきだ」と言われる。だが、現場ではそんな思いが誰かの命を繋ぐに違いないし、レンティスの強さはそこにある。可愛い妹弟たちを死なせてなるかという使命感だ。

 そんな喜ばしい一面とは別に、ヴァレスには気がかりな隊員もいた。彼については、フラットに見ろと言ったところでレンティスに先入観を与えかねないため、あえて言わずにいる。  その隊員はどこにいるかと、探そうとしたときだった。 「通信だな」  小さな刺激と電子音で着信を知り、ヴァレスは腕の端末に触れる。すると、 『トライオス中尉、職務中にすまないが、すぐに私のオフィスに来てくれないか』  カスクールだった。 「はっ。ただちに参ります」  いったいなんの用事だろうか。中尉と中佐の間にはそこそこの垣根があるため、直接呼ばれるのは"普通なら"相当珍しい。しかし、そういう"普通"よりも実務的な利点を優先しがちなレクトルス隊においてはそれほど奇異でもない。  なにより、レクトルスがひそかに抱いている改革の手駒として、カスクールは間違いなくカウントされているはずだ。であれば、同じく巻き込まれているヴァレスとの間は、思ったよりも近いことになる。

「新しい任務ですかね」 「まあ、たぶんな」  この半年と少しの間、ヴァレスはアリールの密命によっていくつかの仕事を請け負っていた。それが一段落付いたと知って、カスクールから任せたい仕事があるのかもしれない。  なんにせよ、呼ばれたら行くしかない。 「レンティス少尉、午後も、油断のないようにな。そろそろ休憩だろう」 「はっ」  互いに敬礼をかわして、ヴァレスはグラウンドを後にした。


     【季外の嵐】

 オーラン・カスクール中佐のオフィスは小さいが、整理が行き届いていて無駄がない。質素で味気ない、という感じがしないのは、不思議だ。特に飾りがあるわけでもない以上、彼の温厚で篤実な人柄が、そんな空気を生み出しているのだろう。  ただ今回に限り、そこにとんでもない異物があった。  見た瞬間、ヴァレスは固まる。 (何故、アリばば様がいるんだ……?)  アリール・ミケリス准将。その小柄で得体のしれない姿が、しかも今は何故か、ものすごい剣呑な目つきでヴァレス・トライオスを見ていた。

 わけが分からないが、ともかく自分を呼んだのはカスクールだ。カスクールに、用件を尋ねよう。  そう思ったヴァレスだったが、 「トライオスッ!!」  その前に老婆から甲高い声で噛みつかれた。 「はっ、ミケリス准将。いかが」 「そんなものどうでもいいわよ! あんたなんで言わないの!!」 (なっ、何がだ? 何をだ??)  ヴァレス=ヴェクタスにあるまじきレベルで、なにがなにやら分からず混乱する。自分は何故こんなに激烈に叱責されているのだろうか。 「なにか私に落ち度が」 「落ち度も落ち度、大落ち度よ!!」  アリールは地団駄を踏みかねない勢いだった。

 カスクールはその後ろのデスクで、ひどい頭痛でも覚えているように、そしてやけに気の毒そうな顔つきになっている。 「申し訳ありませんが、准将。私には、あなたがなにをおっしゃられているかが」  やはり最後まで言わせず、つかつかと歩み寄ってきたアリールは、大柄なヴァレスに突き当たらんばかりの距離で、伸び上がり気味に睨み上げると、 「見せなさいよ」  と打って変わった低い声で言った。 「なにを、ですか?」 「写真よ。持ってるんでしょ」 「なんの、ですか?」 「決まってるでしょ!!」  また甲高い声が爆裂し、そして、迸った。

「リデアンくんのよ!!」

 とうとうカスクールは本格的に頭を抱えてその頭を振るような仕草をした。  ヴァレスは、魂まで吐き出しそうな勢いで「はあぁ!?!?!?!?」と言いかけたが、同時に気が遠くなるほどはっきりと、痛烈に理解した。  このあけすけすぎる面食い准将は、超絶可愛いという噂の幼児を、案外傍に置いておきながら知りもせず、見れずにいたことに激怒しているのだった……。

(まあそれはたしかに……)  ティラン・レクトルスという美青年を振り回し、イケオジになった今でも賞玩する婆様である。さすがにそんな趣味を仕事場で赤裸々にすることはないようだが、ヴェクタス・アヴローン少年を美形だからと可愛がっていたことも知っているヴァレス=ヴェクタスとしては、納得しかない。  そんなアリールが、いったいどこからどうしてか、リデアンのことを聞いたらしい。  で、分かった。さすがにヴァレスのところにじきじきに乗り込んでくるほどの暴虐はできず、自分が訪れても無理はなく、ヴァレスが呼び出されても無理のない、カスクールのところに来たのだ。ヴァレス・トライオスを呼び出して、と。  そしてカスクールは、この様子ではわけを聞かされている。そして、「たしかにそうらしい」とくらい、噂を肯定したに違いなかった。

「そうおっしゃるなら喜んでお見せいたしますが、とりあえず一歩下がっていただけませんか」  ふんすっ、と鼻息も荒くアリールは言葉のとおりに一歩下がって間をあける。そしてさすがに、これだけでたらめなことをしていても、完全に暴走しているわけではない。 「邪魔だったらよそでやるわ。カスクール。それともこのままここ、貸してくれる?」  と尋ねた。それに対するカスクールの返答は、こんな二人を外に出してはいらぬ騒動になると思ったのだろう。 「どうぞ、お気遣いなく。そちらのソファをお使いください」  だった。

 ヴァレスが腰掛けると、アリールはてらいもなく隣に座る。向かい側では、いちいち出したり引っ込めたりされることになるし、ホログラム投影してはカスクールの目にまで入り、仕事の邪魔になりかねないからだろう。  端末の中に保存して持ち歩いているコレクションのフォルダを開いて見せると、 「あらまあやだ~」  ささやき声ではあるが、アリールは感嘆の声を発した。 「星の精霊なんて大袈裟なと思ってたけど、これは……お星さまだわ」  きらきらの金青の瞳。成長すると硬質な鋼色になる外殻だが、今は白みの強い灰色で、淡い銀色にも見える。 「ちょっとトライオス。これちょうだい。全部」 「なんなら、私の自宅PCにあるフォルダを送りましょうか? 3テラありますが」 「テラ……っ!? あんた……大概馬鹿ね」 「差分も大事ですので」 「普通そういう返事しないから」 「普通、あんたの息子の写真見せなさいと激怒もしませんし、有能な部下に迷惑をかけてまで呼び出しませんよ」 「私 普通じゃないもの」 「私は馬鹿ですので」 「似た者同士ね」 「似てないかたの疲れが倍増しそうなので、このへんにしておきましょう」  気のせいか、咳払いが聞こえた気がした。

「そうね。あっ、これも可愛い。ちっちゃいおてて。今2歳くらいかしら」 「いえ、3歳です。もうすぐ4歳になりますね」 「ちっちゃくない? 大丈夫なの?」 「検診では何も問題ないので、ただ小さいだけかと」 「だったらいいけど。あらやだ、これもいいわ。でもあんた、撮るの下手ね」 「自覚しています。あと、いちいち調整していると、すぐに動いてしまうので。一度でベストショットを撮れないなら、連写して良いものを選ぶようにしています」 「それで選ばないで全部 差分で残してるのね。馬鹿でしょ」 「……消せます? これ」 「……無理。消せない。これはこれでこの角度が可愛いもん。ちょっと見切れてるけど」  面食い老婆と親バカMAXの会話は、ひそひそと続く。  カスクールもさすがに、どうぞとは言ったものの気になるし邪魔には違いないのだろう。少しだけ落ち着かない様子だった。

 ただ、やがて。  ふと落ちた。  空気と、気配、沈黙。  可愛い可愛いと、ひそひそ声ではあってもはしゃいでいたアリールの明るさが、急に遠のいた。 「どうなさいましたか?」  ヴァレスが問うと、 「うん……」  とアリールは、彼女の端末に送信された、リデアンのフォトをそっと撫でた。


     【可愛いあの子】

 口を閉じ、アリールは語ろうか語るまいか考えたのだろう。  じっと待つと、 「まあ、仕事にはなんにも関係ないし、だから私への悪意さえないなら、聞かれてもいいし、聞いたからってなにも気にしなくてもいいんだけどね」  と、それはこの場にいて、どうしても聞こえてしまうカスクールに向けての言葉だ。  そしてぽつりと言った。 「あのね、実家のほうに、お気に入りの可愛い子がいるのよ」  と。

 実家。それは、彼女たち親子が住んでいる軍関係者向けのアパートのことではなく、ミケリス本家がある……かつてその領地があった場所のことだ。 「リディくんみたいな、キラキラさらさらの可愛いタイプじゃないんだけど、その子もとびっきり可愛いの。あ、ちなみに赤ちゃんじゃないわよ。そうね、今……今、ちゃんと普通に育ってたら、15かそこらかしらねぇ」 「ちゃんと、普通に、とは……」 「あっ、ごめんなさいね。死んだとかそういうんじゃないの。そういうんじゃないんだけど……」  目を覚まさないの、とアリールは言った。

 3年か、そろそろ4年になるか、それくらい前のある日、いきなり倒れて昏睡してしまった。  体は機能しているが脳波はほぼない植物状態で、 「いいとこの坊っちゃんだから、そりゃもう最初は使えるかぎりのお金使って医者を呼んだそうよ。でも駄目で」  それっきり2年が過ぎ、去年、クライオに入れられた。 「どうするか、いろいろあったんだけど、……まだ諦めたくないって、その子のお兄ちゃんがね。彼も本当に綺麗な子なんだけど、あ、年はけっこう離れてるのよ。10歳だったかしら。とにかくそれで、今は氷り姫状態。5年経ったらいったん出して、目を覚ませばよし。もし駄目でも様子を見て再治療するって決まってるんだけど……」  毎年、ミケリス親子は主人筋になるその家に、挨拶に行かなければならない。行くと可愛いその子がやってきて、大人びた挨拶をする。子供には違いないけれど家の中の誰よりもおそらく賢くて、こまっしゃくれていて、 「私のこと、アリばば様なんて呼んでねえ。大きくなったらどんな美形になるのかなって、楽しみにしてたのに」  今年も去年も一昨年も、会えていない。  しんみりと、少しだけ潤んだ目をするアリールは、奇怪な女傑ではなく、自分のではなくとも孫を案じるような、一人の老婆になっていた。

 そしてヴァレスは―――。  お察ししますというつまらない決まり文句も出てこなかった。 (それは)  まさか、ではない。  これは、確定だ。

 普通に育っていれば、今、15かそこら。  いいところの坊っちゃんで、10歳上の兄がいる。  ミケリス家の主人筋になるため、毎年ミケリス親子が挨拶に来る。  そして、アリールを、アリばば様と、呼ぶ。

 定番の社交辞令も気の利いた言葉もなく固まったヴァレスを、アリールは、 「あっ、ごめんね。嫌なこと考えさせたかしら」  もし自分の可愛い息子がそうなったらと想像してしまった、と捉えたようだ。 「あ、いえ、そんなことは……」  うまく誤魔化すこともできないが、親バカのおかげで勝手に誤魔化されたのは幸いだ。 「カスクール。あなたももしかして、嫌なこと想像しちゃった?」 「お気遣いありがとうございます。大丈夫です」 「ほんと、ごめんなさいね。でも嫌よね。替われるなら替わってあげたいわ。よその子だけど、私はもうこんな年だもの。あの子の替わりになったって、これっぽっちも惜しくない」 「血はつながらずとも、年に一度しか会わずとも、お孫さんのように愛しておられた、いえ、愛しておられるのでしょう。お気持ち、お察しいたします」  カスクールが言うと、そんなに立派なものじゃないかもだけどね、とアリールはもう一度リデアンの写真を撫でた。


     【霹靂】

 遷磁季の大嵐でも、これほどの突然ではなかった。  ヴァレスは―――ヴェクタスは、思いもしなかったところでまるっきり予想もせず、知ってしまった。  アリール・ミケリスが話す子供は、自分だ。  この世界に本来存在している自分のことだ。  そして、理屈はさておき時期が合う。 (“私"がこの世界に来たと同時に、もともといた"私"の意識が……精神が消えた……? あるいは、眠った?)  なんにせよそれで、アリールの"可愛いあの子”、ヴェクタス・アヴローン少年は昏睡状態になり、目覚めなくなった。  そして今は、クライオにいる。

 自分自身のことだ。  だが、だとしても自分のせいで、ここに本来存在していた子供の精神を消してしまったという、うっすらとした恐れが肩のあたりを包んでいる。  そんなつもりなどまったくなくとも、ーーー殺してしまったような、そんな気がしてぞっとする。  だとすれば二度と目覚めないのか。それとも、自分がいなくなれば目覚めるのか。  あるいは、昏睡の理由は別にあり、“この"ヴェクタス・アヴローンとは関係なくどこかで目覚めるか、あるいは消え去るのだろうか?

 それを考えるのは、今ではなかった。  今までで一番困難な気がしたが、今の自分の心境に近い仮面を探す。  だがうまく見つからない。  この世界の自分について不意打ちで知ってしまったこともあるし、アリールが少年だった自分を本当に、心から可愛がってくれていたということを、こんなに間近で見てしまったということもあった。 「……目が覚めるといいですね」  凡庸すぎる言葉しか出ない。  しかしこの状況においては、違和感はなかったようだ。 「あんた、案外繊細ね」  湿っぽい空気を変えるつもりもあったのだろう。アリールがそう言ってヴァレスの脇腹を肘で突いた。

「ほんとごめんね。なんだか余計なことしゃべっちゃった。目当てのものももらったし、そろそろおいとまするわ」 「いえ。……もしまたトライオスと密談がしたくなれば、お越しください」 「そんなこと言うと、本気にするわよ?」 「本気で申し上げております。ただ、余計な噂にならないように、頻度だけはご考慮いただければと」 「そうするわ。私たちはともかく、あなたに変な騒動持ち込むと、楽しむより胃に穴あけそうだから」  言われてカスクールは苦笑した。

 哀惜に潤んでいた空気が少しだけ軽くなり、ヴァレスは一呼吸する。 「これからの写真も、撮ったら送りましょうか?」 「これから以前に、さすがに3テラはやめて。っていうか、あんたこれ、どんな設定で撮影してるのよ。高精細ホロならともかく、一枚1GBの2D写真なんて普通ないわよ」  改めて自分の端末を見たアリールが、鋭い指摘を飛ばした。 「えっ!? それは……トライオス、一度、カメラの設定を見直したほうがいいぞ?」  カスクールに言われて、思わずヴァレスは彼を見る。 「そうなんですか? いや、よく分からないので、一番いいモードで撮影しておこうかと」 「とにかく、今日帰ったら、設定の中にRAWという項目があるかどうか調べて、オンになっていたら、オフにするといい。肉眼で見るだけの普通の写真に、それはいらないから」 「そんなことしてるから3テラになるのよ。あー良かった。てっきり万単位であるんだと思ったわ。まあそれでも一日に3枚平均は撮ってる計算よね。あ、それなら圧縮かけて、全部送って。自分で選ぶから」 「選ぶのですか」 「3000枚くらいなら、VIに整理させて、自分で見て探したいわ」 「……恐れ入りました」 「なにによ」  カスクールの反応に、アリールが笑いながら突っ込んだ。

 それでやっと、調子が戻ったようだ。  アリールは、せいせいした、とでも言いたげな爽快な溜め息をつく。 「まあ、なるようにしかならないのよ。だから私は、私のやりたいように、やりたいことをするだけ。それに」  と彼女は無闇に重いデータを転送された端末、それをつけた腕を軽く掲げる。 「楽しみ増えちゃった。リディくんがどんな美少年に育つか、この目で見るしかないものね」  その言葉は鋭くヴァレスの胸を刺したが、それはもう、呼ばれたときから、ともすると呼ばれる前から、ひそかに渦巻いていたことだ。 「今度、どこかで直接お目にかけますよ」  そう答えて、アリールを大喜びさせた。だが……。

 放磁季。  この放磁季の終わり、もう間もなく。  彼女は突然倒れて急逝する。  それまでにはもう、日数によるカウントダウンが始まっているはずで。  意味もなく厳しい上下と隔たりで、プライベートな交流の難しいこの軍で、実現するのだろうかと、ヴァレス=ヴェクタスは思うのだった。


     【オチ】

(あ、あっれえぇぇぇ……? もしかして、歴史が、変わった……?)  遷磁季に特有の重い空の下、おしのびでやってきたミケリス親子がトライオス家のリビングにいる。  アリールは、痩せてはいたがぴんしゃん元気だった。

 半月前、帰宅した直後に倒れた。  心筋梗塞だったという。  一度は危ないと思われたが持ち直し、そこからは驚異的な回復を見せた。  健康問題を理由に軍は辞めた。  だが、除隊したならなんの遠慮もいるものかと、息子に車を出させてやってきたのだ。

「みけいす、じゅんしょう」 「あらあら、おりこうねぇ。でも、もう准将じゃないの。だからおばあちゃんでいいのよ~」 「おばーちゃ……?」 「そう、おばあちゃん」 「おばーちゃん……」  リデアンはアリールの膝に抱えられて落ち着かない。これは絶対、彼の過去が、除隊したとはいえ准将がそこにいることで、軍人としてあるべき距離と態度を作ろうとするからだろう。  それが、突然現れた老婆に戸惑っているように見える分には、まあ問題あるまい。

「いや、ほんとごめん」  とジェイナスは心底申し訳なさそうにエドナに謝っている。  普通の民間人なら、元准将と現役中佐が家に押しかけてくるなどとんでもないことで、平気ではいられない。エドナもさすがに動揺していたが、二人がヴァレスと同じく、軍の外に出てまで地位や階級を振りかざさないことを感じたのだろう。リクウィス家での厳しい躾も役に立ち、年長者に対する自然な礼儀と、丁寧な物腰で接している。 「ちょっと母さん。リデアンくん困ってるって」 「分かってるけど、でも可愛いんだもの」  アリールは、名残惜しそうにリデアンの頭をそっと撫でてから解放した。

 さすがにエドナやリデアンの前では「とびっきり可愛い子だと聞いたから一度会いたかった」ということにした。ここをバカ正直に「顔がいいと聞いたから見に来た」と言うほど無神経ではないアリールである。  彼女はひとしきりリデアンを可愛がり、ジェイナスと共に外に出ると、 「はあ……眼福。これ絶対見るしかないわ」  と本来の調子になった。  そして、言った。 「倒れたとき、思ったのよね。ここで死んじゃったら、ヴェッキが起きても会えないし、リディくんの成長も見られないって」 (……えっ) 「あ、ヴェッキって、この間話した子のことね。だから、こんなところで死んでたまるかって思ったのよ。絶対この二人、並べて見るまで死ぬもんかって」 (ま、まさか……)  まさか。 「その執念で生き延びてくれたなら、俺も嬉しいけどさ」  普段は毒舌をかわすことが多いが、やはり仲の良い親子なのだ。ジェイナスも斜に構えてはいても口元が綻んでいる。  ただしヴァレス=ヴェクタスは、絶句していた。

 まさかアリール・ミケリスは、ただそれだけのために、自身の歴史を覆したのだろうか?  昏睡したままのお気に入りの少年が起きるのに会いたい。  小さな可愛いちびちゃんが、少年、青年へと美しく育っていくのを見たい。  その二人を並べて見てみたい。  それだけの理由で、まさか? (面食いも極まると、奇跡を起こす、のか……?)

「まあ、悪いがトライオス。これからちょくちょくこのババアが遊びに来ると思うが、勘弁してくれ」 「い、いえ、まあ、もちろん、もう軍には関係がないとなれば、出入りされても、問題はない、いや、あまりない、でしょうし……」 「そのへんとやかく言われるようなら、俺がババアの性癖暴露するよ」 「ちょっとやめてよ。私はいいけど、私に取り立てられた子らが余計な目で見られるでしょ。それからババアってなによ」 「ババアだろうがよ。ただでさえ老け顔だったのが、寝込んでますます老けたくせに」 「うるっさいわね、この非モテのチャラ男!」

 仲良く喧嘩しながら二人が去るのを見送って、ヴァレスは思う。  ラス・オクトンの結末が変わったのは、まだしも分かる。歴史のうねりとして、おそらくはA7の出来事からゆっくりと変化していったのだろう。そのために本来いるはずのない者たちがあの場にいることになった。  だがこれは……、二人の美少年を拝んでいたいという、ただそれだけでは、ないのだろうか? (いやまあ、どんな理由だろうと、リディを可愛がってくれるのはいいし、“私"をそこまで思ってくれるのも、嬉しいが……)  こんなことでも変わってしまうとしたら、この先の歴史は、どこに行き着くのだろうか?

「ヴァレス、お見送りが終わったら、早く入って。もう降り出しそうよ」  窓から呼ぶエドナの声にはっとして見上げると、濃い灰色の雲の奥に紫電が走っている。 (なるようにしか、ならないか)  “自分"のことも含めてだ。  考えねばならないときに来ているのかもしれないと思いつつ、ヴァレスはぽつりときた大粒の雨を避けるため、慌てて家に駆け込んだ。